おやすみ(忍足と宍戸)


 きゃんきゃんという、飼い犬の鳴き声で宍戸は目を覚ました。
 散歩の時間だろうか。宍戸は、起き上がって時計を見る。時刻は朝の六時をさしていた。
「ん〜?」
 まだ、散歩には早い時間だ。不思議に思った宍戸が窓の下を覗くと、そこには信じられない光景が広がっていた。
「……え?」
「し、宍戸……! 助けて!」
 悲愴な顔をした男が、窓を開けた宍戸に気づき、助けを求めてくる。
 宍戸家の庭では、メガネをかけた関西弁の同級生、――忍足侑士が、小屋から出てきた犬に足を噛まれていたのだった。


「……忍足、お前、もしかして」
「ゆわんといて」
 犬に引きずられ、忍足の足は泥だらけだ。タオルを渡しながら、宍戸は吹き出す。
「笑わんといて」
 忍足が、顔を赤らめた。はっきり言って、気持ち悪い。
「お、お前、」
 我慢できずに笑い転げながら、宍戸は言った。
「もしかして、犬が怖いのか……!? あっははははは!!」
「笑いすぎやで、宍戸」
 忍足が、むっとした声を出す。だが、これが笑わずにいられようか。
 大人びた容姿で、いつも落ち着いた雰囲気を醸し出しているあの忍足が、――犬が怖い、だなんて。
 宍戸の飼っている犬は、小型犬とまではいかないが、ごく普通サイズの犬だ。柴犬と何かの雑種なので、頭も良く人なつっこい。さっきだって、噛みついていたというよりは、じゃれついていたというほうが正しいだろう。
 忍足の、今にも泣きそうな青ざめた顔なんて、もう二度と見る機会がないのではないだろうか。
「うくくく……」
 思い出し笑いを始めた宍戸を、忍足がどついてきた。

 家族が起き出さないうちにとりあえず部屋に上げ、まだこんな時間か……と宍戸はベッドに潜り込む。
「ちょぉ、寝るつもりなんか!?」
 忍足が、声を荒げて突っ込んできた。
「何だよ。俺はまだ寝てる時間だっつーの。お前が起こしたんだろ」
 部活を引退し、朝練のなくなった今、こんな時間に活動する理由はない。
「せやけど、せっかく愛しの忍足くんが遊びにきたってるゆうのに」
 ばしぃっ。いい音を立てて、宍戸の投げた枕が忍足の顔に命中した。
「気味の悪いことを言うんじゃねえ」
「……すんません」
「第一、遊びに来たんじゃなくて、いきなり押しかけてきたんだろうが」
 ふたたび宍戸が布団に潜り込むと、それ以上邪魔する気はないのか、忍足は大人しく床に座っている。
 じっと、恨みがましい目でこちらを見つめながら。
 頭まで布団をかぶって対抗した宍戸だったが、見えない分余計に視線を感じ、ついには耐えきれなくなってしまった。
「お前、何しに来たんだよ?」
 人様の安眠妨害をして、何が楽しいのか。宍戸が顔を出して睨むと、忍足はいっそう情けない顔になる。
「俺なあ、今日家におられんようになってん……」
「……はあ?」

 忍足の言い分はこうだ。
 真夜中、日付が変わったか変わらないかという時間に、突然玄関のチャイムが鳴った。忍足は、アパートで一人暮らしをしている。酔っぱらいの悪戯かとも思ったが、念のため覗き窓から見てみたところ、立っているのは、同じ年くらいの少女。見覚えは、あるようなないような。
 放っておこうかとも思ったのだが、一向に立ち去る気配がない。
 フェミニストの忍足としては、女の子をこんな時間にいつまでも立たせておくわけにもいかず、つい顔を出してしまった。
 そもそも、それが間違いだったのだ。

「そしたらな、そのこな、ゆうてん。『お誕生日おめでとうございます!』って。ご丁寧にプレゼントまで差し出してな」
「誕生日? お前今日、誕生日なのか?」
 知らなかった。宍戸が目を丸くすると、忍足は注目すべきはそこではない、と首を振る。
「ほんで、止める間もなく押しつけられ、そのまま逃げられてん」
「ふーん」
「中身は、手作りらしいケーキやったわ」
「よかったじゃねえか」
 わざわざ、ファンの子が誕生日にプレゼントを持ってきてくれたというのに、何が不満なのだろう。
「あほ。時間を考えんか」
「時間……って、真夜中だっけ?」
 忍足の話を思い返し、宍戸は言った。それは、確かに迷惑かも知れない。
「せや。恐らく、日付が変わったと同時にチャイム押したんやろな。一番におめでとうって伝えたいゆう乙女心、思えばかわいいかも知れへんけどな?」
 忍足は言葉を切ると、思わせぶりな態度で宍戸を見てくる。
「な、なんだよ?」
 ごくりと、宍戸は唾を飲み込んだ。
「それが、一人とちゃうねん」
「え?」
「後から後から、ぴんぽんぴんぽーん、ってな……」
 忍足が、遠い目をする。
 深夜、次々と鳴らされるチャイム。扉の向こうには、プレゼントを持った少女たち。
 ちょっとした怪談だ。
「そ、それは確かに、怖いかもな、」
 微妙に引きつった顔で、宍戸は声をかけた。忍足が、がばあっとものすごい勢いで顔を上げる。
「怖いなんてもんやあらへんで! 宍戸は実際見てへんから気楽に言えるやろけどな!」
「お、落ち着けって忍足」
 凄む忍足を、宍戸は手で制した。
 忍足をここまで動揺させるとは。恋する女の情熱、恐るべし。
「お前んち、学校の目の前だもんな〜」
 忍足ファンでなくとも、その場所を知っている者は多数いるだろう。これまで、家に押しかけられたという話は聞いたことがなかったが。
「今年は、そっか、日曜かあ……」
 壁に掛けられたカレンダーを見上げ、宍戸は呟いた。本日、十月十五日は日曜だ。だから宍戸ものんびり寝ていられたのだと思い出す。
 これが平日なら、少女たちも家に押しかけるようなマナー違反はせず、例年通り学校で手渡していたのだろう。
 無碍に追い払うことも出来ない忍足の気持ちもわかって、宍戸は訊ねる。
「そんで、どーしたんだよ? ずっとそいつらの相手してたのか?」
「途中でさすがに怖なって、家出て駅前におってん」
「駅前? ファミレスとかか」
 駅前まで出れば、二十四時間営業の店がいくらでもあった。頷いた忍足の顔は、疲れ切っている。
「誰かんとこ行こうにも夜中やったし、とりあえずー思てな。せっかくやから、コーヒー死ぬほどおかわりしたった」
「そりゃ災難だったな」
 一人暮らしで節約生活を強いられている忍足からすれば、その程度の出費でも家計に大打撃だろう。ぽんぽんと、宍戸は労るように忍足の頭を叩いてやった。
「……なんや、子ども扱いか」
 じろりと、忍足が目を上げる。
「ちげーよ。子どもじゃなくて、ジロー扱い?」
 宍戸は、幼なじみのジローだけはとことん甘やかす傾向があった。
「さよか。ほんなら、まあええわ」
 普段の様子を知っている忍足は納得したようだ。微かに笑って、忍足はその場に転がる。
「寝るのか」
「寝てへんねや」
「あっそ」
 忍足が目を閉じたのを見て、宍戸も忘れていた眠気を思い出した。もぞもぞと布団に潜り直し、ふと床に転がった忍足を見る。
 よほど疲れているのだろう、忍足はメガネも外さずに横たわっていた。
 フローリングの床に直に寝たのでは、風邪を引くのではないだろうか。
 普段勝手に潜り込んでくる幼なじみを相手にするのと同じつもりで、宍戸は言う。
「こっち来いよ」
 宍戸は、かぶっていた布団の端を持ち上げ、忍足を誘った。
「……へ?」
「風邪引くだろ」
「え、でも、ええの?」
「いいから言ってんだろ。早くしろ、俺だって眠いんだ」
 宍戸が苛々しているのが伝わったのか、忍足は慌ててベッドに上がってくる。
「ほんなら、……お邪魔します」
 忍足が隣に潜り込んだのを確認し、宍戸は目を閉じた。
「おやすみ」
 ややあって、同じ言葉が聞こえてくる。
 肌寒いせいだろうか。久しぶりに感じる他人の体温は、心地よかった。
「こないなプレゼント、もらえるとは思わんかったわ」
 そんな、忍足の呟きが聞こえたような気がする。


 目が覚めたら、犬の散歩に行こう。
 忍足は嫌がるだろうが、無理矢理連れて行くんだ。
 それはきっと、とても楽しいだろう。


 【完】


2006 11/11 あとがき