空がこんなに青いから(切原と宍戸)
 
 
 見渡す限りの青空に、切原は目を輝かせた。
 暑くもなく寒くもなく、衣替えしたばかりの半袖姿でいるのにちょうどよい気候。
 こんな日は、訳もなく幸せな気持ちになれる。
 
 
 どこまでも続く青色を眺めている内に、ふと心に浮かんだある人の笑顔。
 
 
 切原は部室へ向かっていた足を止めると、その場で踵を返した。
 目指すは、少し離れた東京の空の下。
 空がこんなに青いから、貴方の顔が見たくなったのです。
 そう言ってやったら、彼はどんな顔をするだろうか。
 
 
 
 
 
 切原の通う立海大附属中から目的地までは、電車を乗り替えて55分、更に徒歩で5分。
 遠距離という程遠くもないが、中学生の身としては、そう気軽に遊びに行ける距離でもなかった。
 少ない小遣いからやりくりして、それでも会いに行けるのはせいぜい月一程度。
 本当はもっと会いたい、できれば毎日だって顔が見たい。声が聴きたい。
 
 
 一度、どうしても顔が見たくなって、自転車に乗って会いに行ったことがある。
 何時間もかけて辿り着いたそこは、既に星明かりに照らされていて。
 散々迷って、家へ押し掛けた切原を、彼は呆れながらも迎え入れてくれた。
 だが矢張りこっぴどく叱られ、もう二度とこんな無茶はしないと約束させられてしまった。
 
 
 彼は一見柄が悪く、短気な人間のように思われがちだが、その実とても優しくて面倒見のよい人間だ。
 だからあの時凄い剣幕で怒鳴られ、切原は普段とのギャップにすっかり萎縮してしまった。
「怒られるっすかねえ……」
 電車に乗ったところで、ようやくその可能性に思い当たった。
 何と言っても、自分は練習をさぼって来てしまったのだ。
 何よりテニスを愛する彼は、そのことを知ったら酷く怒るに違いない。
 
 
 怒鳴られるだけならまだしも、もう口をきいてくれなくなるかも知れない。
 そんな奴だとは思わなかったと、嫌われてしまうかも知れない。
 いつだったか、後輩が部活をさぼったといって憤慨していたことがあった。
 彼は、テニスに不真面目な人間を容赦しない。
 
 
 考え無しに飛び出してきてしまったことを、切原は後悔した。
 
 
 それでも、ここまできて引き返すことなど、到底出来そうになかった。
 あの青空を見たときから、切原の気持ちは全て彼に向かってしまっているのだ。
 今から戻っても、ラケットを握る気にはなれないだろう。
 
 
 彼に見つからないように、練習姿だけでも見られればよい。
 そう思い直すと、切原は手すりに寄りかかった。
 
 
 窓の外に見える空も、突き抜けるように青い。
 切原は、そのことに安堵した。
 この青い空の下、動き回っている彼をこの目に映したい。
 
 
 例え、彼が自分を見なくとも。自分に、気づかなくとも。
 彼はきっと、自分のことなど思い出しもせず、テニスに没頭していることだろう。
 そんな彼を好きになったとはいえ、切原はそれが少し淋しかった。
 
 
 
 
 
 氷帝学園の文字が目に入り、切原は立ち止まる。
 いつもなら中へ入るのだが、今日は秘密裏に行動しなければならない。
 切原はぐるっと外をまわって、テニスコートのある場所までやってきた。
 フェンスから中を覗き、彼の姿を捜す。
 彼の長い髪は特徴的で、これだけ大勢の部員がいても、見つけだすことは容易い筈だった。
「……あれ?」
 常ならすぐ見つかるはずの彼の姿が、どこにもなかった。
 見落としたのかともう一度捜しても、やはり見つからない。
 どうしたのだろう、他の正レギュラーは皆揃っているというのに。
 昨日電話した時も特におかしなところはなかったから、具合が悪いということもないだろう。
 このまま待つべきか、家まで行ってみるべきか。
 迷っている切原に、声をかけてきた者がいた。
「あ、やっぱり。立海の切原くん、ゆうたっけ? 宍戸の、やんな」
「あ。忍足、……さん?」
 訛りのある話し方に、相手が彼の友人である忍足侑士だと気づく。
 忍足の話は、彼からいつも聞かされていたのだ。
 この人は彼と同じクラスで、同じ部活で、日々をともに過ごしている。
 そう考えると、羨ましいやら妬ましいやら、自然と目つきが鋭くなってしまう。
「そない睨まんたって? 宍戸なあ、なんか大事な用とかで、部活早退したで」
「えっ!」
 忍足の言葉に、切原は驚いた。口をぽかんと開けたまま、固まってしまう。
 あの、彼が。テニスしか目に入っていないような、彼が。部活を休むだなんて、よほど大切な用事なのだろう。それを邪魔するだなんて、とてもじゃないが出来そうにない。
「……そうっ、すか」
「ああ。せっかく会いに来たのになあ。そや、電話でもしてみたらどうや?」
 そう助言してくれた忍足へ曖昧に返すと、切原は駅へ向かって歩き始めた。
 電話をすることは簡単だけれど。ここまで来ていることを告げれば、時間を作ってくれるだろうけれど。
 自分の我が儘で、彼を困らせたくはなかった。
 ただでさえ年下ということで、彼には甘やかされているのだ。
 彼が忙しいときくらい、迷惑をかけたくなかった。
 
 
 駅前までの道のりを、来たときとは正反対の重苦しい気持ちで辿る。
 電車代が無駄になったとか、そんなことは問題ではなかった。
 
 
 ただ、ただ、今、彼に逢いたい。
 彼に逢って、声を聴いて、この手で抱きしめて。
 今そうしたいというこの気持ちが、報われない。
 それが、哀しかった。
 
 
 空はこんなに青いのに、どうして俺はこんなに暗い気持ちでいるのだろう。
 
 
 澄み切った青空を見ると、なんだかとても苛々してくる。
 今すぐ暗くなって、大雨でも降ればいいのに。
 雷鳴が轟いて、道行く人が右往左往すればいい。
 
 
 みんなみーんな、不幸になればよいのだ。
 
 
 そんなことを考えながら歩いていたせいか、切原はそれに気づかず通り過ぎた。
 通り過ぎたところで、後ろからカバンを引っ張られる。
「何すか」
 ナンパだろうかと不機嫌な顔で振り向くと、目の前に、困ったように笑う彼が立っていた。
「……っ、な、何、してんすか、あんた!」
「や。それ、こっちの台詞っつーか」
 彼は、これから出かけるところだったのだろうか、制服姿のままラケットの入ったカバンを背負っている。
 彼の質問に、切原はどう答えたものかと思案した。
 黙り込む切原に、彼はもしかして、と口を開く。
「もしかして、俺に会いに来た……とか?」
「う」
「お前今日、部活あったよなあ?」
「うう」
 ちくちくと責められ、切原は徐々に俯いた。
 微かに笑う気配がして、少しだけ顔を上げる。
 彼が、照れたように笑っていた。
「おんなじ」
「え?」
「俺も、お前に会いに行こうと思って」
「……はあ? え、だって、大事な用事があるって……」
 切原が目を丸くしてそう言うと、彼は拗ねたように口を尖らせる。
「お前に会うのって、大事な用にならないわけ?」
「えっ!」
 彼の口から次々と飛び出す予想外の言葉に、切原はどうしたらよいのかわからず瞬きをくり返した。
「俺、部活さぼったって、怒られるかと……」
「そりゃあ、毎回そうだったら怒るけど、お前いつも、部活ないときに来るじゃん」
「……亮くん……」
 ちゃんと、自分が気をつけていたことをわかってくれていたのかと、切原は感動する。
 そこでようやく、今目の前に、会いたくてたまらなかった彼がいるのだと実感した。
 それも、自分に会いたくて、そのために大好きなテニスを休んでくれたのだ。
 
 
 どうしよう、すごく抱きしめたい。今すぐキスしたい。好きだーって叫びたい。
 でもさすがに、怒るだろうなあ……。
 せっかく会えたのに、怒らせてしまっては勿体ない。
 切原はなんとか我慢すると、
「そういえば、なんで急に俺に会いたくなったんすか?」
「え? や、別に理由はねえんだけど」
「そうっすか」
「まあ、しいて言えば」
 
 彼が、その後はにかんだように続けた言葉を聞いて、切原は、今度こそこらえきれずに飛びついた。
 
 
 
 
「空がこんなに青いから、かな」
 【完】
 
 
 
2004 05/16 あとがき