88:お餅(ジローと忍足)


 けたまましいチャイムの音に、忍足は目を覚ました。時刻を確認するよりも先に、玄関へ向かう。訪問者に心当たりはなかったが、このまま放置していたのでは近所から苦情が来てしまうと思ったのだ。
 扉の向こうから聞こえてきた自分の名を呼ぶ舌っ足らずな声に、忍足は相手が誰であるか気づいた。小さくため息を吐いて、扉を開ける。隙間から顔を覗かせて、ジローが笑った。


 遠慮無く上がり込むと、ジローはコタツの上に持ってきた包みを広げた。がさがさと音を立てながら、四角い箱を取り出す。
「なんやの、それ」
 訝しげに眉根を寄せた忍足に、じゃじゃーんと効果音を口にしながらジローがふたを開けた。中には、丸くて白いものが敷き詰められている。ジローが、得意げに目を輝かせた。
「……これって、あれ?」
「うん!」
「正月にはつきものの」
「そう!」
 向かいに座り込んで、忍足はしげしげと丸い物体を見つめる。どれもやわらかく、つついたら指の跡がつきそうだ。
「跡部んちで、餅つきしてきたんだ!」
 ジローの言葉に、忍足は目を丸くする。跡部の家へは、テニス部の関係で忍足も何度か訪れたことがあった。およそ餅つきには似つかわしくない、立派な洋館だったはずだ。渋い顔つきになった忍足に、コタツに顔を乗せながらジローが教えてくれる。
「亮ちゃんが、ね」
 その一言で、忍足はすべてに納得がいった。宍戸のためならどんな労力も惜しまない跡部のことだ、おおかたテレビでも見ながら漏らした宍戸の気まぐれな言葉のために、本当に一式用意してしまったのだろう。宍戸の困惑した表情が容易に想像つき、忍足は苦笑した。
「餅つきしてきたんか」
「うん。昔よーちえんでやったことあるけど、久しぶりだったし楽しかったよ!」
 杵が重かったとはしゃぐジローの頭を、よかったなあと撫でてやる。
「てことはこれ、つきたてなんやな」
「そうだよ! 忍足と食べようと思ってもらってきたんだ〜」
 ジローの口振りから、まだ一欠片も食べていないのだとわかった。わざわざ自分と食べようと我慢してくれたのだろうか。なんだか胸がいっぱいになり、忍足は誤魔化すようにお茶を入れようと立ち上がる。ジローが鼻歌を歌いながら皿を取り出した。


「こっちのがあんこで、こっちのはなんもないよ」
「美味そうやな。いただきます」
「いただきまーす!」
 お互い一つずつ手にとり、頬張った。つきたての餅はやわらかく、しっとりとしていて口当たりがよい。これなら、幾らでも食べられそうな気がする。
「うんめー! な、忍足、美味いよな!?」
「せやな。美味いと思うわ」
 美味い美味いと次々口に入れるジローに、詰まらせないかと心配になって忍足は茶を差し出した。
「サンキュー忍足!」
 湯飲み茶碗を受け取ると、ジローは一気に喉に流し込む。
「うっめー!」
「いや、ただの日本茶やで?」
 ジローが大袈裟に喜ぶので、忍足はなんだか恥ずかしくなった。
「えー、だって、美味いもんは美味いし!」
 力強く主張しながら、ジローがふと忍足の顔に目をとめる。大きな目でじっと見つめられ、忍足は身じろぎした。
「なに、……あんこでもついとる?」
 気になって頬を触ったが、特になにもついていないようだ。ジローが、ふるふると首を振る。
「忍足だなあと思って」
「は?」
 意味がわからず、忍足は面食らった。ジローは元から言葉の足りないところがあり、忍足は脳内で補足することがすることが多々あったが、さすがにこれだけでは理解できない。首を傾げてみせると、ジローが微笑んだ。
「忍足、ずっといなかったじゃん?」
「ああ……」
 年末から、忍足は実家へ戻っていた。こちらへ戻ってきたのは、今日の朝方だ。そのことを言っているのだろうと頷くと、ジローが、だからと続ける。
「俺すごいさみしかったの。さみしかったんだよ、忍足がいなくて」
 そっと手をとられ、ジローのぬくもりに忍足は顔を赤らめた。ひとつ咳をして、ジローを見据える。
「……跡部んとこにおったねやろ? 宍戸も一緒に、」
 責めるつもりはなかったが、ジローは忍足の言葉に眉尻を下げた。
「でも、忍足じゃないよ」
 遮るように、ジローが言葉を発する。
「跡部は大好きだよ。亮ちゃんも、大好きだけど」
 でも、忍足じゃないから、とジローが口をとがらせた。ぎゅうっと、握られた手に力がこめられる。
「忍足がいなくて、さみしかった」
 子供のように言い募るジローに、どう返したらよいかわからず、忍足は無言で頷いた。


 なんてあたたかく、心地の良い場所だろう。
 実家から戻ってきて、忍足はあまりに寒々とした景色に驚いた。この部屋は、これほど広かっただろうか。早々に布団に入ったのは、疲労のせいだけではなかったはずだ。
 それが今は、まるで別の場所のようにあたたかく、居心地が良かった。たったひとり、増えただけだというのに。
 繋がった手からジローの想いが伝わるようで、忍足は目を揺らす。
「……俺もな、ジローがおらんくて、さみしかったわ」
「おかえり、忍足」
 満面の笑みで、ジローが抱きついてきた。


【完】


2005 04/21 あとがき