20:視力検査(忍足と宍戸)


 毎年春になると行われる、身体計測。今日は視力や聴力の検査等が行われる日だ。同じクラスの者と話しながら列に並んでいると、忍足が検査を終えてやってくるのに気づいた。忍足とは同じクラスで大抵行動をともにしているのだが、今日に限って忍足は何故か宍戸を置いて先に検査へ行ってしまったのだ。
 腹を立てるほどのことでもないが、気分が悪いのも確かだったので、宍戸は部屋を出ていこうとする忍足を呼び止めた。忍足が、面倒そうに振り向く。
「忍足! なにも置いてくことねえだろ?」
 不満げに訴えると、忍足はいつもの調子で苦笑した。
「すまんすまん。すいとるうちに終わらせよ思てな」
「ったく、友達がいのねえ奴!」
 宍戸の並ぶ列はかなりのびていて、いつになったら検査が終わるか見当もつかない。先に帰るなよと口をとがらすと、忍足が笑って頷く。去っていこうとした忍足の手から、何かが落ちた。
「忍足、落としたぞ」
 かがんで拾うと、それは忍足の健康カードだった。なにげなく視線を落とすと、たった今検査したばかりの視力が目に入る。両目1.5。テニスをするには充分の視力だろう。そう思って、宍戸は目の前の忍足にカードを差し出した。
「お前、けっこーいいんだな。パソコンばっかやってるくせに」
 からかうように言うと、忍足は何とも言えない表情でカードを受け取る。その顔に、なんだかおかしいとようやく気づいた。
 そういえば、忍足は眼鏡をかけている。眼鏡をかけて1.5だということだろうかと考え、だが裸眼での視力が書かれていなかったことを思い出した。
「え?」
 思わず漏れた呟きに、忍足が困ったように笑う。
「ばれてもーた?」
 宍戸は、呆然と目の前の忍足を見つめた。


 他の奴には秘密にしてくれと頼まれ、宍戸は一人、忍足の住むアパートへ連れてこられた。部屋に着くなり、忍足はお茶を入れるとキッチンスペースへ立ってしまった。部屋の中央に置かれたテーブルに肘をつきながら、宍戸は眉間にしわを寄せる。
「なに唸っとるん? 怖いわ」
 お茶がテーブルに置かれ、忍足は向かいに座り込んだ。お茶をすする忍足に、どう切り出すか迷って、単刀直入に聞くことにした。
「お前、その眼鏡なんでかけてんだ?」
 忍足が、無表情にこちらを見る。忍足はいつも笑っている印象しかなかったので、それだけで迫力が増した。聞いてはいけないことなのだろうかと、宍戸は身を引く。
「知りたい?」
 宍戸がさがった分、忍足が身を乗り出してきた。
「え、そりゃ、まあ……」
 知りたいか知りたくないかと問われれば、知りたいに決まっている。必要もないのにかけたりして、テニスをするとき邪魔ではないのだろうか。
 微かに笑った忍足に、期待で心臓が高鳴った。
「かけてみる?」
「え」
 とれというように、忍足が目を閉じて顔を近づけてくる。言われるまま、宍戸は忍足から眼鏡を外した。忍足が、目を開ける。
 手にした眼鏡のことなど忘れ、宍戸は忍足を見つめた。眼鏡のない忍足は、まるで別人のようだ。
「初めて見た」
「ん?」
「眼鏡、はずしたとこ」
「せやった?」
 呆然と見つめる宍戸に、おかしそうに忍足が笑う。その仕草も、表情も、何一つ変わらないと言うのに、眼鏡がないだけで随分と新鮮に映った。
「そない見つめんといて?」
 照れるわ〜などと、おどけて言う忍足に、急に恥ずかしくなって宍戸は話題を変える。手に持った眼鏡をいじりながら、
「これ、度は入ってねえの?」
「うん。ただのプラスチックや」
「ふーん」
 なんとなく、かけてみる。確かに、視界は歪まなかった。ただ、レンズの端が見えて気になるし、鼻にかかった部分がむず痒いようで、宍戸はすぐに外してしまう。
「これでテニスとか、俺無理なんだけど」
 渋い顔で本音を漏らすと、忍足が吹き出した。
「そりゃまあ、宍戸には無理やろなあ」
 笑いすぎで涙を浮かべた目をこすりながら、忍足が何度も頷く。馬鹿にされているようで、宍戸はむっとした。
「で、なんでお前こんなんかけてんだよ?」
「これか? 女よけや」
「……は?」
 予想外の言葉に、宍戸は面食らう。忍足が、眼鏡を弄びながら笑みを深めた。
「俺って、男前やん?」
 普段なら即座に突っ込むところなのだが、確かにこうして見るとなかなか整った顔立ちをしていると思う。けれど、素直に認めるのもなんだか癪だ。
「跡部の次ぐらいにな」
「ははっ」
 宍戸の答えに、忍足が肩を揺らす。それって、と目線をこちらに向けた。
「最高の褒め言葉やと思うねやけど?」
 どきりと、鼓動が跳ね上がる。眼鏡が無いだけだというのに、悠然と微笑む忍足には、なんだかいつもは全く感じない色気のようなものがあるようで、宍戸は落ち着かない気持ちになった。
「で、だからなんで眼鏡」
 忍足の顔を見ないように目をそらしながら、宍戸は早口に訊ねる。
「せやから、女よけやって。この顔さらしとったら、モテてモテてしゃあないねん」
 にっこりと笑った忍足からは、それが真実なのかそれとも嘘なのか読みとることができなかった。何を言おうか迷いながら、宍戸は口を開く。
「……やな奴」
 その言葉に、また忍足が笑った。眼鏡があっても、忍足は女生徒から人気がある。跡部が近づきがたい雰囲気を持っている分、いつも笑顔で親切な忍足はとっつきやすいこともあって、もしかすると声をかけられる回数は跡部より上かも知れない。これで眼鏡を外したら、更に大変なことになりそうだ。
「いつからそれかけてんだよ?」
「これか? こっち来るとき買うてん。ちょっと知的やん?」
「どこが」
 不機嫌さを隠さずに宍戸が言うと、忍足がテーブルに眼鏡を置いた。
「邪魔じゃねえの?」
「慣れや、慣れ。まあ、汗かくとすべって鬱陶しいけどな」
「ばっかみてえ」
 ほんとうに、馬鹿みたいだ。呆れて肩をすくめてみせると、忍足がひどいと苦笑した。
「関西人にばかは禁句やてゆうとるやろ」
「知るか」
「そない意地の悪いことゆわんと」
 忍足が、テーブルの向こうから宍戸の隣まで移動してくる。さりげなく肩に手を乗せられ、至近距離で向き合う形になった。ふざけて肩を抱いたりするのなんて、しょっちゅうだというのに、こんなにどぎまぎするのは何故なのだろう。
「忍足」
 思わずうわずった声が出てしまい、宍戸は顔を赤らめる。なんでこんな緊張してんだ俺。だせえ。激ダサ。心の中で己を責めていると、忍足の笑う気配がした。顔を上げると、困ったように微笑まれる。
「そないかわいい反応されると、期待してまうやん」
「なに?」
 忍足の言っていることが、わからない。首を傾げる宍戸に、忍足の顔が近づいた。
「俺なあ、決めててん。この眼鏡かけるときにな」
「なにを?」
 うわずらないように注意して放った言葉が、今度は掠れる。吐息がかかりそうな距離で、忍足が笑みを消した。
「素顔は、好きな子にだけ見せるって」
「は?」
 180近い男の口から飛び出すには似つかわしくない、なんとも乙女チックな言葉に、宍戸は笑ってもよいものか思案する。
「って、今外してんじゃん」
 自分に素顔を晒していることに気づき、宍戸は声を上げた。
「せやから、そーゆーことや」
「……はあ?」
 忍足の顔が、更に近づいてくる。肩に置かれた手に、力がこもった。
「おした、」
「逃がさへんで?」
 熱っぽく紡がれた言葉に、宍戸はようやく理解する。鮮やかな笑顔に目を奪われ、制止の言葉は吐息とともに忍足に飲み込まれた。


【完】


2005 03/04 あとがき