44:お土産(忍足と宍戸と跡部)


 耳に届いた幾度目かのため息に、跡部はこめかみを引きつらせた。じろりとにらみ付けた先には、幼なじみである宍戸の姿がある。宍戸は、ぼんやりとソファーにもたれながら、点けっぱなしのテレビに顔を向けていた。だが、その目は何も追ってはいない。
「はー」
 無意識であろう、宍戸がまた息を吐く。とうとう我慢できなくなり、跡部は長い足を伸ばして宍戸の後頭部を蹴り飛ばした。
「でっ!」
 勢いでソファーから転がり落ちた宍戸が、上半身を起こしてこちらを見上げてくる。
「いきなり何すんだよ跡部!」
「うるせえ」
 背筋の冷たくなるような声音の跡部に、ようやく宍戸は跡部が怒っていることに気づいたようだ。引きつった顔で、僅かに身を引く。
「な、に怒ってんだよ?」
 恐る恐るといった様子で訊ねてくる宍戸に、腕を組みながら跡部は問い返した。
「わからねえか?」
「……さあ」
 宍戸が、少しも考えることなく答える。眉間のしわを増やすと、跡部は立ち上がり宍戸の正面まで移動した。上から見下ろされる形になって、床に座ったままの宍戸はまた一歩下がる。
「たまに遊びに来たかと思ったら、ぼけーっとテレビ見ながら延々ため息つきやがって。読書の邪魔だ」
 淡々と責められて、宍戸は眉尻を下げた。視線を床にしかれた絨毯へ落とすと、ぽつりと呟く。
「……悪ィ」
 滅多にない宍戸の姿に、跡部は微かに表情を和らげた。本来なら、無理にでも家から追い返すべきなのだ。それがわかっていながら実行できないあたり、我ながら宍戸には甘いと跡部は嘆息する。
「立て、宍戸」
「ああ……」
 素直に立ち上がった宍戸をソファーに誘導すると、跡部は隣に腰掛けた。
「それで? 何があった」
 迷うような素振りの後、宍戸が口を開く。
「実は……」
 宍戸の口から飛び出した名前に、跡部はやはり追い返すべきだったと後悔した。


 次の日曜、部活が休みだと知って、宍戸は忍足と過ごすつもりでいた。宍戸が忍足の部屋へ入り浸るのはいつものことであったし、何より二人はつい先日からつきあい始めたばかりだったからだ。
 特別デートのようなものを期待していた訳ではなかったが、宍戸としては忍足と過ごせるというだけで心が弾んだ。
「なー忍足」
 土曜日、準レギュラーの練習試合を見ながら、宍戸は忍足に話しかけた。
「なんや?」
 コートへ目を向けていた忍足が、ベンチに腰掛けている宍戸を振り向く。宍戸を見る忍足は、普段より少しだけ目元が優しい。好きだなあと思って、宍戸は顔を赤らめる。忍足が、一瞬目を丸くして、にやりと笑った。
「なんやの宍戸、ひとりで顔赤うして。やらしー」
「ちっげーよ! ばか!」
 からかう忍足へ怒鳴り返すと、宍戸は誤魔化すように早口で言う。
「明日! 午前中ちょっと打ちにいかね?」
「明日?」
 きょとんとした顔で、忍足が首を傾げた。
「え?」
 もしかして、明日が休みになったことを忘れているのだろうか。そう思った宍戸が口を開くより先に、忍足が奇声を上げる。
「あー!」
「うるせえぞ忍足!」
 突然頭を抱えて叫んだ忍足へ、反対側の観客席にいた跡部が怒鳴った。跡部へすまんと手をあげて、忍足は困ったような顔で宍戸を見る。
「すまん、ゆうてへんかったっけ?」
「なにが?」
「明日なあ、見そびれてた映画がDVD発売記念で単館上映すんねん。やっぱ一度は映画館で見たいやん? せやから、俺午前中いっぱいおらんねや」
 午後ならいくらでもつきあうから、と忍足がなだめるように宍戸の肩を抱いた。
「あっそう」
 そう返すと、宍戸は忍足の手をはらう。
「うざい」
 宍戸の言葉に、忍足が苦笑した。


 忍足の趣味が映画鑑賞であることは、宍戸もよく知っている。特にラブロマンスが好みで、あれが泣けるこれがいいと度々薦められるのだが、暗く静かな映画館でじっとしていることを苦手とする宍戸が足を運ぶことはなかった。
 恐らく、一緒に行こうと忍足に誘われたとしても、宍戸は断っただろう。


「だからって、最初から誘わねえっつーのもどうよ?」
 口をとがらす宍戸に、跡部はめまいを覚えながらソファーへ背をつけた。想像以上に、くだらない話だ。
 結局、宍戸は拗ねているだけなのだろう。当然自分を優先させると思っていた忍足が、勝手に他の予定を入れてしまったことに。そして、その予定に端から自分が入っていなかったことに。
「くだらねえ……」
「んだと!?」
 思わず声に出してしまった跡部に、宍戸が食ってかかってきた。額に手を当て、跡部はソファーに横たわる。さっさと出て行けと、手を振って示した。
「なー、あとべー」
 意識的にかそうでないのか、宍戸が幼い頃のように幾分舌っ足らずに名を呼びながら、寝ころんだ跡部の服を引っ張る。
「俺様は、お前の愚痴につきあってやるほど暇じゃねえんだよ」
 口ではそう言いながら、跡部は視線を宍戸に向けた。宍戸が、唇を噛みながら跡部の顔をのぞき込んでくる。跡部は指を滑らせると、宍戸の耳を引っ張った。
「いたっ」
「そんなに忍足が好きなら、本人に言えばいいじゃねーか」
「……なっ」
 跡部の言葉を理解して、宍戸が一気に顔を赤くする。
「な、誰がんな話したっつーんだよ!」
 狼狽える宍戸に、少しだけ愉快な気持ちになって跡部は身体を起こした。
「忍足に構ってもらえなくて拗ねてんだろ? 違ったかよ」
 顔を寄せ、鼻で笑ってやる。宍戸が、顔を真っ赤にしたまま俯いた。
「そんなくだらねえもんより、俺様を見てろ」
 急に真剣な声音になった跡部に、驚いたように宍戸が顔を上げる。
「って、言えばいいじゃねえか」
 にやりと口の端をあげてやれば、単純な宍戸は込められた想いには気づかず、そうなのかなと迷いだした。
「あいつは、お前に惚れてんだ。嫌ってほど効果あると思うぜ?」
 肩をすくめて言うと、跡部は宍戸の耳から手を放す。かわりに、背を押してやった。
「そろそろ戻ってくる頃だろ。とっとと行けよ」
「ああ……」
 部屋から出ようとしたところで、宍戸が振り向く。
「ありがとな、跡部!」
「ああ」
 宍戸がいなくなって、跡部は読みかけだった本を手に取った。読み進めながら、知らず声が漏れる。
「全く、俺様もとんだお人好しだぜ」
 鈍いにも程があると、跡部は立ち去った幼なじみを恨めしく思った。


 跡部邸からの帰り道、携帯を見ると時刻は正午まであと少しというところだった。忍足は、もう帰ってきただろうか。
 一度自宅に戻るか直接忍足の部屋まで行こうか迷いながら歩いていると、誰かにぶつかりそうになる。そのまま通り過ぎようとして、宍戸はふと顔を上げた。
「無視するなんて酷いやん」
「忍足……?」
 映画を見に行っていたはずの忍足が、目の前に立っている。呆然とする宍戸に、忍足が首を傾げた。
「どこ行くん?」
「え。お前のとこ……」
 突然の質問に素直に答えると、忍足が顔を綻ばせる。
「ほんま? むっちゃ嬉しいんやけど」
「なんだよ……」
 忍足があんまり嬉しそうに笑うので、言ってやろうと思っていた文句が引っ込んだ。宍戸が黙り込むと、忍足は手に持っていた袋を持ち上げてみせる。
「なんだよ?」
「お土産。宍戸に」
「俺に?」
「そ」
 押しつけるように渡され、宍戸は袋と忍足の顔を見比べた。何も言わず笑っている忍足に、仕方なく袋を開ける。中に入っていたのは、今日忍足が見に行った映画のDVDだった。
「……俺、ラブロマンス見ねえんだけど」
 照れ隠しの言葉に、忍足が笑みを深める。
「そない意地悪ゆわんと。宍戸と見よ思て買うてきてんで?」
「ふーん」
 素っ気なく言って歩き出した宍戸の後を、忍足がついてきた。
「おもしろかった?」
「そりゃあもう!」
 やっぱり映画館で見てよかったと語りながら、忍足が宍戸に並ぶ。気のない相づちを打ちながら、宍戸は天気がいいなあなどと考えていた。テニスをしたら、さぞかし気持ちよかっただろう。
 歩調のゆるまった宍戸にあわせ、忍足が立ち止まる。
「ごめんな、テニスしてやれんで」
 心を読まれたようで、宍戸はどきりとした。忍足は、いつもそうだ。何も言わなくても、先回りして自分に居心地の良い空間を作ってくれる。それは、忍足が普段から他人に気を配っている証拠だ。時にはからかいながら、時にはさりげなく、いつも誰かのフォローをしてまわっている。忍足が、彼自身より他人を優先していることに、宍戸は気づいていた。
「いいよ」
 するりと飛び出した言葉は、素直な本音だ。目を見開いた忍足がおかしくて、宍戸は笑う。
「映画、見たかったんだろ」
 一歩先を歩きながら、宍戸は肩を揺らした。わがままだなんて、大層なものではないけれど、自分にだけ甘えてくれているようで、嬉しくなる。楽しそうに歩く宍戸に、怒っているわけではないと安心したのか、忍足も軽い足取りでついてきた。


「ほんまはな、俺あかんねん」
 ため息のようにこぼれた声に、宍戸は顔を向ける。忍足が、じっとこちらを見つめていた。何故か言葉を発することが躊躇われ、宍戸は黙ってその目を見つめ返す。
「宍戸がおると、あかんねん」
 真っ直ぐな目で告げられ、宍戸は身動きが取れなくなった。
「なに……?」
「宍戸がおると、宍戸ばっか見てもーて、映画に集中でけへんねん」
 忍足は、真顔で冗談を言うことがよくある。けれど、今は違うような気がした。
「はあ……」
 宍戸の口から、吐息のようにそんな言葉が漏れる。忍足が、がっくりと肩を落とした。
「はあ、はないやろ、いくらなんでも……」
「え? いや、だって、なあ」
 本気で落ち込んでしまったらしい忍足に、我に返った宍戸は慌てる。
「あんな暗うて近いとこにおったら、宍戸のことしか考えられへんもん、絶対」
 とうとう道ばたにしゃがみ込んでしまった忍足が、目元を微かに赤くして見上げてきた。拗ねたような表情をする忍足に、動揺しながら宍戸は顔を赤くする。
「そんなこと、言ったって……」
「……」
 忍足は、無言で宍戸を見上げたままだ。炎天下のせいか幸い周囲に人影はないとはいえ、いつその辺りの家から人が出てくるかわからない。自宅の周辺で、妙な噂が立つのは避けたかった。かといって忍足を置いて帰るわけにもいかず、宍戸は途方に暮れる。
 跡部は、なんと言っていただろう。思い返した気障な台詞に、宍戸は即座に無理だと頭を振った。忍足が、訝しげな顔をする。
「えっと……」
 がさりと音がして、宍戸は先ほど忍足から受け取ったお土産の存在を思い出した。
「これ! 見んだろ? 早く行こーぜ!」
 宍戸が袋を突き出しながら言うと、忍足が目を丸くする。
「……ラブロマンス、見ないんとちゃうの?」
「うっ」
 忍足の意地悪な突っ込みに、宍戸は顔を引きつらせた。視線を泳がせながら、なんとか言葉を紡ぐ。
「えっと、だから、……お前となら、見てやってもいい」
 一瞬の間があって、忍足が笑った。
「随分な言いぐさやね」
「いーから、帰るぞ!」
 手を引いて忍足を立ち上がらせると、宍戸は振り返らずに歩く。
「帰るって、俺の家やん」
「うっせー!」
 青空に、宍戸の怒鳴り声が響いた。


【完】


2005 04/07 あとがき