50:宿題(忍足と宍戸)


 扉を開けると、中から蒸し暑い空気が一気に飛び出してきた。覚悟はしていたとはいえ、あまりの熱気に宍戸は思わず叫んでしまう。
「うわっ」
「そこ、うわっとか言わんの。傷つく反応やわ、全く」
 部屋の主である忍足が、玄関で足を止めてしまった宍戸を押しのけて中へと入っていく。気を悪くした風の忍足に、宍戸は困ったように頭をかいた。
 忍足について、部屋に入る。
「や、別にそんなつもりじゃなかったっつーか、ちょっとびっくりしただけで」
 慌てた宍戸がフォローするつもりでそう言うと、窓を開けに行っていた忍足が振り向いた。その顔に浮かんだ苦笑に、宍戸も眉根を寄せて軽く笑う。
「陽当たり良好すぎて、参るわ」
「冷たいもん飲もうぜ。少しは冷えるだろ」
 宍戸が、来る途中で買ってきたジュースを差し出すと、忍足がせやなと頷いた。
 スーパーで安売りしていたジュースは、普段見かけることのない銘柄だった。どんな味がするのかと一口飲んで、それなりの味であることを確認する。フタを開けたまま忍足にまわすと、何故か忍足は受け取るだけで口をつけようとしなかった。
 黙ってペットボトルを見つめている忍足に、宍戸は首をかしげる。
「別に、普通の味だぜ?」
「あー、せやな」
 宍戸の声に、忍足は弾かれたように顔を上げた。しばらく手の中でまわしたあと、思い切ったように口を付ける。喉が動いたことを確かめ、宍戸は笑いかけた。
「なっ?」
「ああ。それなり、やな」
 二口三口飲み、忍足はペットボトルを机に置いた。暑いのか、その顔はうっすらと赤くなっていた。
 忍足の住んでいるアパートには、備え付けのエアコンがついている。だが、電気代がかかるからと、一人暮らしで節約生活を強いられている忍足がそれをつけることはなかった。窓を開けたぐらいで、この異常ともいえる熱気が消えてなくなるはずもない。
 ただ座っているだけで、じっとりと汗ばんでいくのがわかる。こんな環境で、忍足は日々をすごしているのか。そう考えると、尊敬の念すらわいてくるようだ。
 しかし、冷房をつけっぱなしというのも身体に悪いが、こう暑い中生活するというのも、身体に悪そうな気がする。忍足は、大丈夫なのだろうか。
「なあ忍足」
「なんや?」
「あんまり暑くて無理そうだったら、早めにうち来いよ」
 宍戸がそう申し出ると、忍足が一瞬大きく目を見開いた。まじまじと見つめられ、宍戸は居心地の悪さに身じろぎする。
「なんだよ……」
「亮ちゃん、泊めてくれんの?」
「別に、それぐらいいいけど。つか、亮ちゃん呼ぶなっつーの」
 宍戸の自宅は、学校からバスで十分ほどの場所にある。歩くと三十分ほどかかるが、自転車ならもっと早くつくだろう。
 宍戸にしてみたら思いつきで口にしただけのことなのに、忍足はひどく感動しているようで、なんだか恥ずかしくなる。宍戸が俯いて汗を拭っていると、静かな声音で宿題をしようと言われた。
 そういえば、苦手な数学の宿題を教わりに来たのだった。当初の目的を思い出し、宍戸はカバンからプリントを取り出した。
 部活を行っていた頃は宿題など適当に写して終わりだったが、引退した今は時間が余っているので、たまにこうして忍足に教わりに来ていた。いつも一緒に来る向日やジローは、今日は宿題が出ていないからと二人で遊びに行ってしまった。
 最初に簡単に説明をして貰い、とりあえずわかるところまで自力で解くことにする。数字の羅列にいささかうんざりしながら、宍戸はシャーペンを握った。
 数学の得意な忍足は授業中にプリントを終えてしまったとかで、窓際に座って呑気に読書などしている。カバーのかかっていない本の表紙には、何やら怪しげなイラストが描かれていた。
 読書に集中しているらしい忍足の横顔を、こっそりと眺める。普段口元に浮かんでいる笑みはなく、真剣な面もちで本に目を落としている。
 こんなにじっくりと忍足の顔を見るのは、もしかすると初めてのことかも知れない。
 忍足は、中等部から外部編入してきた生徒だ。氷帝は生徒数が多いので、同じ部活になっていなければ知り合うこともなかっただろう。といっても、忍足がテニス部に入ってきてすぐ親しくなったわけではなかった。今のようにお互いの家へ行き来するぐらい仲良くなったのは、三年に上がって同じクラスになってからのことだった。それまでの宍戸は、なんとなく忍足を胡散臭い奴だと思っていたのだ。
 まず、見た目からして怪しい。更に、喋る言葉も怪しい。忍足が本当のことを言っているのか、それともただ冗談を言っているだけなのか見極めるのは、宍戸にとって困難なことだった。それでも今こうして一緒にいるのは、忍足が本当はとても優しい人物だと言うことを知っているからだった。
 まともに話すようになってからわかったことだったが、忍足は本来控えめで、誰よりも他人に気を遣う人間だった。見かけが見かけなのと、すぐ軽口を叩くため、あまり気づかれることはなかったが。
「……なん?」
「え? あっ」
 不意に、忍足がこちらへ視線を向けた。その目に宿る穏やかな光に、一瞬目を奪われる。
 まともに言葉を返すことが出来ず、宍戸は狼狽えた。それを、解けない問題があったのだと解釈したらしい、どこがわからないのかと忍足が身を寄せてきた。
 間近に迫った端正な横顔に、宍戸は驚いて身を引く。それに、忍足が目を丸くした。
 ややあって、聞き取れないぐらいの小声で、何か呟かれる。
「なに?」
「別に? ずいぶん警戒されとるんやなあって」
「は?」
 宍戸にそんなつもりはなかった。ただ、突然近寄られたから驚いただけだ。宍戸がそう言うと、忍足は何かを思いついたという顔で口の端を持ち上げた。
「なんだよ……」
 その顔に、なんだか嫌な予感がして、宍戸は更に距離をとろうとする。だが、その前に忍足に腕を捕まえられてしまった。
「忍足?」
 強く引っ張られ、宍戸は忍足の腕の中へ転がり込む。身体中に忍足の体温を感じて、暑苦しさに目眩がしてきた。
「忍足、ってば」
 肩口に頭を押しつけられているせいで、忍足の表情が見えない。忍足は一体何を考えているのか。ただふざけているだけにしては、やりすぎのような気がする。こんなことをしても暑いだけなのに。
 背中に腕をまわすことも、押しのけることも出来ず、宍戸は途方に暮れた。とにかく、暑い。クーラーのない部屋で、痛いぐらい強く抱きしめられているのだ。次から次へと吹き出す汗に、宍戸はからからになった喉で声を発した。
「暑い」
 少しして、忍足の動く気配を感じた。顔を上げると、真剣な表情の忍足が見えた。宍戸の背中を押さえつけていた腕を、今度は両肩におかれる。
「お……」
 スローモーションのように、忍足の顔が近づいてくる。あ、と思ったときには、口づけられていた。その時には拘束する力も弱まっていたので、逃げようと思えば逃げられたのかも知れない。だが宍戸は、あまりのことに固まってしまい、目を見開いたままそれを受け入れてしまった。
 どれぐらいの時間が経ったのか、忍足がゆっくりと顔を離した。まだ動けずにいる宍戸を見て、吹き出す。
 腹を抱える忍足に、宍戸はようやく我に返った。自分は、忍足にからかわれたのだ。そう解釈し、宍戸は一気に脱力した。
「お前なあ……」
 まだ笑っている忍足を蹴飛ばすと、途中だった宿題を再開する。隣に座った忍足が顔をのぞき込んできたが、今度は気にならなかった。先程の行為によって増した暑さのせいで、全てがどうでもよくなっていたのかも知れない。


 だから、宍戸が忍足の視線の意味に気づくことはなかった。


【完】


2004 08/13 あとがき