64:ランチタイム(忍足と宍戸)
 
 
 
 
 念願かなって宍戸と恋人同士になった次の日。忍足は、朝から今にも倒れそうなぐらいの目眩を感じていた。
 それは忍足自身、昨日まで友人だった相手といきなり甘い雰囲気になれるだなんて期待してはいなかった。宍戸はその手のことに鈍感だったし、宍戸へ強く執着している幼なじみがいることも知っていた。自分たちのことがばれたら、何らかの妨害があるだろうとも思っていた。
 だが、幾らなんでも、朝迎えに行ったら既に幼なじみに連れ去られた後だったなんて、一体どこの誰が想像するだろう。
 せっかく来てくれたのにごめんなさいねと謝る宍戸の母にこちらも頭を下げると、忍足は宍戸の家を後にした。
 
 
 一体、どこの誰が自分たちのことを知らせたのだろう。自分で嗅ぎつけたのだろうか。あの男なら、それぐらいの芸当は朝飯前かも知れない。何せ、宍戸のことになると形振り構わず攻撃を仕掛けてくる男だ。
 宍戸が自ら相談に出向いたことなど知らない忍足は、一人で相手の恐ろしさに震えていた。
 
 
 とにかく、こうしていても仕方がない。「朝から仲睦まじく登校」という野望は断たれたが、まだ一日は始まったばかり。これから幾らでも挽回できるだろう。
 そう思い直すと、忍足は自転車にまたがった。
 
 
 
 
 
 
 忍足が教室につくと、既に宍戸は席に着いていた。眠そうな顔で、欠伸をしている。忍足に気づくと、よおと手をあげてきた。
「お早うさん。早かったんやな?」
 跡部と来たことは知っているが、敢えてそう訊ねた。やましいことがなければ、自分から言うだろうと思ったのだ。宍戸は、少し間を置いて、ああ、と答えた。
「ジローが」
「ジロー?」
 跡部ではなくジローの名が出たことで、忍足は目を丸くする。宍戸が、何でもない口調で続けた。
「ジロー、朝起きなくて遅刻ばっかだろ? んで、このままだと卒業できねえっつわれたらしくてさ。跡部が、車で迎えに行くことにしたんだって。で、ついでに俺も乗ってけってゆわれてさ」
 妙に親切で気持ち悪いよな、と明るく笑われ、忍足は頭痛がしてきた。
 確かにジローは遅刻が多いし、卒業が危ういというのも本当かも知れない。跡部は幼なじみのジローに対しては甘いので、車を出すということもあり得るだろう。ジローの家と宍戸の家はかなりの近距離にあるから、ついでに乗せていくというのは充分考えられることではあった。
 それでも、跡部の真の目的は、ジローではなく宍戸だったと忍足は思う。何の理由もなく跡部が車をまわしたとしても、宍戸は不審がって乗らなかったかも知れない。恐らく、自分が宍戸を迎えに行くと見越して、ジローを口実に先手を打ってきたのだ。
 自分の敵は、どこまで恐ろしい奴なのだろう。
 目の前で楽しげに笑う宍戸は、これっぽっちも跡部の思惑になど気づいてはいないようだ。
「俺かて、宍戸のこと迎えいったんやで?」
「え? 俺を?」
「ああ。ベンツとまではいかんが、俺の愛車でな」
「っはは、あのママチャリ?」
 忍足の愛車を思い浮かべたのか、宍戸が吹き出した。それなりに整った顔立ちをした忍足が自転車に乗っている図は、よほどおかしかったのだろう。
「ママチャリをばかにすな。買い出しには、アレが一番やねんで?」
「はいはい。ま、一人暮らしは大変だよな」
 予鈴が鳴り、次の授業の支度をしながら、宍戸がふと思い出したように訊ねてきた。
「そういえば、お前俺になんか用だったのか? 家までくるなんてよ」
「一緒に登校しよ思てん」
「はあ? お前んち、俺んちと逆方向じゃん。遠回りじゃねえ?」
 宍戸の言うとおり、忍足の住むアパートは学校のすぐ近くで、宍戸の家まで行くには一度学校の前を通り過ぎることになる。忍足が何故そんな面倒なことをするのか、宍戸には理解できないようだった。
 忍足は周りを見回し、誰もこちらへ注意を向けていないことを確かめると、声をひそめて囁いた。
「やって、一緒に登校は基本やろ? 恋人同士の」
「……なっ」
 宍戸が、焦ったように立ち上がりかける。それを押しとどめると、大丈夫、聞こえてへんてと落ち着かせた。
 座り直した宍戸は、居心地が悪そうに何やら唸っている。そんな宍戸の反応に、忍足は内心愉快な気分になった。いちいち初々しくて、かわいい。そんな些細なことまでもが、愛しく感じられるだなんて。自分は全く、重症だと思う。
「お前さあ」
 宍戸が、真っ直ぐにこちらを見てくる。
「ん?」
「……や、なんでもねえ」
「なんや。気になるわ」
 追求しようとしたところで、教師が入ってきてしまった。仕方なく、忍足は前を向いて教科書を開いた。
 
 
 
 
 その後、授業の間にある休み時間は、特に何事もなく過ごすことが出来た。元々跡部がこの教室までやってくることは滅多になかったので、油断していたのかも知れない。学校まで来てしまえば、同じクラスの自分たちを隔てるものは何もないと、そう思って。普段の忍足なら不自然に感じたであろう事にも気づかなかった。
 今日に限って、ジローが一度も顔を出さないことに。
 
 
 昼休みになって、忍足は宍戸を昼食に誘った。いつも宍戸は購買で買ったパンを食べているので、今日は一緒に食べようと宍戸の分も弁当を作ってきたのだ。
「ラッキー。忍足、料理うまいもんな」
「宍戸好みの濃い味付けにしたったから」
「そっか、サンキュー」
 弁当を広げようとしたところで、忍足を呼び出す校内放送が流れた。宍戸と顔を見合わせ、忍足は仕方なく立ち上がる。
「先に食べとってええで」
「あー。や、待ってる」
「ほな、すぐ戻るわ」
「ああ」
 いってらっしゃいと笑いながら小さく手を振られ、なんだか出勤するときの新婚さんみたいだ、などと忍足は一人にやけた。
 教室を出ると、真っ直ぐ職員室へ向かう。一体何の用かと思ったら、資料を旧校舎の資料室まで運んでもらいたいとのこと。机に積まれたファイルの山に、忍足は顔を顰める。これを、一人で運べというのか。テニスでそれなりに鍛えているとはいえ、自分はそこまで力があるわけではないというのに。しかも、頼んできた教師はクラス担任という訳ではない。何がどうして、自分がこの役目に選ばれたのだろうか。だが、理由はどうあれ、終わるまでは戻れないらしい。教室へ残してきた宍戸のためにも、早いところ済ませてしまおう。忍足は、ファイルの束を手にした。
 
 
 旧校舎までは、二階の渡り廊下を通るか、一階までおりて外を歩くしかない。どちらにせよ、往復するだけで時間がかかることに変わりはなかった。ため息を吐きながら、忍足は歩いた。
 渡り廊下を半分程過ぎたところで、忍足は気づいた。あの、忍足に用事を頼んできた教師が、──跡部のクラスの担任であることに。まさか、とは思わなかった。
 間違いない、これは跡部の策略だ。忍足は、そう確信する。
 
 
 宍戸が、危ない。
 忍足はその場で踵を返すと、抱えたファイルの重さなどものともせず校舎へ駆け戻った。途中で会った鳳に有無を言わさず役目を押しつけると、教室までもの凄い勢いで走る。
 果たして、そこに宍戸の姿はなかった。
 机には手つかずのまま、忍足の作った弁当が乗っている。手遅れかと、忍足は膝をついた。
「ゆーし、何やってんの?」
「がっくん……」
 後ろの扉から顔を覗かせた向日が、膝をついたままの忍足を訝しげに見下ろしてくる。忍足は頭を振ると、向日の足にすがりついた。
「がっくん!」
「な、なんだよ……?」
「宍戸、どこ行った……いや、どこ連れてかれたんか知らへん?」
「宍戸? ああ、あいつなら多分、跡部んとこだろ」
 向日の返答に、やはりと忍足は力無く項垂れる。向日の足を掴んだ腕が、ぽとりと落ちた。それを無言で見つめていた向日が、首を傾げる。
「侑士は行かねえのか? 跡部んとこ」
「は?」
「なんか跡部がご馳走してくれるとかで、レギュラーの奴ら部室に集まってんぜ。侑士も来ると思って、誘いに来たんだけど」
「レギュラー……」
 跡部の元にいるのが宍戸だけではないことを知り、忍足は安堵のため息を漏らした。宍戸の前では素直になれない跡部のこと、宍戸だけを特別待遇する訳にはいかなかったのだろう。この時ばかりは、跡部の天の邪鬼な性格をありがたいと思った。
「で、どーすんの侑士」
「俺はええわ。弁当作ってきてもーたし」
「うわー、勿体ねえ」
 余ったら貰ってきてやるなと言い残し、向日は去っていった。
 忍足は自分の席へ腰を下ろすと、机の上の弁当に視線を落とす。一人で食べるには多すぎる量。半分食べてくれるはずの相手は、ここにはいなかった。
「……あかんなあ……」
 自分と約束したはずの宍戸が、誘われたからといって跡部の元へ行ってしまったことに、これほど衝撃を受けるだなんて、忍足自身想像していなかった。忍足の弁当よりも跡部の食べさせてくれる料理のほうが豪華で、はるかに美味だろうとは思う。だからといって、自分に何も言わずに行ってしまうことはないではないか。
 忍足には、騙すように口先だけで宍戸を手に入れたという自覚があった。宍戸と跡部の間には、他人にはわからない絆のようなものがあることも知っていたつもりだ。
 でも、それでも、宍戸は自分を選んでくれるであろうと思っていた。少しは、意識してくれているのだと思っていた。
 
 
 けれどそれは、全くのうぬぼれだったらしい。忍足は、深いため息を吐いた。
 
 
 
 
 
 残された休み時間を、忍足はただぼんやりと過ごした。一人で食べる気にもなれず、弁当は包みさえとかれないまま放置されていた。昼休みが終わる頃になって、ようやく待ち人が姿を現す。座ったまま呆けている忍足に、些か驚いた様子だった。
 足早に近寄ってくると、宍戸は声を荒げた。
「お前、こんなとこで何してんだよ?」
「何って、お前を待っとったんや。宍戸」
 忍足が落ち着いた口調でそう言うと、宍戸は目を丸くする。それから、考え込むような素振りをした。
「だって、後からお前も来るって……」
「知らん」
 宍戸が漏らした言葉に、どうやら自分を置いていったつもりはなかったようだと内心安心する。きっと自分も誘ったからと、強引に連れて行かれたのだろう。
 責めるべき相手が忍足ではないと気づき、宍戸は困ったように眉間に皺を寄せた。それから、机の上の弁当に目を遣る。
「もう、食った?」
「食ってへん」
「じゃ、これ食おう。俺、腹へりすぎてやべえんだ」
「え?」
 跡部のところで飲み食いしてきたのではないかと問いかけると、宍戸はほんのりと頬を染めて口を尖らせた。
「お前が来るの、待ってたんだって」
「……宍戸……」
「それに、ああいう薄味の料理は、口に合わねえしよ」
「宍戸、しょっぱいのが好きやねんもんな」
「俺には、お前の弁当が一番」
 かろうじて聞こえるぐらいの声で呟くと、宍戸は弁当を持ち上げた。その、大切なものを抱えるような動作に、忍足は自然と笑みを漏らす。
「もう、チャイム鳴るで」
「だな。屋上?」
 頷くと、忍足は教室の扉を開けた。
 
 
 
 
 【完】
 
 
 
 
 
2004 07/12 あとがき