さよなら初恋!(切原と宍戸)
 
 
「りょ〜くん」
「……」
「亮くんってば」
「……」
 切原が何度呼びかけても、宍戸は振り返ろうとはしなかった。
 それどころか、速度をあげて歩いていく。
「いーかげん、きげん直してくださいよ〜」
「……」
 ああ、だけど、どれだけ怒っていようと、決して自分を置いていったりはしないのだ、この人は。
 ちゃんと、自分がぎりぎり追いつけるぐらいの速さで進んでくれる。
 
 
 それは、何も歩く速さのことだけではなくて。
 たった一つとはいえ、年の差は大きい。
 大人になれば気にならなくなるというが、自分たちはまだまだ子供だから。
 どうしたって、そんなちょっとの差が気になってしまうのだ。
 
 
 何があっても振り向かないこの人は、それでもちゃんと自分を待っていてくれる。
 ほんとうは駆け足で通り抜けたいところでも、自分のことを考えて、ゆっくりと進んでくれるのだ。
 
 
 なんていうか、本当に。
 この人の、そういうところが。
「りょーくんっ」
「……」
「好きだよっ!」
 あ、転んじゃった。
 切原は足早に追いつくと、転んだまま呆然としている宍戸を抱き起こす。
「大丈夫? 怪我はっ?」
「へ、いき……」
 切原に身体を預けたまま、宍戸は目をぱちくりとさせていた。
 その様子に、どうやらどこも打たなかったらしいと安心する。
「もー。いきなし転ぶから、びっくりしちゃったじゃないすか」
「おっ、まえが悪いんだろ!」
 宍戸が、勢いよく振り向いた。長い髪が、切原の頬を打つ。
 切原が痛みに顔を顰めると、宍戸は一瞬すまなそうな顔をして、それから思い出したように口を尖らせる。
「お前が、急に変なこと言うから!」
「変なこと? 変なことっすか?」
「や、だって。こんなとこで言わなくてもいいだろ!」
 まあ確かに、ここはまだ駅前で、人通りもそれなりにあったから、宍戸の言うことももっともであった。
 だが切原は、負けじと口を尖らせると、
「だって、今好きって思ったんだから、今伝えなきゃ意味ないじゃないっすか! 後で、あのとき実はこう思ったんです、なんて言っても意味ないっしょ?」
「……お前なあ……」
 切原の主張に、宍戸はがっくりと肩を落とす。
 どかどかと、切原のつま先を蹴り飛ばしながら、「お前、んなこと言って。俺がなんで怒ったてたか、覚えてんだろな?」
「え? ……あ、」
 そういえば、さっき往来でいきなり抱きついて、そんで怒らせちゃったんだっけ。
 切原が、すっかり忘れてたという顔をすると、宍戸はますます激しく蹴り始めた。
「痛いっす、痛いってば!」
「反省、しろ」
「してますって、もうかなり。マジで!」
「……どーも信用出来ねえんだよな、お前の言うこと」
 呆れた顔をして、それでも宍戸は笑ってくれた。
 仕方ないなと微笑まれ、切原の胸は高鳴る。
 また手を伸ばしそうになって、これ以上やったら本気で怒られると、慌てて話題を変えた。
「で。どこ、行きます?」
「そだなあ。制服だし、部活さぼってんの見つかったらマズいし、俺んち行くか」
「っしゃあ!」
 思わずガッツポーズをとる切原に、宍戸が不審そうな顔をする。
 宍戸の家へ行くのはこれが初めてではないが、何度目でも嬉しいことに変わりはない。
 宍戸が、毎日寝て起きて食事をして歯を磨いて風呂に入って、暮らしている空間なのだ。
 そこへ立ち入ることを許され、嬉しくないはずがなかった。
 
 
 それに、宍戸の両親は共働きで夜まで帰ってこず、年の離れた兄は家を出て一人暮らしをしている。
 つまり、完全に二人っきりになれるという訳だ。
 
 
 にやにや笑う切原を訝しげに振り返りながら、宍戸は自宅へ向かって歩き出した。
 
 
 
「あっち〜。さすがに、これだけ歩くと暑いな」
「ですねー。すんません、つきあわせちゃって」
 氷帝から宍戸の家までは、バスに乗って10分ほどの場所。
 あまりお金のない自分のために、今日は定期を使わず歩いて帰ってくれたのだ。
「や。ほんとは、奢ってやれたらいーんだけどな。小遣い前だからさあ」
「いいっす、そんなの。亮くんといられるだけで、俺すっげー幸せなんで」
「くっつくなって、暑い」
 リビングまで入ったところで、我慢出来ずに後ろから抱きついた。
 言葉通り、宍戸の身体は常より熱く感じられる。
 嫌がる素振りを見せながらも、本気で振りほどこうとはしない宍戸に、自分は赦されているのだと嬉しくなった。
「でもほんと暑いっすね。俺汗かいちゃった」
「うわ、ほんとだ。気持ち悪いからくっつくな」
 宍戸の暴言はとりあえず聞き流し、切原はとある期待に胸を膨らませる。
「暑いし、シャワー浴びません?」
「あー、いいなそれ」
 危うくガッツポーズをとりそうになったところで、宍戸が顔だけ振り向いた。
「一緒には入らねえぞ?」
「えー!」
「お前、魂胆見え見え」
「いーじゃないっすか! けち!」
「けちって、ガキじゃねえんだから」
 
 ここまで来てあんまりだ、とか、年下相手に酷い、とか喚く切原に、宍戸はため息を吐く。
 それから、よい理由を考えついたという顔で、「大体お前、着替えねえだろ? 汗べっとりのシャツ、また着るなんて、やじゃね?」
「着替えなら、ユニフォームがあるっす!」
 じゃじゃーん、と効果音をつけて、切原が立海のユニフォームを取り出してみせると、宍戸は冷たい目で返してきた。
「やだぞ俺は。家の中でまでユニフォーム姿の奴と過ごすなんて」
「なんでっすか! かっこいいじゃないっすか、これ!」
 だから一緒にシャワー浴びましょう、と切原は必死に主張する。
 いつまでも切原が騒ぐのに辟易したのか、ついに宍戸が折れた。
「わかった。俺の服貸してやるよ」
「っしゃあ!!!」
 今度こそガッツポーズを決める切原に、宍戸が一言付け加える。
「お前一人で入ってこい」
「なんでっすかーーーーーーーーーー!!」
 
 
 
 断固として嫌がる宍戸に、切原は仕方なく一人でシャワーを浴びた。
 宍戸が毎日入っている風呂だと思うと、それだけで楽しくて仕方がない。
 あっさり上機嫌になると、切原は鼻歌を歌いながら宍戸のシャワーが終わるのを待った。
 程なく、頬を上気させた宍戸がリビングへと姿を見せる。
 これこれこれ! これっす! これが見たかった! 最高!!  
 切原は、心の中で叫んだ。
 しっとりと濡れた髪に、切原もうっとりと頬を染める。
 濡れると一段と色気が増すってゆーか、マジサイコー!!
 幸せな気持ちにひたりながら、切原はふとあることを思い出した。
「あっちー。なんか飲む?」
「あ、はい。あのー」
「ん?」
 スポーツドリンクを差し出してくる宍戸に、切原はかねてからの疑問を口にする。
「あの、亮くんって、なんで髪伸ばしてるんすか?」
「髪? あー、これ」
「亮くんって男らしい性格だから、なんかそーゆーのってキャラじゃないかなあとか思ったりして」
 
 すごい似合ってるし、好きだなあとは思うんだけど。切原がそう付け加えると、宍戸は何を思いだしたのか、遠くを見るような目つきで微笑んだ。
 初めて見る宍戸の表情に、切原は目を奪われる。
「うち、男兄弟だろ? 親が、女の子欲しかったらしくてさ」
「あー、それで?」
「で、ここまで伸ばしたら、なんか今更切るのもなあって、ちょっと意地っつーか」
「そうなんだ。でも、綺麗に伸ばしてるよね」
 手入れもせずに、ただ伸ばしているだけではないだろうことは、その艶やかさからも窺えた。
 宍戸は持っていたグラスを置くと、愛おしいものに触れるかのように髪を一房つまむ。
「あいつが」
「あいつ?」
「俺の幼なじみで、すげー偉そうで、なにやっても敵わない奴がいるんだけどさ。ま、俺がテニス始めたのも、そいつの影響なんだけど」
「……」
 なんだか今、さらっとものすごいことを言われたような。
 宍戸がこの世で一番大切にしているものは、何と言ってもテニスであろう。
 そのテニスを、自分の意志ではなく、誰かの影響で始めただなんて。
 
 
 それって。
 それって、もしかして。
 
 
 切原は、目の前が暗くなるのを感じた。
「でさ、何やってもけなすことしかしねえそいつが、ある日珍しくほめてくれたんだ」
「……なんて?」
 嫌な予感に、切原は顔を青ざめさせる。
 それに気づかないのか、宍戸は相変わらずどこか遠くを見たまま続けた。
「きれいな髪だなって。お前は気に食わないけど、髪だけはきれいだって。なんか、どー考えてもムカつく台詞なんだけど、でも、ほんとに、そいつにほめられたのって、それだけでさ。だからなんか、嬉しかった……の、かな?」
「そう、なんだ……」
 切原は、そう返すのがやっとだった。
 
 
 だって、それって、どう考えても。
 宍戸はきっと、その幼なじみを好きだったのだろう。
 自分でも気づかないぐらい、淡い恋心を抱いていたのだろう。
 そして、それに気づかない間に切原が宍戸を見つけて、押して押して押しまくって手に入れて。
 そして、今に至るというわけだ。
 
 
 もしも、宍戸がその恋に気づいてしまっていたら。
 もしも、幼なじみが宍戸の気持ちに気づいてしまっていたとしたら。
 
 
 きっと今、宍戸の隣にいるのは、自分ではなかったのだろう。
 
 
 切原は、今日ほど運命に感謝したことはなかった。
 神様ありがとう! これからは、もちょっと真面目に生きてくっす! あんまり人にボールもぶつけません! 丸井先輩のコーヒーに死ぬ程砂糖を入れるのもやめます!
「もーほんと。亮くんが鈍い人で良かった〜!! 俺、今心からそう思うっす」
「……殴られてえのか? ん?」
「じゃなくて!」
「じゃなくて?」
 不機嫌な顔の宍戸を抱き寄せると、その耳元で囁いた。
「大好き、ってことっす」
「……ばーか」
 
 ほんとにほんとに、この人が自分の気持ちにすら気づかないぐらい鈍い人で良かった!
 それから、幼なじみとやらが、この人の魅力に気づかなくて良かった〜!!
 や、気づいてたのかもしんないけど、もう手遅れだもんね。
 亮くんの隣には、俺が一生居続けるつもりなんで。
 あんたは、安心して見守っててください。
 
 
 
 さようなら、初恋の人!!
 
 
 
 
 
 その瞬間、大通りを挟んだ高級住宅街の一角で、青い目をした少年が盛大なくしゃみをしたとかいう話。
 
 
 【完】
 
 
 
2004 05/17 あとがき