名も無き想い(跡部と宍戸)


 昔から、なにかと突っかかってくる奴がいた。俺様は生まれたときから完璧で、何をやらせても上達が早い特別な存在だと、周囲からも認められていた。だがそいつは、そんな俺様が気にくわないらしく、ことあるごとにお前には負けない、などと勝負を挑んできた。
 もちろん、俺様が負けたことなどただの一度もないのだが。
 そいつはそれが余程悔しかったらしく、俺様の後を追いかけてくるようになった。俺様がテニスを始めれば同じようにテニスを始め、いつでもどこでも、そいつの視線を感じない日はなかった。
 そして俺様が、それを心地よく受け止めていたのも事実だ。そいつの真っ直ぐで、どこまでもひたむきに自分だけを追いかけてくる視線が、普段おだてることしか知らない大人に囲まれていた俺様には、とても気持ちがよかった。
 幼かったあの頃、その想いが一体なんなのかまでは気づけなかったが、いつまでも、そいつの目は俺様だけを見ているだろうと、そう信じていたのだ。


 関東大会の抽選会場である立海大附属から戻った跡部は、真っ直ぐにある場所へと向かった。そこは会員制のテニスコートで、自宅に設備の整っている跡部が赴くことはほとんどなかったが、今日ばかりは別である。
 跡部は、そこにいるであろう相手に、用があった。
 車から降りた跡部は、同乗していた後輩を送るよう運転手に言いつける。足早に建物に入ると、跡部に気づいた従業員が駆け寄ってきた。コートを用意しますかと言う相手に首を振ると、跡部はそのままとあるコートへ向かう。
 観客席の扉を開けると、誰かが打っている音が聞こえてきた。だが、返す者はいないらしく、それは鈍い音を立ててコートに打ち付けられる。
 目の前の光景に、跡部は知らず顔をしかめた。長身の男が、対峙した長い髪の男へ、サーブを打ち込んでいる。ラケットも持たない相手に、渾身の力を込めたサーブがぶつけられた。
 異常だとしか、言えないだろう。だが跡部は、止めるつもりはなかった。止めたところで聞く相手ではないし、どこまでやれるのか見てみたい気もする。
 だが、それ以上に跡部は怒っていたのだ。
 何故、コートに立った男がこんな練習にもならない練習をする羽目になったのか。その理由があんまりくだらなくて、跡部は腹が立った。そして、それに気づけなかった自分自身にも。
 ボールを身体で受け止め崩れ落ちた男に、サーブを打っていた男が駆け寄る。もうやめましょうと言う相手に、長髪の男は首を振った。どんなことをしても、自分はあの場所へ戻るのだと、頑なに拒んだ。
 男の目が、不意に観客席の跡部を捉える。その目が大きく見開かれたのを確認し、跡部は促すように席を立った。跡部が通路まで戻ると、コート側の扉から転がるように男が飛び出してくる。
 振り返った跡部を見とがめ、非難するように口を開いた。
「跡部! お前、なんでここにいるんだよ!?」
 ゆっくり向き直ると、跡部は皮肉げに笑ってみせる。
「ずいぶんなご挨拶じゃねえか、宍戸」
 宍戸が、顔をこわばらせた。服からのびた手足には、無数の傷跡が残っている。あんな無茶な練習をしていれば当然だ。顔も、身につけた衣服もぼろぼろで、跡部が唯一認めていた美しい髪さえ、今は薄汚れ張り付いている。
「みっともねえ」
 吐き捨てるように言ってやると、宍戸が顔をゆがめた。泣くだろうか。跡部は一瞬そう思ったが、宍戸は何も言わずに唇をかみしめる。震える手を握りしめ、必死になにかを堪えているようだ。
 その表情に、昼間出会った男の顔が重なった。へらへらと笑いながら自分に声をかけてきた、立海の選手。
 どんどん増していく怒りと後悔に、跡部は宍戸をにらみ付ける。
「あんなガキと遊んでっから、こんな目に遭うんだよ。自業自得だ」
 宍戸を責める言葉は、だが違う意味で伝わったらしい。宍戸が、顔を上げて目つきを鋭くした。
「あいつのせいじゃねえ!」
 叫ぶように言うと、宍戸は怒りのためか肩を震わせる。
「これは、俺の油断が招いた事態だ。あいつには、ひとつも関係ない」
 きっぱりとした口調で、宍戸が言った。言い訳をせず、己が全て悪いのだと認める宍戸の潔さは、跡部が好む部分の一つだ。
 だが、今だけはそれにどうしようもなく腹が立った。むかむかと、なにかが腹の底からこみ上げてくる。その感情がなんなのか、考える前に跡部は口を開いた。
「そうかよ。まあ、せいぜい足掻くんだな」
 宍戸が何かを言う前に、跡部は背を向けて歩き出す。とにかく、腹が立って仕方がなかった。


 跡部が宍戸に会ってから数日後、滝に勝利した宍戸は見事正レギュラーへと復帰した。ぼろぼろの宍戸に、休ませた方がいいと判断した跡部は、鳳へ散らかった髪を片づけるよう指示し、宍戸を正レギュラー用の部室へと連れ込んだ。大丈夫だという宍戸を、無理矢理ソファーに寝かせる。
 ソファーに転がった宍戸は、荒く息をつきながら、それでも満足そうな顔をしていた。切られてしまったみすぼらしい髪に、跡部は無意識に手を伸ばす。宍戸が、はっとしたように跡部を見上げた。それでも何も言わずに撫でていると、宍戸が悔やんだように目を伏せる。
「悪い」
 ぽつりと、それは小さなつぶやきだったが、二人しかいない部室ではよく響いた。なにを謝っているのかと、跡部は眉を上げる。宍戸が、跡部の指先から逃げるように顔を逸らす。
「お前が……、お前、気に入ってたんだろ、俺の髪」
 確かに、一度だけ褒めたことがあったような気がしたが、何故謝られる必要があるのかわからない。跡部は首を傾げ、そして気づいた。宍戸の髪が、一体なんのために伸ばされていたのか。あんな、気まぐれのような自分の言葉を、宍戸はずっと覚えていたのだ。
 驚きに、跡部は微かに身を引いた。跡部の反応をどう受け止めたのか、宍戸がつられるようにこちらを向く。
「……悪かった」
 もう一度謝罪を口にする宍戸に、跡部は首を振った。少しだけ表情を和らげ、宍戸を見下ろす。
「構わねえよ。お前にゃ、それより大切なもんがあるってことだろう」
 それが、自分ではない誰かであることに気づきながら、それでも跡部は微笑んだ。宍戸は、自分の手で道を開き、自分の意志で戻ってきたのだ。何を犠牲にしても、取り戻したいものがあったのだろう。それを、どうして責めることができようか。
 いつになく優しい笑みを浮かべる跡部に、照れたのか誤魔化すように宍戸が口を開いた。
「俺は、どうしても戻りたかったんだ」
「ああ」
「お前に負けたまま、逃げ出すような真似したくなかったからな」
 全くもって予想外の言葉に、跡部は呆然と目を見開く。宍戸が、真っ直ぐに跡部を見上げていた。以前は当たり前のように追いかけてきた視線にふたたび貫かれ、ぞくりと跡部の背筋をなにかが上っていく。
 宍戸が、あれほど貪欲に取り戻そうとしていたものは、自分にはなんら関係のないものなのだとばかり思っていた。だが、宍戸の目はいまも自分だけを見ている。
 そうだ、そもそも宍戸がテニスを始めたきっかけも、いまだに続けている理由も、全ては自分にあったのだ。どうして、忘れていたのだろう。いや、当たり前すぎて気づかなかったのか。
 どうしようもない高揚感に包まれ、跡部は声を上げて笑った。
「笑うな!」
 馬鹿にされていると思ったのか、宍戸が身を起こして抗議してくる。笑みを浮かべたまま視線を向けると、びくりと宍戸が後ずさった。その頭を捕らえて引き寄せると、跡部は感情のままに口づける。逃げようとする身体を押さえつけ、繰り返し唇を押しつけた。
「な、なにしやがる!」
 ようやく逃げ出した宍戸が、顔を真っ赤にして怒鳴る。跡部は肩をすくめると、とびきりの笑顔を浮かべて言った。
「褒美だ」
「……はあ!?」
 まだ喚いている宍戸を置いて部室を出ると、跡部は空を見上げる。どこまでも広がる青空に、珍しく目を奪われた。


 今なら、わかる。宍戸があの男をかばったとき、こみ上げてきた感情の正体が。
 今なら、わかった。自分が、幼い頃から宍戸に対して抱いてきた想いの名前が。
 だが、跡部はこの想いに名前を付けることを拒んだ。自分と宍戸は、このままでいいのだ。
 しみるような青さから目を離し、跡部は歩き出した。


【完】


2005 02/22 あとがき