36:英語(橘と宍戸)
 
 
 
 スーパーに入ると、橘はかごを手に取った。
 今日は両親が出かけているため、橘が食事を作ることになっている。
 中学生男子にしては珍しいことに料理が趣味であるため、特に苦でもなかった。
 必要なものをかごに入れながら店内を歩いていると、どこかで見たような男が、人参を手に唸っているのが目に入る。
 あれは確か、氷帝の……。
「よお」
「えっ? あー、あんた……っ」
 やはり、髪型こそ変わっていたものの、それは氷帝の宍戸だった。
 橘と対戦したときはあった長い髪を切ったらしく、今はすっきりとスポーツマンらしい髪型をしている。
 宍戸は目を丸くして、橘を指さしてきた。
「人を指さすのは、感心しないな」
「え? あ、あー、悪い……」
 橘が眉をひそめると、宍戸は今気づいたという風に指を引っ込めた。
 それから、気まずそうに目を逸らす。
「あー、こんなとこで会うとはな。っつーか、見られたくなかったぜ」
「何故だ?」
「だってよ、男が一人でこんなもん買ってるとこなんか見られたら、忍足あたりなら間違いなくからかわれるぜ? 作ってくれる彼女もおらんのかーってな」
「そうなのか? 俺は好きで作ったりするけどな」
 橘がそう言うと、宍戸は頭をかいていた手を止めた。
 そして、橘の持っているかごに視線を落とす。
 中をのぞき込んで、
「うち、今日俺しかいねえんだ」
「うちも、親が出かけていてな」
「……あんた、料理得意?」
「まあ、うまいほうだと自負しているが」
 橘の言葉に、宍戸はしばらく黙り込んだ。
 どうしたのかと不思議に思ったが、何やら逡巡しているようなので、橘も黙って待つことにした。
 やがて、宍戸は勢いよく橘の手を掴んだ。
「頼む、俺の分も作ってくれ!」
 宍戸の迫力に、橘は思わず頷いていた。
 
 
 
 
 
 
「意外と近かったんだな、家」
 ついてきた宍戸を家に上げてやると、珍しそうにあちこち見回される。
 中はそれなりに片づけていたが、さすがに少し恥ずかしかった。
「何かおもしろいものでもあるのか?」
「あー、そう言う訳じゃねえけどよ。なんか安心したっつーか」
「安心?」
 何か妙なものがあるとでも思われていたのだろうか。
 橘が首を傾げると、宍戸は慌てた様子で手を振った。
「や、違くて! あの、ほら、氷帝って金持ちのぼっちゃんばっかだからよー。あんたんちは普通の家だなあって」
「それで、安心?」
「そ。安心」
 そう言って、宍戸はここへきて初めて笑みを見せた。
 猫のように細くなった目が、なんだか年齢よりも幼く感じさせる。
 かわいいな、と橘も自然と微笑んだ。
 普通なら男にかわいいなどと使わないかも知れないが、橘は常日頃から自分を慕う後輩をかわいいと思っていたので、あまり気にとめなかった。
 テレビでもつけて待っていろと言い残し、橘はキッチンへ立つ。
 背後のリビングから、テレビの賑やかな音が聞こえてきた。
 
 
 しばらくして、妹の帰りが遅いことに気づき、時計を見る。
 夜というにはまだ早いが、いつもなら既に帰ってきていい時刻だった。
 確か今日は、どこかのストリートテニス場へ寄ると言っていたような……。
 橘が思案していると、家の電話が鳴った。
「おい、電話だぞ。えーと、あん? とかいう奴から」
 ディスプレイに浮かんだ名を読み上げる宍戸に妹だと告げると、橘は受話器を取る。
 杏からの電話は、遅くなったので友人の家に泊まるというものであった。
 家人にかわってもらい礼を述べると、電話を切る。
 振り返ると、宍戸の物言いたげな視線にぶつかった。
「妹、かわいい?」
「やらんぞ」
「っだよ! 聞いてみただけだろ〜! つーか、あんたもしかしてシスコン? 似合わね〜っ」
 怒ったかと思えば、突然笑い出す。
 くるくる変わるその表情から、何故か目がそらせなかった。
 ひとしきり笑うと気が済んだのか、宍戸は立ちつくしたままの橘を見上げてくる。
「どした?」
「あ、いや」
 なんでもない、と言うと橘は再びキッチンへ向かった。
 
 
 
「すげー! あんた、マジ料理うめえんだな!」
「そうか?」
 テーブルに並んだ料理の数々に、宍戸は目を輝かせる。
 手放しに褒められ、悪い気はしなかった。
 うまいうまいと食べる宍戸に、おかわりをよそってやる。
 サンキュー、と宍戸はこれまた嬉しそうに受け取った。
 これだけ美味しそうに食べてくれるのなら、作った甲斐があるというものだ。
 二人が和やかに会話していると、それを邪魔するかのように無機質な機械音が鳴り響いた。
 橘が聞き慣れないそれは、どうやら宍戸の携帯から鳴っているものらしい。
 携帯を手に取ると、宍戸は液晶を見るなり顔を顰めた。
「出ないのか?」
「あー、出る、けど。せっかくいい気分で飯食ってたのによ」
 もしもし、と宍戸が通話ボタンを押すと、橘の方にまで相手の怒鳴り声が聞こえてきた。
「俺様からの有り難い電話だ。ワンコールで出やがれ」という相手の言い分に、どうやら跡部かららしいとわかる。
 それから少しの間二人はけんか腰で会話をしていたが、最終的に切れた宍戸が中断して終わった。
「いいのか?」
「ああ。つーか、悪いな、食ってたとこ」
「いや、別に。何か揉めていたようだが……」
 そこまで口を挟んでいいものか思案しながら訊ねると、宍戸はああ、と眉根を寄せる。
 それから、うーと唸るように声を出したあと、何かを思いついたように顔を上げた。
「なあ、あんた、英語できっか?」
「英語? ああ、得意科目だ」
「っしゃあ! なあ、頼む、英語教えてくれねえ!?」
 宍戸が言うことには、どうも明日までの英語の宿題を、今の今まですっかり忘れていたということらしい。
 正確には、宍戸が忘れていることを見越した跡部からの電話があるまでは。
「俺、英語は苦手なんだよなあ」
「教えるのは構わんが、これだけあるとなると、すぐには終わらないぞ」
「……やっぱり?」
 はは、と宍戸は苦笑する。
 ただでさえ学校が違うため、使っている教科書から何から異なるというのに、課題そのものもプリントが10枚程あった。
「夜中までかかるぞ」
「ヨロシクオネガイシマス」
 片言でそう言って、宍戸はひれ伏してみせる。
 橘は苦笑いを浮かべると、自分の部屋へ宍戸を通した。
 
 
 
「それでも意味は通じるが、この場合はこっちを使うほうがいい」
「あー、さっきのこれね」
 あとは単語の穴埋め問題を残すばかりというところで、一旦休憩することにした。
 肩が凝ったのか、宍戸が大きく伸びをする。
 橘がお茶を入れてやると、美味そうにすすられた。
「あんた、教えかた上手いよな〜。教師とか向いてんじゃねえ?」
「よく後輩達に教えてるからな」
「あー。あんたんとこ、二年ばっかなんだっけ」
 いい先輩やってんじゃん、と肩を突かれる。
 自分ではあまりそう思ったことはなかったので、橘は少しだけ照れた。
 照れ隠しというわけではないが、
「そっちこそ、跡部とか頭いいんじゃないのか?」
 そう話を振ると、宍戸は嫌そうな顔で肩をすくめる。
「あいつは、頭いいけど性格悪いから。こんなのもわかんないのか? とかばかにされてまで教わりたくねえよ。忍足は優しいけど妙にべたべたしてくるし、岳人は頭じゃなくてフィーリングで覚えろ、とか訳わかんねーこと言うし。揃いも揃って、教えるのへったくそなんだよな」
「そうなのか」
 橘は今言われた名前のほとんどを知らなかったが、それでも皆仲が良さそうだな、と思う。
 氷帝はレギュラー争いが厳しいと聞いたが、そんな中で育まれる友情は、殊更固いものなのかも知れない。
 橘がそう言うと、宍戸は盛大に飲んでいたお茶を吹き出した。
 顔を真っ赤にして狼狽える宍戸に、橘は首をひねる。
「あ、あんた、それ、マジで言って……んだよな、はは」
「どうした?」
「いや、なんでもない……」
 まだ赤い顔のまま、宍戸は俯いて黙り込んだ。
 沈黙が続き、慣れ親しんだ自分の部屋だというのに、橘はなんだか居心地の悪さを感じる。
 殆ど言葉を交わしたことのない人間と二人でいるということを、今更ながらに実感した。
 考えてみれば、宍戸とは都大会で戦っただけの仲で、別に親しかったわけでもない。
 見る限り、宍戸はあまり社交的なほうではないだろう。
 その宍戸が、食事や宿題のためとはいえ今この場にいることが、とてつもなく特別なことのように思えてきた。
「続き、やるか?」
「あ、ああ」
 プリントをひろげ、橘が続きを促すと、宍戸はホッとした表情でシャーペンに手を伸ばした。
 やはり宍戸にとっても、この沈黙は苦痛だったのだ。
 そう思って、橘は苦笑した。
 
 
 
 
 
 
「気をつけて帰れよ」
「ああ。今日はありがとな、色々と」
「気にするな」
 じゃあ、と踵を返した宍戸の背中に、橘は思わず声をかけていた。
「今度、期末に向けてうちで勉強会やるんだが、良かったらお前も来ないか?」
「えっ、マジで?」
 嬉しそうに振り向いた宍戸の表情が、一瞬の後僅かに曇る。
 部外者が混じってもいいのか、と躊躇っているらしい。
 そんな宍戸を安心させるかのように、橘は笑みを見せた。
「何言ってるんだ。俺達、もう友達だろう?」
「ばっ」
 橘の言葉に、宍戸は絶句した。
 それから、諦めたように頷く。
「あー。あんたが、そういう人間だってことは、この数時間だけで嫌って程わかったしな」
「そういう人間?」
 橘が聞き返すと、あんたはわかんなくていい、と宍戸は首を振った。
 またな、という言葉を残し、宍戸は去っていく。
 その後ろ姿を見送って、橘は部屋へ戻った。
 
 
 二人が急速に親しくなっていくのは、もう少し後の話。
 
 
 
 【完】
 
 
 
 
2003 12/28 あとがき