13:将来の夢(忍足と宍戸)


 先ほどまで雑誌を眺めていた宍戸が、いまはカバンから取り出した一枚の紙を見つめていた。それが何なのか、見当はついたが忍足はあえて訊ねてみる。
「なんやそれ」
「忍足」
 まるで、いま忍足に気づいたという風に宍戸が顔を上げた。そんな宍戸に、忍足は内心舌打ちする。学校帰りに自分の家へ寄りたいと言ってきたのは宍戸のほうだというのに、いくらなんでもその反応はないだろう。
 だが怒るのも馬鹿らしいと、忍足はにっこり笑って宍戸の手から紙を取り上げた。宍戸は一瞬咎めるような顔をしたが、取り返すこともなく再び畳に転がる。それを目の端で確認すると、忍足は白い紙に視線を落とした。
 それが予想通りのものだったので、忍足は微かに笑みを浮かべる。宍戸が眺めていたものは、先日のHRで配られた進路に関するアンケートだった。二人が通う氷帝学園は、余程のことがない限り大学部までエスカレーター式に進学できるのだが、稀に外部受験をする者や海外留学をする者などが出るので、中等部のうちから度々こういったアンケートをとられるのだ。
 忍足自身は将来について特に希望を持っていなかったが、親が医者なので自分も同じ道をたどるだろうと思っていたし、また周囲も同じことを望んでいるはずだった。忍足はまだ中学生だったが、あいにく周囲に逆らってまで押し通すような夢や希望、情熱などというものは持ち合わせていなかった。むしろ、流される生き方を好んでいると言ってもよいだろう。
 それは、元々は我が儘な姉を持つ忍足なりの処世術だった。幼い頃、あれこれ命令をしてくる姉に逆らって殴られるより、はいはいとなんでも言うことを聞いて褒められるほうを選んだのだ。
 その生き方は、ひとり東京に出てきた今でも変わらない。不用意に反発して怒りを買うより、相手に合わせて自分を変えることの方が、忍足にとってはずっと楽だった。
「提出期限、もう過ぎてるんとちゃうの?」
 忍足の問いに、わかってるという様に宍戸が口をとがらせる。こんなもの、てきとうに書いて出してしまえばよいのだ。学校側だって、別に今から真剣に考えろと言っている訳ではない。だが、それができないのが宍戸なのだろう。
 ある意味真面目で、融通が利かない。頑固で、よく言えば一途なところがあった。特に、テニスに傾ける情熱にはすさまじいものがある。どれだけぼろぼろになっても諦めず、逃げ道を探そうともせず、馬鹿正直に真正面から挑んでいくその姿は、忍足にはないものだ。
 正直言って、馬鹿な男だと思う。不器用すぎて見ていられないことも多々あった。だが反面、憧れているというのも事実だ。自分が捨ててきたもの全部を抱えて生きている宍戸を、うらやましいと思うこともあった。
 黙り込んで仰向けに寝転がり天井をにらんでいる宍戸に、ため息をついて忍足は口を開く。
「とりあえず、高等部には進学すんねやろ?」
「ああ」
 ペンケースから取り出したペンで、かわりに丸をつけてやった。
「高等部で学びたいこと、やりたいことは?」
 天井を見上げる視線が少し泳いで、テニスという全く宍戸らしい答えが返ってくる。その通り書き込むと、次の質問を読み上げた。
「将来の夢は?」
「……」
 唇を一文字に結んで、宍戸が目つきを鋭くする。考え込んでいるらしいと、忍足は無言で待った。静まりかえった部屋に、冷蔵庫の立てる音だけが微かに響く。待ちくたびれた忍足がペンを離しかけたそのとき、宍戸の口から小さく声が漏れた。
「跡部に……」
「ん?」
 いま確か、跡部と聞こえたような。跡部は宍戸の幼なじみで、テニス部の元部長でもある。またテニス絡みかと、忍足は肩をすくめた。
「跡部に、勝つ」
 きっぱりと言い切った宍戸に、驚いて忍足は言葉を飲み込んだ。天井を見上げたままの宍戸に目をやり、気を取り直して突っ込みを入れる。
「それ、夢っちゅーか目標やん?」
「うっせ」
 確かに、今のままでは宍戸が跡部に勝つことはないだろう。だからといって、将来の夢として書くようなことではない。
 それとも宍戸は、一生跡部を追いかけて生きていくつもりなのだろうか。そう思った瞬間、忍足の中で何かが弾けた。
 ペンを掴むと、言われたことと違うものを書き込んだ。最後にクラスと出席番号、名前を記入して宍戸に手渡す。
「サンキューって、なんだよこれ……」
 書き込まれた内容に、宍戸が顔をしかめた。
「ええやん、それで」
「つーかこれ、うちの親父の仕事書いただけじゃん」
 宍戸が、身を起こし抗議してくる。笑顔でかわすと、忍足はぽんぽんとテーブルを叩いた。
「宍戸に似合いやと思うわ」
「はあ?」
「意外と面倒見ええし、ええんちゃうの」
 笑顔の忍足と手にした紙を交互に見て、宍戸は諦めたように肩を落とす。
「ま、今から真面目に書くこともねえか」
「そうそ。宍戸はちょっと肩の力抜いたほうがええって」
 軽い調子で肩を叩いてやると、宍戸はそのまま紙を折り畳んでカバンに戻した。
 宍戸が自分のいいなりになったようで、気分がよい。そんな風に考えていると、宍戸が顔を上げた。目があって、微笑まれる。
「不思議なんだけど」
 宍戸の唐突な言葉と笑顔に、忍足は面食らった。
「は?」
「お前に言われると、それもいいかなって気がすんだよな」
 なんでかなと、宍戸が首を傾げる。答えられずに、忍足は黙り込んだ。これは、なんというか。少しは脈があると考えてもよいものだろうか。
 宍戸は、跡部が好きなのだとばかり思っていた。性格はさておき、あれだけ完璧な男なのだ、幼い頃から一緒にいて惹かれないはずがない。自分を過小評価するつもりはないが、跡部より優れた部分があるとも思えなかった。
 だが、それでも宍戸が自分を選んでくれると言うのなら。自分はきっと、躊躇わずにその手を引くことだろう。
 まだ首を傾げている宍戸に向かって、忍足は先ほどまでとは違う、心からの笑みを浮かべた。


【完】


2005 02/28 あとがき