戻れない場所(仁王と宍戸)


 芝生へ寝転がり一向に動く気配のない切原へ目をやって、仁王はため息をついた。先ほどの試合内容を見ても、切原が何か鬱屈していることはわかる。だが、理由は不明のままだった。心当たりがあるにはあるのだが、自分が口を挟んだところで事態が好転するとも思えない。どうしたものかと、仁王は帰り支度を終えたチームメイトへ目を向ける。何か食べて帰ろうと言いながら、丸井がちらりと切原を一瞥した。その心許ない表情に、仁王は腹を決めた。
「参謀!」
 柳を呼び止めると、小さく手招きする。人に聞かれたくない話だと察してくれたのか、柳は何も言わずにこちらへやって来た。
「どうした」
「宍戸の連絡先、知っちょる?」
 柳は、少しだけ驚いた顔をして首を振る。
「さすがに、そこまでは」
「そうか……」
 柳が知らないとなると、後は真田から跡部に連絡をとってもらったほうが早いだろう。跡部が宍戸まで話を回してくれるかどうかわからないが、賭けてみるしかない。一瞬のうちにそう判断し、真田へ声をかけようとした仁王へ、柳の声が届いた。
「そこまでは知らないが、今日宍戸が氷帝の補習に出ていることは知っている」
 振り向いた仁王に、柳が頷く。
「午後は図書室で自習のはずだ。今から行けば間に合うだろう」
 何故そこまで知っているのかと仁王が驚くと、柳は心外だという顔をした。
「赤也のことを気にかけているのは、なにもお前だけではない」
「……そうやね」
 一つ頷くと、仁王は携帯で時刻を確かめる。まだ昼前だ。今から赴けば、宍戸を捕まえることができるだろう。背を向けようとした仁王へ、引き止めるように柳が口を開く。
「お前が、そこまでお節介だとは知らなかったが」
 仁王は口の端をあげると、踵を返した。
「参謀でも、わからんことはあるんじゃね」
 少しだけ愉快な気持ちになる。どこに行くのかという他の部員の声を背に、仁王は駅へ向かった。


 補習を終えた宍戸は、ジローを連れて食堂へ来ていた。休日なので食堂自体は営業していなかったが、自動販売機は動いている。ペットボトルを購入すると、宍戸は弁当を広げた。向かいに座ったジローは、持ってきた昼にも手をつけずまどろんでいる。
「食べないのか?」
「んー」
 小さく声を出すと、ジローはテーブルに頭をつけ本格的に寝る体勢に入ってしまった。補習は午前中で終わったので、ジローが寝てしまっても問題はないとはいえ、一人で食べるというのもつまらない。午後から、忍足が勉強を教えに来てくれることになっている。早く来いと電話してみようか。そう思って取り出した携帯が機械的な音を発し、宍戸は焦った。
 メールは、部活に出ているはずの後輩からだ。昼休憩中だという後輩へ、迷って結局返信しなかった。携帯を閉じると、いつの間に起きたのかジローと目が合う。
「わ、びびった……。なんだよ、起きたなら飯食おうぜ」
 ジローの弁当を指すと、宍戸は携帯を脇へ置いた。ジローの目がそれを追って動く。
「最近、メール来ないね?」
「あ? 今来たじゃねーか」
 何を言っているのかと目を向ければ、ジローはぼんやりした顔で携帯を眺めていた。
「曲が違う」
「なに、」
 聞き返そうとして、宍戸は以前ジローに言われた言葉を思い出す。
 ──亮ちゃんさあ、最近よくメールしてるよね?
 ──いっつも同じ曲だよね。同じ奴?
 ぼんやりしているようでよく見ていると、あのときも思った。
 何も言えずにいる宍戸に、しばらく黙っていたジローがごめんねと頭を下げる。
「ごめんね亮ちゃん、俺おかしなこと言った?」
「いや」
 首を振って、宍戸は視線を落とした。箸をしまい、弁当のふたを閉じる。先ほどまであったはずの食欲が、完全に消え失せていた。
「亮ちゃん……」
 ジローが心配そうに目を向けてきたが、反応する気になれず視線を逸らす。普段の宍戸なら、絶対にこんな態度はとらない。ジローにだけは心配をかけまいと、無理にでも笑ってみせただろう。それができないということは、自分で感じている以上のダメージを受けているということか。小さくため息をついて、宍戸はテーブルに突っ伏した。


 切原に別れを告げたのは、宍戸だ。すがる切原を切り捨てたのも宍戸だというのに、何故こんなにも気分が沈むのだろう。
 切原とつきあっている間、宍戸の一日は切原で始まり、切原で終わっていた。切原のメールで起こされることも度々あったし、返信を面倒だと思うこともあった。切原はわがままで、要求も多かった。そして、疑い深い。信じてもらえないということがこれ程つらいことだとは、切原とつきあうまで想像もしていなかった。
 好きという気持ちだけでは続かないこともあるのだと知った。無理だと、思った。切原のことは好きだ。けれど、これ以上切原の要求に応えることはできないと感じた。宍戸にとって何よりも大切なものを、切原は何よりも疎ましく思っていた。自分も同じものを抱えているくせに、宍戸からそれを奪おうとするのだ。
 これしか道はなかったのだと、宍戸は今でもそう思っている。
 それでも、痛む胸を癒す方法まではわからなかった。


「宍戸!」
 突然かけられた声に、宍戸はびくりと身体を起こした。同じクラスの者が、何人か食堂の入り口に立っている。
「よお。帰ったんじゃねえの?」
 一緒に補習に出ていたクラスメイト達は、帰ると言って立ち去ったはずだった。
「そーだったんだけど、なんか校門のとこにテニス部っぽいのがいるぜ?」
「は?」
 面食らう宍戸に、クラスメイトは慌てて付け加える。
「他校生じゃねえかな、あれ」
「宍戸と同じようなバッグ背負ってるから、テニス部だと思うんだけど」
「なんかすげー顔つきだったぜ、行ったほうがいいんじゃねえ」
 他校生という言葉に、宍戸は立ち上がった。まさかとは思うが、身体は自然と校門へ向かう。そこにいたのは、予想外の人物だった。


 銀髪の男が、校門に背をつけて立っている。数えるほどしか顔を合わせたことはなかったが、宍戸には誰だかわかった。
「仁王……?」
「久しぶりやね」
 詐欺師の異名を持つ、立海大附属の仁王雅治。切原が、仁王に何か言ったのだろうか。仁王は、以前にも切原のことで世話を焼いてきたことがある。黙って見つめる宍戸に、仁王が苦笑した。
「警戒せんでよか」
「……別に」
 指摘され、宍戸は誤魔化すように仁王のジャージに目を向ける。
「今日、試合だったんじゃねえの?」
「もう終わった」
「あっそ」
 当然勝ったのだろうと、宍戸は素っ気なく答えた。仁王の何を考えているのかわからない目に晒され、宍戸は居心地の悪さを感じる。
「なんか用」
 宍戸が切り出すと、仁王がふっと目元を和ませた。
「おんしは、嘘のつけん人やね」
 馬鹿にされている気がして、宍戸はむっとする。顔を上げると、思いの外真剣な目にぶつかった。
「そういう人間は、嫌いじゃなか」
 誰かを思い出すように一瞬目を伏せ、仁王が続ける。
「赤也のこと、どう思っちょる?」
 目を見張った宍戸を、正面から仁王が捉えた。どう、と訊ねられれば、好きだとしか答えられない。だが、切原に別れを告げた身でそれを口にすることは躊躇われる。
 仁王が、困ったように笑った。宍戸が動きを目で追うと、仁王は頭をかく。
「別に、赤也に頼まれた訳じゃなかよ?」
 声音から、仁王がずいぶんと切原を気遣っていることがわかった。宍戸から、すっと肩の力が抜ける。
「あいつ、どうしてる?」
 逆に問いかけた宍戸に、瞬間目を見開いて、仁王が顔を綻ばせた。意図が掴めず、宍戸は首をひねる。
「安心した。気にしちょるってことは、まだ好いとうってことじゃろう?」
 たったあれだけのやりとりで気づかれてしまうとは。目の前の相手はずいぶんと聡い人間らしいと、宍戸は姿勢を正した。
「元気にしちょるようじゃけど、あれは空元気やね。標的を作ることで自分を奮い立たせているというべきか」
「標的?」
 仁王の口から飛び出した単語に、見当がつかず宍戸は眉をひそめる。仁王が、目を細めた。
「今日俺たちが試合したのは、不動峰じゃ」
「不動峰……」
 その名前に、宍戸は反射的に身を固くする。無意識に、強く拳を握っていた。それに目をとめ、仁王が肩をすくめる。
「赤也は部長と対戦したいゆうとって、皆はおんしの敵討ちのためじゃと思うとったようじゃけど、……」
「敵討ち?」
 知らず繰り返してから意味を理解し、宍戸は顔をゆがめた。
「なんで、そんなことになってんだ」
 あのとき宍戸が負けたのは、己が未熟だったせいだ。戦う前から相手を自分より下だと決めつけ、油断していたからあれ程の惨敗を喫したのだ。元から実力は下回っていたかもしれないが、冷静に相手の力を判断していれば、もっと食らいつくことはできたはずだった。
「俺はそんなこと、頼んじゃいねえ」
 切原の実力なら橘を倒すことは容易なことかも知れない。だが、全てを相手のせいにして己を省みない行為に、一体なんの意味があるというのだ。余計、宍戸が惨めになるだけではないか。
 切原は、どこまで自分を追いつめれば気が済むのだろう。
「なに考えてんだ、あいつ」
 悔しさのためか怒りのためか、宍戸の声が震える。仁王が、宍戸の肩を掴んだ。
「赤也は、子供なんじゃ」
 仁王の静かな瞳に見つめられ、宍戸は抵抗を忘れた。
「なんでも自分が一番で、思い通りにならんと癇癪を起こすような。どれだけテニスが上手かろうと、口が達者じゃろうと、あいつは子供なんじゃ」
 仁王の言葉には、宍戸も頷ける部分がある。切原は、知り合ったときからずっと喜怒哀楽がはっきりしていて、気に入らないことがあるとすぐに拗ねたり落ち込んだりしていた。
「だからって、それは俺のせいじゃねえだろう?」
 元々の性格まで自分のせいにされたのでは、たまったものではない。仁王が、肩を掴む腕に力をこめる。
「おんしのせいだとは言わん。敵討ちというのも、恐らく口実に過ぎんかったじゃろう」
「……?」
 仁王の言いたいことがわからず、宍戸は眉根を寄せた。
「赤也は、ただ現状への不満を、あいつにぶつけただけじゃ」
「不満を……」
 おかしいと、宍戸は思う。切原が、ただテニスの試合をしただけではないらしいことが、仁王の口調から感じられた。
 なにをしたんだ、あいつは。嫌な予感がして、宍戸はぶるりと身体を震わせる。
「なに……、」
 うまく言葉にならなかったが、察したのか仁王は哀れむような目を向けてきた。
「赤也は、文字通り不満を『ぶつけた』んじゃ。あいつの、……橘の身体に」
 瞬間、目の前が真っ白になった気がする。ちかちかと反転する視界に、最後に見た切原の顔が浮かんだ。
 呆然と、目を見開いて、母親に捨てられた子供のような顔で、ただ宍戸を見ていた。
 自分のせいなのだろうか。自分が、もっと切原を頼って、愚痴でもなんでも話して聞かせたら、こんなことにはならなかっただろうか。
 けれど、あのとき切原を頼ることなど、どうしてできただろう。宍戸は、自分が流されやすい人間であることを自覚していた。あのとき切原を頼って、あの腕で抱きしめられてテニスなどやめてしまえばいいと言われていたら、考えるまでもなく自分はその通りにしてしまっただろう。
 だって、自分は知っている。あの腕がどれだけ力強く、どれだけ温かく、どれだけ居心地のよい場所か。あの腕に囚われたら、二度と引き返すことはできないだろうことを、自分は身をもって知っていたのだ。
 ほんとうは、顔を見ることすら怖かった。絶対にあの場所へ、正レギュラーへ戻るという決心が揺らぎそうで、怖かった。
 それだけ切原は宍戸の中で大きな存在となっているというのに、切原はそれに気づかず、見ようともせず、自分の気持ちばかりを押しつけ、宍戸の想いを疑うのだ。それがどれだけ宍戸を傷つけているのかも知らず、自分ばかりが好いている顔をして泣く。ほんとうに、子供みたいだと思う。


 小さく息を吐き、宍戸は仁王を見た。
「あいつ、どこにいる?」
 仁王が、微かに頬をゆるめる。
「試合会場じゃ。芝生に寝転がって、動こうとせん」
「わかった」
 短く言って、宍戸は肩におかれた仁王の腕を下ろした。歩き出した背に、仁王の声が届く。
「おんしとおるようになって、赤也は変わったと俺は思っちゅう。よか方向にな」
 背を向けたまま頷いて、宍戸は駅へ向かって走り出した。


【完】


※話の中で出てきた過去のジローの台詞や仁王のお節介は「七夕企画」の宍戸編に登場したものです。


2005 04/16 あとがき