嵐の前の(神尾と伊武)
「……なにしてんの」
そう、抑揚のない口調で呟く声が聞こえ、神尾は顔を上げた。
前の席に腰掛けていた伊武が、無表情のままこちらを見ている。
特に用事がある訳ではないらしいと判断し、神尾は再び視線を落とした。
「なにしてんのって、聞いてんだけど?」
「見りゃわかんだろ」
神尾は、顔も見ずにそう返してやる。
と、しばしの沈黙の後、さらりと長い髪の揺れる気配がして、神尾はやりかけの問題集を奪われた。
「なにすんだよっ!」
「英語? 今日、英語ないのに?」
「……っせーな、返せ」
神尾が睨んでも、伊武は素知らぬ顔で問題集をめくっている。
それから、顔も上げずに、
「神尾」
「なんだよ」
「今、昼休み」
「わかってる」
淡々と問いかけてくる伊武に、神尾も内心苛々しながら淡々と返した。
テストは、来週末からなのだ。特に勉強をしなくても良い点をとれる伊武にはわからないだろうが、自分は今から勉強しても間に合うかどうかというぐらい切羽詰まっている。
早く、返して欲しい。一分一秒でも長く勉強をしたい。
神尾自身はそれ程成績を気にするタイプではなかったが、テニス部は色々と問題を起こした過去があるため、一教科でも赤点をとった者は大会に出場することが出来なくなる。
それだけは、なんとしても免れたかった。
「いいから、返せ!」
神尾が強い口調でそう言うと、伊武は呆れたようにため息を吐く。
「神尾」
「なに」
「英語なら、明日の勉強会で橘さんに教えて貰えば」
「勉強まで橘さんに頼ったら悪いだろ」
明日、男子テニス部恒例の勉強会が部長である橘の家で行われることになっていた。
伊武の言うことはもっともであったが、神尾にだってプライドというものがあるのだ。
憧れていると言ってもよいぐらいの存在である橘に、頭の悪い奴だと思われるだなんて耐えられない。
「今更だと思うけど」
「うっせ!」
勉強会は考査の前には必ず実施されているため、誰がどの程度の成績なのか橘は既に把握しているはずだと言いたいようだ。
ようやく問題集を取り戻すと、神尾はシャーペンを握る。
例文を読み、問題に目を通していく。
「神尾」
「しつこいぞ深司」
「明日、杏ちゃんは来られないってさ」
「マジかよ!!」
神尾が勢い良く顔を上げると、伊武の冷たい視線にぶつかった。
「で?」
「な、なんだよ……」
「ほんとは、誰にばかだって思われたくないわけ?」
「……」
すっかりやる気をなくした神尾は、問題集を閉じるとその上に頭を置く。
興味をなくしたのか、伊武は読みかけの雑誌を手に取った。
「そういえば、明日は橘さんの友達が来るらしいね」
夢うつつの中、神尾は伊武のそんな言葉を聞いたような気がした。
【完】