真夜中の訪問者(切原と宍戸)


「赤也、風呂あいたよ」
「んー」
 姉の声に、切原はうとうとしかけていた身体を無理矢理起こした。
「ふあーあ」
 大きくあくびをして、持っていた参考書を投げ出す。日曜だというのに、勉強をしていたのだ。これは、切原にとってはすごいことだった。
 三年になった切原は、先日部活を引退したばかりだ。
 高等部へ推薦であがれるかどうか微妙なラインということで、最近は勉強に精を出している――つもりだった。成果があがっているかどうかは別として。
「聞ける人もいねえしな」
 去年まで勉強を教えて貰っていた人たちは皆、高等部へ進学してしまった。向こうは向こうで、今までとは勝手の違う環境で四苦八苦しているらしい。
 そこへ、自分の面倒まで見てくれとは、さすがに図々しい切原でも言い出せなかった。
 部活でこれだけの功績を残したのだから多少点が足りなくとも配慮して貰えるだろうとも思っているので、一般的な受験生ほど本腰を入れて勉強している訳でもないのだが。
「一応、やってるポーズだけは見せとかねえと、ってね」
 生活態度さえよければ大丈夫だろうと、真面目に授業を受けている振りをしろだの、参考書を持ち歩けだのとアドバイスしてくれたのは、詐欺師の異名を持つ仁王だった。
 風呂場へ向かい、服を脱ぐ。なんだか肩が凝っているようだ。
 慣れない勉強――といっても、ほとんど寝ていたのだが――をしたせいだろうか。
 肩を回しながら、切原は浴室へ入った。
「血行をよくするには、湯船につかったほうがいいんだっけ」
 切原は、それほど長湯をするほうではない。夏場などはシャワーだけで済ませてしまうぐらいだ。
 だが、最近冷え込んできたこともあり、この日はゆっくりと湯船につかることにした。


 どんどんと激しく扉を叩かれる音に、切原は目を覚ます。
「げっ、俺寝てた……!?」
 湯船で寝るなど、初めての経験だった。すっかりぬるくなってしまった湯に、身体が冷えきっている。
「赤也! 生きてる!?」
「あー、生きてる生きてる!」
 姉の叫び声に答え、切原は湯船から出た。熱いシャワーを浴び、身体を温める。
「寝てたんでしょ、まったくもー。ばかなんだから」
「あーもーわかったから、あっち行けよ」
 起こしてくれたのはありがたいが、文句を言われ続けるのはさすがに勘弁して欲しかった。
「あんたねえ、……まあいいわ。電話きてたよ」
「え?」
「ケータイ、がんがん鳴ってた。うるさいから持って来てあげたんだけど?」
「マジで! サンキューねーちゃん!」
 扉を開けると、姉が怒った顔で立っている。
「最初から素直にそう言いなさい」
「だからごめんって、ケータイちょーだい」
 携帯を差し出し、姉は去っていった。着信は既に切れている。
 履歴を見ると、宍戸からだった。
「え! 亮くんから!? しかも、こんなに……」
 照れ屋なせいか面倒くさがりなせいか、宍戸は滅多に電話をかけてこない。
 かかってきたとしても用件を言うだけ言って切ろうとするので、切原が無理矢理話を引き延ばすぐらいだ。
 それが、今回はなかなか切原が出なかったからだろうか、何度もかけてきてくれたらしい。
「すげー、履歴亮くんでうまってる……!」
 上から下まで並ぶ「宍戸亮」の文字に、切原は思わず興奮する。
「って、感動してる場合じゃねえ、かけ直さないと!」
 だが、何度かけても宍戸の携帯につながることはなかった。
「……もしかして、怒っちゃった、とか?」
 あの宍戸が、何度も繰り返しかけてくれたというのに、切原は出ることが出来なかったのだ。怒らせてしまったとしても不思議ではない。
「うわ〜、どーしよ……! っくしゅ」
 あんまり慌てていたせいで、服を着るのを忘れていた。急いで服を身につけると、とりあえず切原は自分の部屋へ向かう。


「電話に出られなくてごめん、風呂に入ってたんだ、怒ってる?、と」
 メールを打って、送信。返事が届きますように、と切原は窓の外に向かって拝んだ。
 もう一度電話してみようか。しつこいと思われるだろうか。
 ああ、一体何の電話だったのだろう。
 まさか宍戸のことだから、真夜中に愛の囁きだなんてことはないだろうが、それでも声が聴けるだけでじゅうぶん嬉しかった。
 氷帝の高等部へあがった宍戸は、また平部員からやり直しているようで、部活時間だけでは満足に練習も出来ずこれまで以上に自主練習に励んでいるらしい。
 土日も練習に費やしているらしく、住んでいる場所も学校も違うため元々あまり会えずにいた二人は、ますます一緒に過ごせる時間が減っていた。
「俺は俺で、忙しかったしなあ……」
 三年が引退した後、切原は立海の部長の座を引き継いだ。
 それまでのレギュラーは切原以外全員三年だったため、切原は新しいレギュラー選びから始めなければならず、この一年は本当に大変だった。
 勝手が分からない事務などは柳や柳生に聞き、練習に関しては恐る恐る真田に尋ね、仁王にからかわれ丸井に馬鹿にされジャッカルに励まされながら、何とか先輩たちを無事に送り出したのだ。――ちなみに、幸村に何も聞かなかったのは、彼が何の役にも立たないからである。
 幸村は確かに、テニスの腕前だけで言えば立海一だ。彼が部長であったのは誰もが納得するところであろう。
 だがしかし、彼がきちんと部長としての役目を果たしていたかというと、それは疑問の残るところだった。
 幸村は、テニス以外は何も出来ない男なのだ。実質部長としての役割を担っていたのは柳であり、副部長である真田だった。
 幸村はただ、試合に出て勝ち、部員に檄を飛ばす。それだけのことしかしていなかった。
 それでも下から文句が一切出なかったのは、ひとえに立海が実力主義だったお陰であろうと切原は思っている。
「俺だって、他に任せられる奴がいればなあ……」
 もう少し時間がとれれば、宍戸に会いに行く時間だって作れたはずなのに。
「は〜あ」
 大きくため息をつき、切原はベッドに倒れ込んだ。
「りょうく〜ん、声がききたい、よ〜」
 更に顔が見られれば最高だ。そんでもって、触ったり抱きしめたりできたら、もっともっと最高だ。
「……あ、やべえ」
 宍戸のことを考えてたら変な気分になってきた。今電話がかかってきたりしたら、大変だ。
 携帯を窓辺の一番電波のよい場所に置き、切原はベッドをおりる。
「こういうときは、身体を動かすに限る!」
 切原は深夜だというのに腹筋を始めた。


 久々の運動に疲れが見え始めた頃、切原の携帯が鳴った。宍戸専用の着信音だ。
「うわっ」
 慌てて起き上がろうとし、滑る。何とかベッドによじ登ると、携帯を手に取った。
「はい! はいはーい! もしもし亮くん!?」
 一瞬間をおいて、宍戸の吹き出す声が聞こえてくる。
『お前、うるせーよ。はしゃぎすぎ』
 宍戸の声だ。夢にまで見た(そんで、起きたらちょっとアレなことになっていた)、宍戸の声。
「しょーがないじゃないっすかあ! だってだって、亮くんからの電話なんて、いつぶり?」
『お前なあ、人を薄情モンみてーに……』
「あ、あの、さっき出られなくてごめんなさい! 風呂入ってて! って、メールしたんだけど……」
 そういえば返信はなかった。切原が恐る恐る言うと、宍戸は、ん?と言う。
『メール? 気づかなかったな、外にいたから』
「外!? まだ練習してんの!?」
 もう深夜と言ってもいい時間だ。いくら宍戸が練習熱心とはいえ、さすがにオーバーワークだろう。宍戸の身体が心配になる。
「大丈夫? もう帰ったほうがいいよ」
『え? せっかくここまで来たのにかよ?』
「ここまでって、……え?」
 そういえば、なんだかいつもより声が近いような。
「亮くん? 今、どこにいるの?」
 練習していたのでは、ないのだろうか。どくどくと、心臓が落ち着かない。そわそわと、切原は宍戸の言葉を待った。
『窓の外、見てみな』
 言われた通り、カーテンを開け、窓を開ける。窓枠がひどい音を立てたが、気にしないことにした。
 月明かりの下、笑顔で手を振る愛しい人の姿が見える。宍戸だ。
「亮くん……!」
『お前、慌てすぎ。窓壊れんじゃねえの?』
 笑いを含んだ声が、携帯と窓の下、両方から聞こえてくる。
「あ、あのっ」
 嬉しさの余り叫び出しそうになる切原に、宍戸がしーっと口に人差し指を当てた。
『外、出てこいよ』
 もちろん、切原が断るはずはなかった。


 こっそりと家を抜け出し、切原は宍戸の元へ駆け寄る。
「悪ィな、こんな時間に」
「いえ! 嬉しいっす!」
 満面の笑みを浮かべた切原に、宍戸が困ったように笑った。
「亮くん?」
「ここじゃ、ちょっとな。話し声響くし。あっちのほう公園あったろ」
「う、うん」
 来る途中に通ったのだろう、確かに宍戸の言う場所に公園はある。自転車を引き、黙々と歩く宍戸の姿に切原は不安を覚えた。
 宍戸は一体、何しに来たのだろう? 宍戸のことだから、顔が見たかったとか、そんな理由ではないはずだ。
 宍戸は、どちらかといえば何か困ったことや苦しいことがあっても人には言わず、自分で処理するタイプだから。
 いつもとは異なる宍戸の姿に、もしや別れ話なのでは、と思い当たる。ぎくりと、身体が強ばった。
 別れ話――以前にも、経験したことがある。
 宍戸がレギュラー落ちをしたとき、それを喜ぶ切原の心を見透かした宍戸から、切り出されたのだ。
 思えば、あのときの宍戸も妙に静かだった。
 静かに、淡々と別れを告げられた。全く迷いがなかったのは、既に宍戸の心が決まっていたからなのだろう。
 切原が何を言おうと、すがりつこうと、揺らがないだけの決心が、宍戸にはあった。
 あの頃から、自分は何一つ変わっていない。ただ一つ変わったものがあるとすれば、それは宍戸への想いだけ。
 宍戸への想いは、日が経つにつれ消えるどころか、ますます募るばかりだ
 宍戸が、好きだ。出会ったときよりも、つきあい始めた頃よりも、――昨日よりも、ずっと。
 今、別れを告げられたりしたら。
 自分は、どうなってしまうのだろう?
 ベンチの前で、宍戸が足を止める。ゆっくりと、切原を振り返った。


「誕生日、おめでとう」
「……えっ?」
 言われたことが理解できず、切原は呆然とする。言われてみれば、零時をまわった今は、切原の誕生日だ。
 ぽかんとしたままの切原を前に、宍戸がおかしそうに笑った。
「お前、何その顔! 幽霊でも見たみてーな顔しやがって」
「だ、だって! だってなんか、亮くんいつもと雰囲気違うし、わざわざ俺んちまで来るし、てっきり別れ話かと……」
「別れ話ぃ?」
 思わず本音を漏らした切原に、宍戸が不機嫌そうな顔になる。
「あ、いやあの、だって……、」
「なんだお前、そんなに俺と別れてえのかよ?」
「ち、違うって! そんなわけねえし! 嫌っつっても離さねえし!」
 切原が必死になって否定すると、宍戸は仕方なさそうに頷いた。
「ま、いーけどお?」
「ほんとですって! ……ね、ねえ亮くん、そのために来てくれたの? わざわざ、おめでとうって言いに?」
 普段の宍戸からは考えられないぐらいの大サービスだ。
「あ? あー、いや、えーと」
 宍戸が、照れているのか口ごもる。
「そーなんだ! 嘘みてー! 嬉しいよ亮くん!」
 大はしゃぎで、切原は宍戸に抱きついた。
「お前なあ、ここ外だぞ!」
「誰も見てませんって〜」
 構わずに切原はぎゅうぎゅうと抱きつく。
 やがて諦めたのか、宍戸は抵抗をやめた。
「ったく、お前が悪いんだぞ、お前が」
「ええ? なんすか、急に!」
「ほんとは電話で済ませようと思ったのに、何回かけても出ねえから、めんどくさくなって直接来ちまったんだ」
 どうやら、宍戸と切原では面倒の基準が違うらしい。
 東京から神奈川まで夜中にやってくるより、リダイヤルを繰り返すほうがよっぽど楽だと思うのだが。
 直接会えたほうがもちろん嬉しいので、切原は突っ込むのをやめる。
「えー! そうなんだ、よかったあ、俺風呂場で寝てて!」
「は!? 寝てたのかよお前! あぶねー奴だなあ、ジローみてえ」
「ジロー、さん? 幼なじみの?」
 いつかの牽制してきたジローの姿を思い返し、切原は警戒した。
「ああ、あいつ風呂でもどこでもすぐ寝ちまうから、よく一緒に風呂入ったりしたんだよなあ」
 何でもないことのように、宍戸が言う。ぴくりと、切原の身体が反応した。
「え! 亮くん一緒にお風呂入ってくれんの!?」
「は!? 誰もんなこと言ってねえだろ!」
 宍戸は慌てて身体を離そうとしたが、ここで逃がす切原ではない。
「えー、だって今言ったじゃん! 俺は心配じゃねえの?」
「や、それとこれとは、話が別だろ!」
「別じゃない! ねえねえ、誕生日プレゼント、それでいいから〜」
 かわいこぶって、甘えてみせる。
「馬鹿なこと言ってんじゃねえ! 俺はもう帰る!」
「なーんで、泊まってけばいいじゃん。今から帰ってもろくに眠れねえよ?」
「それはお前といても同じことだろ!」
 うわお。問題発言。
「え、何それ何それ、どゆこと? 俺といると眠れねえんだ? 亮くん、……期待してんの」
「は!? ちょ、お前、な、なに照れてんだよ……?」
「だって、亮くんが大胆発言するからー」
「し、してねえし……!」
 焦っているせいか、宍戸からは先ほどまでの勢いが失われていた。
 この機会を逃すまいと、切原も引いてお願いしてみる。
「ね、亮くん。最近会えなくて、俺すげー淋しかったんだ。面倒だったからでもなんでも、亮くんのほうから会いに来てくれて、すっげー嬉しい。最高の誕生日だよ。だからさ、これで帰るなんて、言わないで。もっと一緒にいたいよ。ね、駄目っすか?」
 さりげなく上目遣いでおねだりすると、宍戸は考え込む素振りを見せた。
 そっと両手を取って、握ってみる。
 こうして真剣な顔をしている亮くんもいいな。かっこいい。惚れ惚れとしちゃう。でもやっぱ、笑った顔が一番かわいいんだけど。
 俺の手で笑わせてあげられたら、それが一番最高。
 どきどきしながら待っていると、宍戸が諦めたように笑った。
「わかった。お前んち、行く」
 その笑顔の、優しいこと。嬉しさの余り、切原はもう一度抱きついていた。


 朝になり、しあわせいっぱいで登校した切原を待ち受けていたものは、何をかぎつけたのか、にやにやと笑いながら立っている仁王と、よくわかっていない様子の丸井の姿だった。誕生日祝いの名目で思い切りしごかれたものの、切原はしあわせだった。


 【完】


2006 09/25 あとがき