31:教科書(ジローと宍戸)
 
 
 次の授業の支度をしようと、宍戸は廊下のロッカーへ向かった。扉を開け、中をのぞき込む。辞書を取り出し、次に教科書を探す。
「……あれ?」
 辞書と並べて置いてあったはずの教科書が、見つからなかった。誰かに貸しただろうか。それとも、机の中に入れていただろうか。
 宍戸は教室に戻ると、机の中身を出す。だが、その中にも目的のものは見つからなかった。
「どないしたん? 教科書忘れたんか」
 机の中身を広げている宍戸に、前の席の忍足がそう声をかけてきた。宍戸は顔を上げ、違うと首を振ろうとして、その可能性もあることに気づく。
 そういえば昨日、勉強会の前にテスト範囲をざっと見直そうと、持って帰ったような。慌ててカバンを開けたが、その中にもやはり入っていなかった。
 どうやら、忘れてきてしまったらしい。
 宍戸は肩をすくめると、誰に借りようかと天井を見上げた。
 
 
 一緒に行こうかという忍足の申し出を断ると、宍戸はふたたび廊下へ出る。次の授業まで、あと五分。早いところ借りてこなければ、遅刻になってしまう。
 宍戸のクラスから一番近いのは、部活仲間の向日がいるクラスだった。向日は見かけによらず英語が得意なので、予習もちゃんとしてあるだろう。
 後ろの扉から中を覗くと、クラスの友人となにやら騒いでいる向日の姿が見えた。
「向日」
 大きめの声で呼ぶと、宍戸に気づいたクラスメイトが向日を呼んでくれる。向日が、ポケットに手を入れながらのんびり歩いてきた。
「おー、宍戸が来るなんて珍しいじゃん。なんかあったのか?」
「よお。悪いけど、英語の教科書貸してくんね?」
「えーご? いいけど、持ってたかなあ」
 向日のクラスでは今日英語の授業はないらしい。もしかしたら置きっぱなしにしているかもとロッカーを確認してくれたが、やはりなかった。
「悪いな」
「や、他あたってみるよ。サンキュ」
 言葉通りすまなそうな顔をする向日に手を振ると、宍戸はその隣の教室を目指した。
 そこは、宍戸の幼なじみである芥川慈郎の所属するクラスだった。
 黒板の横に貼られた時間割で今日英語があることを確認すると、宍戸はジローの席まで歩いていく。
 ジローは、窓際の席で机に突っ伏していた。恐らく眠り込んでいるのだろうと、宍戸は軽く揺すぶった。
「ジロー。ジロー、起きてくれねえか」
「……うー……」
 ジローは微かにうなり声をあげただけで、また眠ってしまったようだった。勝手にロッカーを漁るのもなあと、宍戸は途方に暮れた。
 他に快く貸してくれそうな人物に心当たりがあることはあるのだが、彼のクラスは大分離れたところにある。今から往復したのでは、授業に間に合わないだろう。
 こうなると、一つ下の階にいる、もう一人の幼なじみに借りるしかなかった。貸してはくれるだろうが、あれこれ嫌味を言われるのは確実だ。宍戸は少しの間逡巡したが、背に腹はかえられないと歩き出す。
 そこへ、背後から声がかかった。
「りょおちゃん!?」
「……ジロー、起きてくれたか!」
 寝ていたジローが、身体を起こしてこちらを見ている。
「亮ちゃんが俺のとこ来てくれるなんて思わなかったから、夢かと思った〜! 亮ちゃん俺に会いに来てくれたの!? うっれし〜!」
 飛びつかんばかりの勢いで迫られ、宍戸は僅かに後退した。
 にこにこと心から嬉しそうに笑うジローが、その幼い容姿と相まって、まるで天使のように見えてくる。
「ジロー。あのさ、頼みがあるんだけどよ」
「亮ちゃんのお願い? なんだってかなえてあげるよ。まかせてっ!」
 ジローは宍戸の手をとると、自分の頬をすりすりと押しつけてきた。手のひらにあたる柔らかな感触に、宍戸は目を細める。
「英語の教科書、貸してほしいんだけど」
「え〜ご? 亮ちゃん忘れちゃったの? 待ってて。すぐ持ってくるね!」
 言うなり、ジローは教室を飛び出した。どうやらロッカーに入れているらしいと、宍戸も後についていく。ジローは教科書を取り出すと、はいっと愛らしい仕草で差し出してきた。
 受け取って礼を言うと、宍戸は自分の教室へ引き返す。後ろでジローが、亮ちゃんお昼一緒に食べようねと叫んでいた。
 
 
 チャイムが鳴る寸前、宍戸は教室へ滑り込んだ。忍足がお疲れさんと声をかけてくる。
「遅かったな。どこまで行っとったん?」
「ジローんとこ。向日んとこ、英語なくってさ」
「ジロちゃん起きとったん?」
「起こした」
 ジロちゃんも災難やなあと笑われ、宍戸は改めてジローに悪いことをしたと思う。昼に何かお菓子でも買ってやろうかな。そんなことを考えながら、教科書をめくる。
 めくっていくうちにあることに気づいて、宍戸は眉間に皺を寄せた。
「なー忍足」
「ん?」
「ジローって、英語できたっけ?」
「や、いっつも赤点とかちゃうかった?」
 急に何を言い出すのかという顔で、忍足が振り向いた。宍戸は、忍足にも見えるようにジローの教科書をぱらぱらとめくった。
 ジローの教科書は、開いたことがあるのかどうかすら怪しいぐらい、新品同様の状態だった。
 顔を見合わせ、思わず無言になる宍戸と忍足。
「予習しなくてもわかるってことはねえよなあ」
「……そんな芸当、できるのは跡部ぐらいのもんやろ」
 予習どころか、授業中にアンダーラインを引けと言われる場所にも何も書かれていなかった。
「……今度の期末落としたら、内部進学やべえんだよな?」
「……高等部、あがれへんかもってゆうとったなあ」
 先週担任に言われた話を思い返し、二人は同時に頭を抱えた。
「ジロちゃんに勉強せえゆうても無駄やしな」
「俺は教えるほどできねえし、お前も理数系だしなあ」
「がっくんは教えるのどへたやし、跡部は……」
「跡部なんかに頭下げるぐらいなら、自力でやるほうがマシだ」
 吐き捨てるように言う宍戸に、忍足が肩をすくめる。跡部も可哀想に、とかなんとか呟いていたが、宍戸はそれどころではなかった。
 幼なじみであるジローの、底抜けに明るく元気なキャラクターは、宍戸にとってなくてはならないものだ。例え自分が無事進学できたとしても、ジローがいるのといないのとでは大違いだ。ジローのいない学校生活は、きっと退屈でつまらないものになるだろう。
 だが、さきほど自分でも言った通り、宍戸にはジローに教えてやれるほどの英語力はなかった。むしろこちらが教えてもらいたいぐらいなのだ。どうしてうちの連中は、揃いも揃って教えるのが下手な奴ばかりなのだろう。
 そこまで考えて、宍戸はある人物を思い出した。
「……あ」
 そうか。いるじゃん、英語が得意で、おまけに人に教えるのも上手な奴。しかも、ちょうど今週末、勉強会に誘われているのだ。部活の皆で集まると言っていたし、一人ぐらい増えても構わないだろう。
 宍戸は、勉強会へジローも連れて行くことに決めた。
 
 
 【完】
 
 
 
2004 07/20 あとがき