天国から地獄(立海オール)


 クラクションの音に、切原は顔を上げた。
「姉ちゃん、来たよ!」
 階段の下から声をかけると、はーいという返事が聞こえ、続いてぱたぱたと足音がした。姉が大きな荷物を手にしているのを見て、切原は手を伸ばして受け取ってやる。
「玄関に置いとくよ」
「ありがとー」
 ようやく下に降りてきた姉が、用意してあったミュールに素早く足を通した。
「んじゃ、行ってくるね」
「明日の夜まで帰ってくんなよ」
「わかってるって! あんたこそ、騒ぎすぎないよーにね」
 一応目上として言っておかなければと思ったのだろうか、そう釘を差して姉は出ていった。はいはいと手を振って、切原は玄関を閉める。
 扉の内で車が走り出した音を確認し、切原はその場でガッツポーズをとった。
「っしゃあ! これで邪魔者はいなくなった〜っと」
 今日に限って姉に親切にしてやったのには、訳があった。
 親に内緒で彼氏と旅行に行きたい姉と、誕生日を宍戸と二人で過ごしたい切原と。利害が一致したふたりは、結託して親を家から追い出す計画を練った。
 以前父親が取引先から貰ってきた温泉旅行のチケットがあることを思い出し、この連休中に行って来るよう両親に勧めたのだ。
 子ども二人を残して行くなんて……と初めは渋っていたが、何度も勧められているうちに段々その気になったらしい。昨日の昼になって、ようやく両親は温泉へ出発した。取引先が経営している旅館なので、突然の予約でも部屋は確保できたようだ。
 これで、明日の夜までこの家には切原と、これからやってくる宍戸しかいないことになる。
 自分の家で、自分の誕生日に、恋人である宍戸と二人きりで過ごせるだなんて。しあわせすぎて、どうしたって笑ってしまう。
 このままでは、宍戸に不審がられてしまいそうだ。頭を切り換えようと、切原は違うことを考え始める。
「そーだ、亮くんが来るまでに部屋片づけとくかな〜」
 男同士なのだから気を遣う必要はないとはいえ、やはり恋人にはそれなりに見栄を張っておきたい。なんせ、宍戸が切原の家に上がるのはこれが初めてのことなのだ。
 何故これまで家に招かなかったのかというと、答えは簡単。切原の家はたいてい母親がいて、二人きりになれる機会がないから。ただ、それだけのことだった。
「あと、先輩達に邪魔されたくねーし」
 先週の仁王とのやりとりを思い出し、切原は顔をしかめる。
 あのときは、もう自分の人生はこれで終わったものだとばかり思ったものだが、あれから特に何もされることはなかった。
「忘れてくれたんならいーけど」
 そうであることを願って、切原は部屋を片づけるべく二階へ向かった。


 掃除機をかけ終わったところで、チャイムが鳴った。宍戸は後で駅まで迎えに行く約束だし、他に来客の予定などないはずなのだがと首をかしげながら、切原は階段を駆け下りる。
 まさか、彼氏と喧嘩した姉が戻ってきたなどという落ちではないだろうな。少しだけ焦りながら、切原は玄関を開ける。
 いつもインターホンのモニターで相手を確認してから開けろと注意されているのだが、つい面倒で直接開けてしまう。だが、このときばかりは開けたことを後悔した。
 玄関の向こうには、今この場にいるはずのない相手が立っていたのだ。
「……なにしてるんすか、柳生センパイ」
「開口一番にそれですか」
 冷たい声を発した切原に一瞬眉をひそめたが、何かを思いだしたらしく柳生は声を荒げた。
「いえ、今はそれどころではないのです切原くん!」
「それどころじゃないのはこっちのほうっす!」
 言い返した切原など意に介さない様子で、柳生は背後から何者かを引きずり出した。
「丸井くんが、いまにも倒れそうなんです。どうか中で休ませてあげてください」
「はあ!?」
 冗談じゃないと言おうとして、切原は黙り込んだ。柳生に引っ張られた丸井は、いつもの血色の良さがまるで嘘のように、青ざめて冷や汗を浮かべている。
 これは、相当具合が悪いらしい。無下に追い返すわけにもいかず、切原は二人を中へ通した。
「大丈夫っすか? きゅーきゅーしゃ呼びます?」
 とりあえずソファーに寝かせたものの、丸井は青白い顔で震えている。両腕でなにかを抱えていることに気づき、切原は手を伸ばした。
「それ、こっち置いときますよ」
「いい!」
 切原の手が荷物に触れようとした瞬間、丸井は顔を上げて叫んだ。ぎゅうっと、しがみつくように荷物を抱え直す。
「丸井くん、あまり力を入れるとつぶれてしまいますよ」
 柳生の言葉に、丸井は素直に力を抜いた。
「柳生先輩、中身知ってんすか?」
「ええ」
 ソファーの傍らで膝をつき、柳生は心配そうに丸井の顔をのぞき込んでいる。
「やっぱ、救急車……」
 切原が電話をとろうとしたとき、ふたたび玄関のチャイムが鳴った。


 どうしようか迷ったが、丸井と柳生の顔を見比べ切原は仕方なく玄関へ向かった。
「はいはい取り込み中ですよー」
 面倒なことになってきたと、頭をかきながら扉を開ける。途端に聞こえてきた炸裂音に、切原は思わず頭を抱えその場にしゃがみ込んだ。
「うむ。なかなかいい反射神経だな」
「どうした赤也、具合でも悪いのか」
 聞き慣れた声が耳に届き、切原は恐る恐る顔を上げる。そこには、舞い散る色とりどりの紙吹雪の中、使用済みのクラッカーを持った柳と、しゃがんだままの切原を気遣う真田の姿があった。
「な、な、な、何してんすかあんた達……!」
 まだ落ち着かない心臓を押さえながら、切原は立ち上がる。
「何、とは?」
 切原が驚いている理由などわかりきっているであろうに、柳は小首を傾げて見せた。
「赤也?」
 こちらは本当にわかっていないのだろう、真田が不思議そうな顔をしている。
「皆はもう来てるか?」
「皆って……、ああ! そーだ柳先輩、丸井先輩が具合悪いみたいで!」
「丸井が?」
 柳なら、丸井を病院へ行くよう説得してくれるかも知れない。すがる思いで切原は柳の腕をとった。
「待て、靴を脱ぐ」
「上がっていいのか?」
 腕を引っ張られ転びそうになりながら、柳が靴を脱いだ。真田も、後からついてくる。


 リビングの扉を開けると、まだ丸井はソファーに転がったままだった。一瞬顔を上げ、また伏せてしまう。
「大丈夫か丸井」
「ん」
 柳が近寄ると、動くのも億劫なのか丸井は頷くかわりに目を閉じた。
「やっぱ病院行ったほうがいいっすよ」
 宍戸が来る前に追い出したいという気持ちだけでなく、切原は丸井が心配だった。普段はうるさいぐらいに元気な丸井が、いまは白い顔で横たわっている。見ているこちらが苦しくなりそうだ。
「そーだ、柳生先輩のおとーさんに診てもらったらどうっすか」
 柳生の父が内科医であることを思い出し、そう提案してみる。だが、丸井は首を振るだけだった。
「丸井せんぱーい」
 ほんとうに、大丈夫なのだろうか。切原はしゃがみ込むと、丸井の顔をのぞき込んだ。普段は騒がしさにばかり気をとられているが、こうして目を伏せている丸井はなかなかきれいな顔をしていた。
 あんまり丸井が震えているので、かわいそうになって隣の部屋からタオルケットを持ってきてかけてやる。丸井が、ありがとうという風に瞬きをした。


 三たびチャイムが鳴り、切原は後ろ髪を引かれつつ玄関へ向かった。
「今度は誰っすかー」
 すっかり来客に慣れてしまった切原は、どうせジャッカルか仁王あたりだろうと扉を開く。そこに立っていたのは、予想通りの顔だった。
「悪い赤也、遅くなっちまって」
「……はあ?」
 申し訳なさそうに頭を下げるジャッカルに、切原は訝しげな声を発した。
「なんすか、遅くなってって」
「え?」
 訳がわからないという顔をしてみせると、ジャッカルは戸惑ったように口を開く。
「仁王に、ここで赤也の誕生日会をやるって聞いたんだけど」
「……はああああああああ!?」
 一体、どうしてそんな話になったのか。切原は、大きく口を開けたまま考える。
 もしかして、この間仁王を怒らせた結果がこれなのか? よりによって、宍戸と二人きりになるために無理矢理空けさせたこの家で、誕生日会だなんて!
 だから丸井たちも来たのだろうか。そういえば、驚くばかりで意味を考えることもしなかったが、柳が鳴らしたクラッカーは誕生日用のものではなかっただろうか。
「誕生日、かい……」
「ああ。あ、これ途中で買ってきたんだけど」
「どーも……」
 呆然とした面もちのまま、切原はジャッカルの差し出してきたものを受け取る。まだあたたかなそれは、ケンタッキーからテイクアウトしてきたようだった。
 もはや逆らう気力もなく、切原はジャッカルを家へ上げる。寝込んでいる丸井を取り囲む三年勢をおいて、切原は玄関をにらみ付けていた。


 チャイムが鳴ると同時に、切原は扉を開けた。外では仁王が、素早い対応に目を丸くしていた。
「あんた、なんで……っ」
 言おうとした文句は、仁王の横に立っている人物を目にした途端引っ込んでしまう。
「な……っ」
「よい子の赤也くんに、誕生日プレゼントじゃ」
「あのなあ」
 芝居じみた仕草で隣を紹介した仁王に、呆れた声を出したのは。紛れもなく、切原の恋人である宍戸だった。
「な、なんで!? 亮くん、用があるから夜にならないと来られないって!」
「そのつもりだったんだけどよ」
 仁王にしつこく頼まれて、と宍戸が肩をすくめる。
「え、どーやって連絡とったんすか!? また学校まで行ったとか……?」
 仁王は、宍戸の連絡先を知らないはずだ。
「わからんか?」
 にやりと笑った仁王の顔に、先週携帯を奪われたことを思い出した。あのとき、しばらく携帯をいじっていたのは、もしかして宍戸の番号を調べていたのだろうか。
「でもいいのか? 今日はお前らで祝うんじゃねえのかよ」
 皆が来ていることを聞いていたらしい、宍戸が遠慮がちに言った。
「よか。かわいい末っ子の恋人じゃからのう」
「恋人って……」
 そむけた宍戸の顔が微かに赤く染まっていることに気づき、切原はほんとうに宍戸がいるのだと実感する。
「驚いたじゃろ?」
「……はい!」
 悪戯めいた笑みを浮かべた仁王に、力一杯うなずき返した。
 こんな嬉しい企みなら、大歓迎だ。
「ありがとうございます仁王先輩!」
 仁王を家に通すと、切原は宍戸を振り返る。背中で扉を閉め、そっと宍戸の手をとった。
「……亮くん、来てくれてありがと。すっげー嬉しいっす」
「そーかよ」
 照れたように目をそらしながら、宍戸が頷いた。
「お二人さん、冷えんうちに入りんしゃい」
 いつの間に開けたのか、仁王が扉の隙間からこちらを見ている。
「のぞき見なんて趣味悪いっすよー!」
 反射的に宍戸から手を振りほどかれ、切原は仁王に抗議した。笑って、仁王が背を向ける。
「あーもう、早く行こうぜ」
「はい……」
 これで、しばらくは二人きりになれないのだ。そう思うと、この時間が惜しくなってきた。
「亮くん」
 玄関に入ろうとした宍戸を捕まえ、切原は頬に口づける。
「お前……っ」
 焦った様子で宍戸は背後を振り返ったが、仁王は気づいているのかいないのか、いつもと変わらぬ足取りで廊下を進んでいった。
「へへー」
「ったく、仕方ねえなあ」
 満面の笑みを浮かべた切原に、諦めたのか宍戸も相好を崩す。二人並んでリビングへ入った。


 青い顔をした丸井に目をやり、仁王が眉根を寄せた。
「幸村はまだ来とらんのか」
 そういえば、幸村の姿はまだ見ていない。
「恐らく寝坊だろう。もうすぐ到着するはずだ」
 柳が言うと同時に、リビングの扉が開いた。
「すまない、寝坊した」
「幸村部長!」
 チャイムの音は聞こえなかったが、テニス以外は頭にない幸村のことだから勝手に開けて勝手に入ってきたのだろう。
「知らない人んちでやったら、犯罪ですからね……」
「何の話だ?」
 これっぽっちも思い当たる節がないらしい、幸村は笑顔で首を傾げた。
「ゆきむら……」
 蚊の鳴くような声に振り向くと、丸井がよろよろと歩いてくるところだった。
「ブン太、大丈夫か」
 前に出た幸村に抱きつくようにして丸井が倒れ込む。
「幸村、ケーキ、ケーキ……」
 ケーキとは一体なんのことだろう。なりゆきを見守っていると、幸村がふわりと微笑んだ。
「ああ。俺のぶんは、いつものようにブン太が食べてくれるか?」
 その言葉に、青白かった丸井の頬が一気に紅潮する。
「ほんと!? いいのか!?」
「ああ。そうしてくれると助かるよ」
「わかった!」
 いまにも踊り出しそうな勢いで、丸井が抱えていた荷物を頭上に掲げた。
「あの、ケーキって……? つーかあんた、具合は平気なんすか!?」
 確かに、ついさきほどまで伏せっていたはずなのに、今は見るからに元気そうだ。
「ケーキ! 俺様が赤也のために特別に注文してやったケーキ!」
「はあ……」
 どうやら、丸井の荷物はケーキらしいということまではわかった。
「それで、具合は……」
「具合? どっこも悪くねえけど?」
 丸井が、きょとんとした顔でこちらを見てくる。
 ……まさか、まさかね。そのとき頭をよぎった考えを、切原はもの凄い勢いで否定した。
 そんなばかなこと、あるはずがない。
 まさか、美味しいケーキを目の前に、我慢するのがつらくてあんな状態に陥っていただなんて。
 食い意地の張った丸井からしてみれば、拷問にも等しい行為だったことだろうとは想像できる。
 だが、まさか。まさか、本当にそうだなんてことは……、ないと思いたい。
「よかったですね、丸井くん」
「ケーキ貸しんしゃい。丸井には大きく切ってやるからの」
 事情をわかっていたらしい柳生と仁王の言葉に、今度は切原がソファーに倒れ込む番だった。


 うなだれたままの切原を囲み、誕生日会は(仁王の)予定通り開催された。立海メンバーばかりの状況に宍戸が少しだけ居心地の悪そうな顔をしていることに気づき、切原はそっとテーブルの下で手を握る。笑顔で頷くと、はにかんだように笑われた。
 たったそれだけのことで、さきほどまでの脱力感など吹き飛んでしまう。
 自分と幸村、二人分のケーキを前に、丸井はどちらから食べようか迷っているようだ。甘いものをあまり好まない仁王が、なんなら自分の分も食べるかと皿を差し出した。
 ほんとうに得な人間だと呆れつつ、だがいま一番しあわせなのはきっと自分だと切原は思う。
 ともに闘った仲間である先輩達に囲まれ、隣には愛しい人が座っている。
 それもこれも、自分の誕生日を祝うためなのだ。
 これがどうして喜ばずにいられようか。
 シャッター音がして、仁王に写真を撮られたことに気づく。
「お二人さん、もっとくっついて!」
「こうっすか?」
 調子に乗った切原が肩を抱くと、宍戸は嫌そうな顔をした。それでも逃げないでいてくれたのは、誕生日効果だろうか。
 毎日が誕生日だったらいいのに。
 そんな風に、和やかな雰囲気のまま会は進んでいった。
 そろそろお開きの時間というところで、柳が幸村を突く。
「幸村、あれを」
「あれ? ああ、あれね!」
 すっかり忘れていたらしい幸村が、懐から何かを取り出した。
 嫌な感じに人肌にぬくもった包みを受け取り、切原は全員の顔を見渡す。
「プレゼント……っすか?」
「開けてみんしゃい」
 カメラを構え、仁王がせかしてきた。
 包みを開けると、出てきたのは得体の知れないかたまりだった。
「……なんすか、これ」
「なんだこれ、手編み? マフラーか?」
 興味を持ったらしい、宍戸が手を伸ばして引っ張った。細長いそれは、言われてみればマフラーのようにも見える。
「……なんでこれ、色がばらっばらなんすか」
 よく見たら、毛糸の種類や編み方もそれぞれ違うようだ。一部は何故か市松模様になっている。
「皆で編んだものをつなぎ合わせたんだ」
 柳の言葉に、ようやく合点がいった。だがすぐに違う疑問が浮かび、切原は顔をしかめた。
「……あんた達、これ編んだんすか……?」
 引退したとはいえ、王者立海のレギュラーともあろうものが。仲良く編み物に精を出していただなんて、あまり想像はしたくない。
「すげー、名前入りじゃん」
 笑いを含んだ声で、宍戸が刺繍された部分を読み上げる。青地の部分に、おおきく赤い毛糸で「AKAYA」と入っていた。
「それは俺のアイディアじゃ」
「わー、ざんしーん。今年っぽーい。ちょーかっこいー」
「棒読みだぞ赤也」
 わかっているくせに、柳が突っ込みを入れてくる。
「さ、写真撮るから巻きんしゃい」
「え! いまっすか!?」
「早く早く!」
「きっと似合うだろうな」
 にこやかな幸村に促され、仕方なく切原は身につけることにした。外で巻くよりは、マシだろう。
「あれ? これ、輪っかになってるっすよ? こーゆーマフラーなんすか?」
「マフラー?」
 丸井が、目を大きく開けた。
「赤也、それは腹巻きだ」
 幸村の言葉に、切原は危うく手にしたものを取り落としそうになった。
「……腹巻き!?」
「ああ。赤也は寝相が悪いからな。合宿中もよく布団をかけ直してやっただろう? 寝冷えが心配だったんだが、これがあれば俺も安心して寝られるよ」
 本気で言っているらしい幸村に、切原は顔を引きつらせた。
 中二にもなって、腹巻き。しかも毛糸。しかも手編み。しかも男の。しかも変な模様。
「あ、あの……」
 隣で、宍戸が盛大に吹き出した。ちくしょう、泣きたい。
「さ、早く巻くんじゃ。写真におさめるからのう」
「写真って、まさかそれ……」
「部の思い出として、卒業アルバムに載せる予定じゃ」
「卒……!」
 にっこりと笑った仁王が、ほんものの悪魔に見えたのも仕方ないだろう。


「なんせ『暇人の先輩』じゃからのう。編み物する時間はたっぷりあったぜよ」
 その言葉に、切原は確信した。
 これは、仁王からの手の込んだ嫌がらせなのだと。


【完】


2005 09/24 あとがき