夜道を歩く(切原と宍戸)
 
 
「……んが」
 寄り添って話している内に、眠ってしまったらしい。
 切原は、暗い部屋の中目を覚ました。
 宍戸が眠っていることを確認すると、起こさないよう静かにベッドを抜け出す。
 身支度を整え、万一家族が入ってきたときのために宍戸にも服を着せてやった。
 といっても、寝ている人間に全て身につけさせることは至難の業なので、シャツと下着を着せただけだったが、裸でいるよりはマシだろう。
 置いたままだったカバンを担ぎ、扉に手をかける。
 そのまま出ていこうとして、切原は振り返った。
  ゆっくりと元の位置まで戻ると、閉じられたままの宍戸の瞼に、そっと唇を寄せる。
 微かに、宍戸が笑ったような気がして、切原は嬉しくなった。
 眠っていても、触れている相手が自分だとわかってくれたのだろうか。
 これ以上そばにいると、本当に帰りたくなくなってしまう。
 未練を断ち切るかのように、切原は勢いよく扉を開けた。
 
 
 いつの間にか帰宅していた宍戸の母親に挨拶をすると、またいつでもきてねと返される。
 自分たちの関係を知らないからこそ、そう言ってくれるのだとはいえ、まるで宍戸の家族からもゆるされているような気がして、自然と心が弾んだ。
 もう一度挨拶をして、今度こそ切原は宍戸の家を後にした。
 
 
 泊まっていきたい気持ちは強かったが、今日無断でさぼってしまった手前、明日の朝練は何としても出なければならないだろう。
 早朝に宍戸の家を出発するのでは、宍戸にも家族にも迷惑がかかる。
 仕方ないんだと心の中で呟きながら、切原は駅までの道のりを急いだ。
 
 
 半分ぐらい歩いたところで、見知った人影に遭遇した。
 向こうも気づいたらしい、軽く手をあげられる。
「切原くん、やん?」
「あ、どーもっす」
 宍戸のクラスメートで部活仲間でもある、忍足が立っていた。
 何故、こんなところにいるのだろう。
 忍足の住んでいるアパートは学校の近くで、暇なときは入り浸っているのだと宍戸から聞いていた。
 切原がじっと見つめると、忍足が嬉しそうに笑った。
「あー、やっぱり」
「え?」
 何がやっぱりなのだろう。
 切原が首を傾げてみせると、忍足は笑顔のまま続ける。
「切原くん、宍戸んちにおったねやろ?」
「はあ……」
 反射的に頷いてから、しまったと思った。
 宍戸が、用事があると部活を早退したのが嘘だとばれてしまったのではと焦る。
 どうしよう、亮くん、ごめんなさい。
 切原が心の中で宍戸に謝罪していると、忍足がまた笑った。
「別に、言いつけたりせんって。知っとったしな、切原くんがおるって」
「えっ」
 驚いて顔を上げると、忍足の穏やかそうな視線にぶつかる。
「さっき、電話したとき」
「あ。聞いたんすか?」
「聞いてはおらんけど、わかった」
 どうやら、宍戸との電話で、自分がいることを察したらしい。
 やっぱり、勘のいい人なんだな。
「じゃあ、亮くんが、犬がいるって誤魔化したのも……」
「ばればれやって」
「……あはは」
 宍戸は嘘を吐くのが下手だから、仕方ないと言えば仕方ないのだろう。
 切原が苦笑すると、
「亮くんって」
「はい?」
「亮くんって、呼んどんねや?」
「あー、はい……」
 呼び方について訊ねられ、そんなことにこだわられるとは思わなかったので、少し驚いた。
 切原が数回瞬きをくり返していると、忍足の口元がゆるんだ。
「宍戸を名前で呼べるんは、ジローぐらいのもんやと思っとったんやけどな」
「ジロー?」
 ジローというのは確か、初めて宍戸に会ったとき連れていた金髪の少年のことだ。丸井のファンだと言って、握手をして貰って嬉しそうに笑っていた。
 そのとき、宍戸がジローに向けた笑顔を思い返し、切原の胸が痛んだ。
「知っとる? 宍戸の幼なじみ」
「えっ! 幼なじみ!?」
 言われてみれば、あのただの友達というには親しすぎる姿は、そう言われるとしっくりくるような気がする。
 あの時とは違い、今の切原にとって、「宍戸の幼なじみ」というのは重要な意味を持つ。何と言っても、その相手は、宍戸が無意識に好いていた相手なのだ。宍戸の、気づくことすらなかった初恋の相手。それが、あの、ジローという少年なのだろうか。
 だが、切原の目にしたジローは、宍戸の言っていた幼なじみ像には当てはまらないような気がする。偉そうとか、そんな風には見えなかった。
「あのー」
「ん?」
「亮くんの幼なじみって、その人だけっすか?」
「いや、他にもおるよ? 幼稚舎から一緒のんとは、結構仲ええみたいやし」
 ということは、宍戸の初恋の相手候補は、他にも何人かいるということになる。
 一体、誰のことなのだろう。忍足なら、知っているだろうか。聞くのが怖いような気もする。絶対敵わないような相手だったら、どうしよう。いやいや、過去がどうであれ、今宍戸とつきあっているのは、他ならぬ自分なのだ。
 ぐるぐると考えながら、切原はようやく問いかける決心をした。
「あの、そんなかに、すんげー偉そうな奴……人って、います?」
「偉そう?」
「あの、テニスやってるっぽくて、亮くんとはあんま仲良くなさそうで、」
「あー」
 思い当たる人物がいたらしい、忍足が一人頷いている。
「それって、……誰、なんすか?」
「ん? なんでそない気にしとんの?」
「えーと、……」
 この人に、言ってしまっても良いものだろうか。それがきっと宍戸の初恋の相手だなんて、自分の憶測でしかないのに。
 それに、忍足の口からそれが宍戸へ伝わったりしないかも不安だった。宍戸がそれを知ったりしたら、相手を意識してしまうかも知れない。自分より、やっぱりその相手がいいと思ってしまう可能性だって、全くないとは言い切れない。
 迷う切原に、忍足は先ほどまでとは違う種類の笑みを浮かべる。その笑顔を、いつかどこかで見たような気がして、切原は首をひねった。
 一体、どこで見たのだろう。
「他の奴にはゆうたりせんし、安心し?」
 にっこりと、隙のない笑顔。やはり、見覚えがある。
 その笑みにつられるように、切原は口を滑らしてしまう。
 その相手が、宍戸の初恋の相手らしいと聞くと、忍足はすんなりと納得したようだった。
「あー、やっぱそうやったんや。寄ると触ると喧嘩しよるし、関係ないって素振りしよるくせに、なんか妙に意識しとるし。初恋、ねえ。それで了解いったわ」
「……」
 忍足の言葉に、切原は足下から崩れ落ちそうになる。
 宍戸は、今でも、その相手を、……好いている、のだろうか。そうとは意識せずに、心の奥底で。相手を、追い求めているのだろうか。
 俯いて黙り込む切原に、忍足が優しい声音で言った。
「そない気にすることないで? 宍戸は、ちゃんと切原くんを好いとるもん」
「……ほんとに、そう思うっすか? 亮くん、俺の話したりします? そういえば、忍足さんはなんで俺達のこと知ってるんすか? 亮くんがゆったんすか?」
 矢継ぎ早に訊ねると、忍足が苦笑した。切原くんは、ほんとに宍戸が好きなんやねえ、としみじみとした口調で言われ、少し恥ずかしくなる。
「宍戸は、なんもゆわんよ? そういうん、口に出すキャラとちゃうし。ただ、俺が気づいてん。やって宍戸、なんや綺麗になったっちゅーか、色気が出てきたっちゅーか」
「色気……」
「女の子は恋をすると綺麗になるっちゅーけど、男でも一緒なんやなあって、なんや感心したんを覚えとるわ」
 そんなに、目に見えて変化したのだろうか。自分と、つきあいだして。
「こう、見ててどきっとするような表情とか、するようになったしな」
「亮くんに何かしたら、殺します」
「うーわ。シャレやないって、わかってまうとこが怖いわ」
 怖い怖いと大げさに震えてみせる忍足に、切原は鋭い緯線を向ける。
 忍足は肩をすくめると、
「自信持って、ええと思うで? 宍戸を変えたんは、切原くんやねんから。な?」
「忍足さん……」
「てゆーか、信じたらな、宍戸がかわいそうや」
「はい」
 今度こそ素直に頷くと、忍足は満足そうに微笑んだ。
 それから、聞きそびれていたことを思い出し、切原は口を開く。
「で、亮くんの初恋の相手って……」
「それは、……」
「それは?」
 一体、誰なのだろう。ごくりと、つばを飲み込んだ。
 そこで忍足は、先程の、どこかで見た覚えのある笑みを浮かべた。
「それは、秘密、や」
 世の中には、知らんほうがええこともあるんやで、と笑う忍足に、切原は、ようやく気づいた。
 あの、笑みは。
 仁王が、人を騙すときの笑顔にそっくりだということに。
 
 
 今更気づいても、後の祭りってやつなのだけど。
 
 
 
 
 【完】
 
 
 
 
 
2004 06/13 あとがき