芥川慈郎(切原と宍戸とジロー)


 靴を脱いだところで、宍戸の母親が出迎えてくれた。挨拶をすると夕飯を勧められたので、ありがたくご馳走になることにする。
「あ、今日うちに泊めるから」
 さりげない口調で言う宍戸に、どきりと切原の胸が高鳴った。母親は特に勘ぐる様子もなく、明日も学校があるから早めに休むようにとだけ言われる。頷いて、切原は宍戸についてリビングへ入った。
 テーブルの上には既に暖かな食事が用意されていて、急に空腹を感じた切原の腹が鳴る。
「そんなに腹へってたのかよ?」
 隣に座った宍戸に笑われ、切原は顔を赤らめた。
「しょーがないじゃないっすか、今日試合してからなんも食ってねえんすもん」
 口をとがらせた切原に、宍戸が笑みを深める。自分の腹をさすりながら、そっと耳元に口を寄せてきた。宍戸の大胆な行動に、切原は体を固くする。カウンターの向こうに立つ宍戸の母は、幸いこちらに背を向けていた。
「実は、俺も。昼食いっぱぐれて、すげー減ってんだ」
 耳にかかる吐息がくすぐったい。ますます熱くなる耳をかばうように、切原は声を発する。
「あ、そーなんすか?」
「ああ。弁当食ってねえっつーとうるせえから、内緒な?」
 ちらりと母親へ目を向け、宍戸が囁いた。頷いて、切原は手で顔をあおぐ。
「お前、なんでそんな顔赤いんだ?」
 宍戸の呑気な声に、振り向いた母親がエアコンをつけてくれた。


 階段を上ろうとしたところで、宍戸が母親に呼び止められた。
「さっき慈郎くんが来たわよ」
「ジローが?」
 ジローの名前に、宍戸が一段降りる。
「あんた、荷物おいてっちゃったんですって?」
 呆れた口調で言われ、宍戸がああと思い出す素振りをした。まだ何か言おうとした母親に背を向け、宍戸は階段を上り始める。母親へ頭を下げると、切原も後に続いた。
「荷物、どーしたんすか?」
 問いかけると、宍戸の肩がぴくりと反応する。一瞬足を止め、気を取り直したようにふたたび歩き出した。
「亮くん?」
 二階へ上がって、切原は宍戸の腕をとる。部屋の前でまとわりつくようにすると、ようやく宍戸が顔を向けた。
「仁王が」
「え?」
 仁王がどうしたというのだろう。目を丸くした切原に、ぶっきらぼうな口調で宍戸が続ける。
「仁王が来て、すぐお前んとこ行ったから、カバンとか全部おいてきた」
「えっ」
 仁王が宍戸へ連絡をしてくれたことは聞いていたが、てっきり電話をしたのだとばかり思っていた。まさか、わざわざ氷帝まで足を運んでくれたとは。そして、宍戸が荷物を忘れるほど焦って自分の元へ駆けつけてくれただなんて。なんだか胸があたたかくなって、切原は宍戸へ抱きつく。
「おい、切原……っ」
 宍戸の慌てたような声にもめげず、切原はいっそう強く宍戸を抱きしめた。
「……ったく、」
 宍戸の溜息に、やりすぎたかと切原は顔を上げる。
「せめて、部屋入ろうぜ」
 諦めたように宍戸が提案した。


 扉を開けたままの姿勢で、宍戸が立ち止まった。
「亮くん?」
 何かあったのかと、切原は宍戸の後ろからのぞき込む。特別異変はないようだがと眺めて、切原は気づいた。ベッドが、ふくらんでいる。
「だ、誰かいるっ!」
 宍戸の兄は既に家を出て一人暮らしをしているはずだし、父親はまだ帰ってきていないはずだ。不審者だろうかと身構えた切原の前で、宍戸がなんの警戒もなくベッドへ歩み寄った。
「りょ、亮くん!?」
 引き止めようと切原は腕を伸ばし、宍戸の言葉に動きを止める。
「ジロー? 寝てんのか?」
 宍戸の呼びかけに、布団がもぞもぞと動いた。ぽんぽんと、宍戸が布団の上から軽く叩く。やがて、中から金色の髪が覗いた。
「亮ちゃん〜?」
「帰ってなかったのか、お前」
「おかえりなさい〜」
 ごしごしと目をこすって、ジローが宍戸に抱きつく。
「あ!」
 咎めるように発した切原の言葉に、宍戸にくっついたままのジローがこちらを見た。
「だあれ?」
 つられて振り返った宍戸が、迷うように間をおいて口を開く。
「切原。前に会ったことあんだろ?」
「きりはらくん? 立海の人?」
 ユニフォーム姿の切原に目をとめ、ジローが言った。無言で切原は頷く。いま口を開いたら、なにかとんでもないことを口走りそうだった。
 早く離れろと、目で訴える。だがジローは、ますます力をこめて宍戸にしがみついた。まるで、切原にとられまいとするかのように。ぎりっと、切原は強く拳を握った。


 部屋に転がっている二人ぶんの荷物に気づき、宍戸はジローの頭に手を置いた。
「カバン持ってきてくれたんだって? ありがとな」
「どーいたしましてー」
 花が綻んだように、ジローが笑う。そんなジローを見て、宍戸もまた微笑んだ。なんだか二人の世界に入っていけず、切原は部屋の入り口で立ちつくしていた。
「亮ちゃんのお弁当、忍足が食べちゃったよ」
「マジで? あいつそんな飢えてたのかよ……」
 呆れた口調で言う宍戸に、ジローが声を上げて笑う。
「美味しかったって! 亮ちゃんのママ、お料理上手だもんね?」
「そーかあ? 別にフツーだろ」
 気づいたとき、切原は開いたままの扉に拳を打ち付けていた。鈍い音に驚いた二人に見つめられた切原は、何事もなかったようににっこりと微笑んだ。
「俺、トイレ行ってきます」
「ああ……」
 訝しげな顔で、宍戸が頷いた。


 苛々とした心のまま、切原は足早にトイレへ向かった。むかむかと、腹の底から何かがこみ上げてくる。とにかく、あの場にはいたくなかった。
 亮ちゃん、と甘ったるく呼びかけるあの声が、嫌だ。
 ジローを見つめる宍戸の優しい目が、嫌だ。
 自然と寄り添うふたりの姿を見るのが、嫌だ。
 そのつもりはなくとも、ふたりの仲を見せつけられているようで、無性に苛々する。
 流れる水に目を向け、自分の気持ちも一緒に流れてしまえばいいのにと思った。あの二人は、ただ仲の良い幼なじみなだけで、これっぽっちも自分が宍戸に抱くような感情を持っている訳ではない。
 それでも嫉妬する自分が、心底嫌だった。
 息を吐いて、切原はトイレを出る。乱暴に扉を閉めると、数歩先に誰かの足があることに気づいた。誰だろうと顔をあげる前に、腕をとられ近くの部屋へ連れ込まれる。飛び込んだ先は、宍戸の部屋から少し離れた位置にある部屋で、切原がそこへ立ち入るのはこれが初めてのことだった。
 背後で扉の閉まる音がして、切原は我に返る。
「……なにすんだよ!?」
 振り向くと、扉の前にジローが立っていた。小柄で、突けば倒れてしまいそうな容姿だというのに、何故かいまは大きく見える。無意識に、切原は一歩下がった。
「ここはね、亮ちゃんのお兄さんのお部屋だったんだよ」
「亮くんの……?」
「そう」
 いまは物置として使われているのか、家具等はなく、段ボールなどが放置されている。
「亮ちゃんのお兄さん、会ったことある?」
 首を振る切原に、ジローは思い出すように語った。
「亮ちゃんのお兄さん、俺にもすげー優しくしてくれたんだ。俺、大好きだったんだよ」
 何故ジローがこんな話をするのかわからず、切原は困惑する。
「これ見て、亮ちゃんが幼稚園でお絵かきしたやつ。おともだちの絵だって、かわいいよね」
 口の開いた段ボールから、ジローが一枚の紙を取り出した。目の前に差し出されたそれには、黄色いふわふわとした髪のこどもと、青い目をしたこどもが描かれている。クレヨンの匂いが微かにただよって、切原は顔をしかめた。
「俺たちはね、ずっと三人でいたんだ。幼稚園の頃から、いままで。ずっとね。これからもだよ、ぜったいなんだ」
 言いながら、ジローは手にした紙を元通り丸め直す。赤いリボンで結んで、箱へ戻した。箱のかたわらにしゃがみ込んだまま、ジローは続ける。
「俺は、俺たちはずっと亮ちゃんが好きで、亮ちゃんも俺たちのことが好きで。それはずっと変わらないし、ううん、もしかしたら少し変わるかも知れなかったけど、でもね」
 立ち上がって、ジローは切原を正面から見据えた。
「亮ちゃんの隣にいるのは、君じゃなかったはずなんだよ。切原くん」
 目を揺らすジローには、何が見えているのだろう。切原を見るその目には、誰が映っているのだろうか。
 ──あいつから、テニスを奪うな。
 不意に、懇願するように自分へ言った男の姿が、ジローに重なる。知らず、切原は口を開いていた。
「跡部、さん?」
 ジローが、大きく目を開く。まじまじと切原を見つめ、ジローは目を伏せた。
「俺は、亮ちゃんに他に大切なひとができるの、やなんだ。跡部がひとりになっちゃうのも、いや」
 いやだと、ジローがこどものように首を振る。ジローの言い分にはひとつも納得できなかったが、宍戸を大切に思う気持ちだけは伝わってきて、切原は何も言えなかった。
 自分が宍戸とつきあうことは、ふたりから宍戸を奪うことになるのだろうか。そうなのかも知れない。それでも、自分から手放す気にはなれなかった。
「亮ちゃん、俺が反対したら、切原くんのこと考え直してくれるかも」
 こどものような口調で、ジローが恐ろしいことを言う。ぞくりと、切原は身震いした。目の前の相手は、こどもの皮をかぶった悪魔だ。幼い頃から一緒にいたジローならば、宍戸がどんな言葉に弱いか、何を言えば罪悪感を抱くかなど、知り尽くしているはずだった。
 切原が言葉を発する前に、ジローが口を開く。目を上げて、不安げな瞳に切原を映した。
「でも、でもね、亮ちゃんは切原くんが好きなんだって。切原くんといると楽しいって、笑うんだ。すごくしあわせそうに、すごくきれいな顔で。俺、亮ちゃんがあんな優しい顔で笑うの、初めて見た」
 ジローの言葉に、切原は宍戸と初めて会ったときのことを思い出す。嬉しそうに、愛おしそうに、ジローを見て笑っていた。


 あんな風に、笑いかけられたいと、思った。
 あの笑顔を、自分だけに向けてくれたらと、願った。


 見ているだけで泣きたくなるぐらい、ほんとうにきれいな顔で、笑っていたのだ。
 それ以上の笑顔を、宍戸は自分に向けてくれていたというのだろうか。いつのまにか、ジローに対する気持ちと同じくらいの想いを、自分に対して抱いてくれていたのだろうか。
 切原は、呆然とジローを見つめた。
「だから俺、切原くんのこと好きになるよ」
 涙をこらえているのか、唇を震わせながらジローが言う。
「亮ちゃんが切原くんを好きだって言うなら、俺、切原くんを好きになる。俺、亮ちゃんにはずっと笑っていてもらいたいんだ。だから俺、切原くんを好きになるよ」
「ジロー、さん……」
 思わず名を呼んだ切原に、ジローがふわりと微笑んだ。
「亮ちゃんのこと、よろしくね!」
 もう帰るから、とジローはとびきりの笑顔を残して去っていった。


「遅かったな、切原」
 部屋へ戻ると、座っていた宍戸が顔を上げた。こみ上げてくる衝動に、切原は何も言わずに宍戸の身体に腕をまわす。
「切原? おい……」
 戸惑うような声の後、宍戸の腕が切原の背中にまわされた。
「俺、亮くんのこと、大切にします」
「は?」
「ずっとずっと、大切にするから」
 抱きしめる腕に力をこめ、切原は熱に浮かされたように繰り返す。
 幼い頃からずっと、この人は慈しまれてきたのだ。家族や、幼なじみや、周囲の人間から、大切に、大切に。たくさんの愛情を込めて。
「俺のそばに、いてください」
 隣に立つことを許してくれた人のように、この人を愛したいと思った。


【完】


2005 04/29 あとがき