春、うらら。(切原と宍戸)
 
 
 
 
 その日、二年生に進級したばかりの切原赤也は、先輩達につれられて東京で行われている地区大会の様子を見学にきていた。
 王者と呼ばれる立海といえども、他校の情報収集を怠るようなことはしない。
 とはいえ、切原は内心、見に来るだけ無駄だと思っていた。
 自分が出るわけでもないのに、わざわざ東京まで足を伸ばすだなんて。
 強い奴を目の当たりにしても、挑むことすらここでは許されないのだ。
 自分は情報収集なんて柄じゃないし、分析なんてする気にもならない。
 そんなものは、柳先輩が一人でやればよいのだ。
 それでも休んだりせず会場まで足を運んだのは、全くの気まぐれといって良いだろう。
 丸井などは、てっきり切原がさぼると思っていたらしく、会場へ顔を見せたことに酷く驚いていたぐらいだ。
 
 
 試合が始まる前のぴりぴりとした空気を肌で感じながら、切原は辺りを見回す。
 自分が試合をするわけでもないのに、気持ちが高揚するのを感じた。
 見学するだけなんてつまらないけれど、こういう緊張感のある空気はとても好きだ。
 ああ、自分も早く試合をしたい。
 強い相手と戦って、自分の力を試したい。
 
 
 うららかな陽気とは相反して、切原の心は闘争心でいっぱいだった。
「あ〜かや!」
 丸井が、ガムを膨らませながら切原の顔をのぞき込んでくる。
 反射的にはり倒しそうになるのを何とか堪えると、切原は不機嫌さを隠さず丸井を睨み付けた。
「なんすか」
「なんすか、じゃねえっての! お前なあ、禍々しいオーラ出し過ぎ! 俺の可憐なオーラがかき消されっだろう。ざけんなっつの」
「かれん? あんたのどこが可憐だっつーんすか」
「全てが!」
 胸を張る丸井を、今度こそ地面に沈めてやろうかと思ったその時、視界の端で何かが揺らめいた。
 何だろうと目を向けると、長い髪を風になびかせている人物が、こちらを向いて立っていることに気づいた。
 どうやら、あの髪が目に入ったらしい。
「あ。あれって、氷帝? うげえ、ずっりー、あっちにゃ女マネがいるっすよ!!」
「何い!?」
 さきほど沈めそこなった丸井が、切原の言葉に身を乗り出す。
 丸井は食い入るように相手を見つめてから、くるりと切原に向き直った。
 無言で、ぽかりと切原の頭を叩く。
「った! 何すんすか、あんたは!」
「てきとーゆうんじゃねえ! ありゃ、男だろうが。よーく見てみろい」
「えー! 嘘っ」
 不満げに言う丸井に、切原は目をこらしてみた。
 うーん。よく見たら、……確かに、男かも、しんない。
 じっと見ていることに気づいたのか、少年がこちらへやってくるのが見えた。
 その顔は真剣で、怒っているようにも見える。
 切原は、あーあと丸井に向き直った。
「こっち来るっすよ。丸井先輩が、じっと見たりすっから」
「あ? なんで俺のせいになってんだよ! 赤也が悪いんだろ!」
 言い合っている内に、少年はどんどん近づいてくる。
 二人の前で足を止めると、ぶっきらぼうな口調で言った。
「あのよお。丸井ブン太って、あんただろ?」
「へっ」
「ほらやっぱ、あんたが悪いみたいっすよ!」
 名指しされた丸井は、大きな目をぱちぱちと瞬かせている。
 少年は、丸井を見据えたまま微動だにしない。
 丸井はえーっとえーっと、などと口走りながら、きょろきょろと視線を彷徨わせている。
 庇ってくれる相手を捜しているようだったが、生憎、皆思い思いの場所へ散っていた。
 切原以外の知り合いが周囲にいないことを知ると、
「んだこらあ! そっちがその気なら、受けてやってやるぜ!」
 丸井は、威勢良くそう叫んだ。
 予想外の反応だったのだろう、少年が目を見張った。
 丸井の異変に気づいたのか、ジャッカルが駆け寄ってくる。
 それを目の端にとらえ、丸井はこう続けた。
「ジャッカルが!」
「俺かよ!」
 そのまま言い合いに突入した丸井とジャッカルに、切原はどうしたものかと肩をすくめる。
 こりゃあ、益々怒らせちゃったんじゃないかなあ。
 ちらりと横目で見ると、少年は一瞬肩を震わせ、それから思いきり吹き出した。
「変な奴ら……」
 堪えきれないという風に笑う少年に、切原はどきりとする。
 怒っているのかと思うぐらいきつかった目元が、笑うと一転して幼くなって、その変化に思わず見とれてしまう。
 なんて、なんて、かわいく笑う人なんだろう。
 
 
 笑い出した少年に、丸井とジャッカルも口げんかをやめる。
 どうやら、喧嘩を売りに来た訳ではないらしい。
 少年は笑いをおさめると、改めて丸井に向き直った。
「うちの奴がさ、一昨年の新人戦であんたを見てから、なんかファンになったみたいで」
「ファン!? 俺の!?」
 思いがけない言葉に、丸井が目を丸くする。
 少年は頷くと、良かったら握手してやってくれないかと言った。
 自分が大好きな、もっと言えば、「皆に愛されている自分が大好き」な丸井が、嫌と言うはずがない。
 快諾する丸井に、少年は安心したように微笑すると、背後を振り返って誰かを手招きした。
 
 
 呼ばれて駆けてきたのは、金色の髪をした小さな少年。
 もしかすると、丸井よりも小さいのかも知れない。
 勢いよく走り寄ってくると、丸井の前でぴたりと止まってみせる。
 それから、丸井と少年を交互に見ては、もじもじと手を動かした。
 少年は、今更照れんな、と金髪を促した。
 丸井が右手を差し出すと、金髪はぎゅうっと音がしそうなくらい強く両手で握りしめる。
 手を握ったまま、自分がどれだけ丸井に憧れていたかを語り出した。
 いい加減手が痛くなってきたらしい、丸井の顔が段々つらそうになってきたところで、少年がもういいだろうと手を離させた。
「やった! ちょう嬉しい、ありがとう〜!」
「ま、握手して欲しかったらいつでも来いよ。何ならサインもつけるぜ?」
「マジで〜!? 今度マジック持ってくるし〜!」
 飛び上がって喜ぶ金髪に、良かったなと少年が笑いかける。
 まるで自分のことのように、嬉しそうに。そして、愛しそうに。
 
 
 その笑みを見た途端、切原はきゅうと胸が苦しくなった。
 なんて顔で、笑うのだろうこの人は。
 この笑顔を、自分に向けてくれたら。
 こんな顔で、自分のためだけに笑ってくれたなら。
 
 
 そう考えただけで、鼓動がはやまるのを感じる。
 一体自分は、どうしてしまったのだろう。
 どうしてこんなに、胸が痛いのだろう。
 
 
 誰かを見ているだけで、泣きたくなるだなんて。
 こんな気持ちは、今まで知らなかった。
 
 
 ありがとうな、と手を振って去っていく後ろ姿を、切原はいつまでも見つめていた。
 立ちつくす切原に、どうしたのかと丸井が首を傾げている。
 そこへ、いつの間に来たのか、柳が声をかけてきた。
「あれは、氷帝の宍戸亮だな。ライジングを得意とする、カウンターパンチャータイプ」
「柳先輩」
 氷帝のことまで、既に調べ上げていたのか。
 淡々と読み上げる柳に、切原は耳を傾けた。
「九月二十九日生まれ、B型」
「おっ。誕生日が近い! って、なんでんなことまで知ってるんすか……」
「いつか、役に立つこともあると思ってな。実際、今役立っているだろう?」
「うっ」
 自分の気持ちを読まれたようで、切原は少し恥ずかしくなった。
 だが、柳はきっと、切原が試合相手として宍戸を気にしていると思っているのだろう。
 自分でもまだよくわからないこの想いを、柳に気づかれる筈がない。
 そう思ったのもつかの間、次の瞬間、切原は柳の恐ろしさを思い知ることになる。
「今現在、交際をしている相手はいないようだ」
「……っしゃ!」
 思わずガッツポーズをとった切原を、柳の開いているのかいないのかわからない両目がとらえた。
「……ひっかけなんて、汚いっすよ!」
「ひっかけ? なんのことだ」
 
 
 柳に遠回しにからかわれつつ、切原は今日一日、氷帝の試合を見ることに決めた。
 
 
 
 
 【完】
 
 
 
 
 
2004 05/24 あとがき