49:夏の思い出(日吉と宍戸)
消灯時間をとっくに過ぎたというのに、日吉の隣のベッドは空いたままだった。
気にせず眠ってしまおうかとも思ったが、明日になって連帯責任だのなんだの言われたのではかなわない。
日吉は起きあがり、簡単に身支度を整えると部屋を後にした。
先日夏の大会が終わり、三年が引退したにも関わらず、氷帝学園テニス部は次なる大会に向け、強化合宿を行っていた。
参加メンバーは正レギュラーと準レギュラーだけだったが、内容の濃さに変わりはない。
決められた時間通りに睡眠を取らないと、辛いのは自分自身なのだ。どうしてそれがわからないのだろう。合宿だからといって、羽目を外していい理由にはならない。
同室者の脳天気な顔を思い浮かべ、日吉は頭を振った。あいつの頭には、きっとあの人のことしかないのだろう。きっと今も、あの人のところにいるに違いない。
どうしてそこまで他人に執着できるのか、日吉には不思議でならなかった。
「日吉?」
しばらく歩いたところで、日吉は誰かに声をかけられた。
足を止め振り返ると、意外な顔が目に飛び込んでくる。
「やっぱり。日吉じゃねえか、何してんだ?」
宍戸が、合宿所備え付けの浴衣のまま、薄暗いロビーのソファーに腰掛けていた。
日吉は少しの間立ち去るべきかとどまるべきか迷ったが、宍戸も一応目上の人間であることを思い出し、目の前まで歩み寄る。
「あんたこそ、何してんすか」
「俺? 俺は避難中」
「避難?」
宍戸の口から出た言葉に、日吉は首をひねった。
そんな日吉を見上げ、宍戸は何を思いだしたのか叫んだ。
「そうだ! お前、確かあいつと同じ部屋だろ! あいつうっせーんだよ、引き取れ」
「あいつ……」
自分と同じ部屋で、うるさくて、尚かつ宍戸が「あいつ」と呼ぶ人物が誰なのか、わかりすぎる程にわかり、日吉は頭を抱えた。
一体、何をしでかしたんだ「あいつ」は。
できれば、聞かなかったことにして立ち去りたい。そんな思いが顔に出ていたのか、逃がさねえぞ、と宍戸に腕を掴まれる。
反射的に振り払おうと腕を引くと、絡みついたままの宍戸がくっついてきた。
「わっ!」
「危な……っ」
危うく転げそうになった宍戸を、日吉は咄嗟に抱きとめる。
ほっとしたのもつかの間、現在の状況を客観的に見ると、なんだか抱きしめているように見えやしないだろうかと、日吉は一人で慌てた。
宍戸は気にしていないのか、日吉の腕の中で、あー吃驚したなどと言いつつ大人しくしている。
とりあえず、ここに「あいつ」がいなくて良かった。
「何してんだよ日吉!!」
「……鳳」
タイミングがいいのか悪いのか、そこへ鳳が通りがかる。もしかすると、部屋からいなくなった宍戸を捜しに来たのかも知れない。
反論など聞く耳持たずという感じで詰め寄ってくる鳳に、日吉は説明する気にもなれず肩をすくめた。
日吉の腕から抜け出した宍戸が、まあまあと宥めにかかる。
「宍戸さんは黙っててください!」
「いや、あのな?」
「それとも、宍戸さんは俺より日吉が好きだって言うんですか!」
矛先が宍戸に向かったのをこれ幸いと、日吉は部屋に戻ろうと踵を返した。が、再び宍戸に捕らえられる。
「自分だけ逃げるなんて、ずるいぜ?」
「あんた……」
「あー! ちょっと、なに内緒話なんかしてんすか!」
とにかく、馬鹿でかい声で叫ぶ鳳を何とかしなければ。このままでは、監督に見つかるのも時間の問題だろう。こんなことで準レギュラーから落とされるのだけは、勘弁して貰いたかった。
「何してやがる?」
騒ぎを聞きつけたのか、跡部がいつものように樺地を従えてやってきた。
まだ何か言っている鳳に目を止めると、跡部は尊大な態度を崩さずに言い放つ。
「俺様の安眠を妨害しやがった罪は、地球よりも重いぜ?」
その言葉に、ようやく鳳は黙り込んだ。
日吉と宍戸は顔を見合わせると、口々に跡部に訴える。
「俺は、鳳が部屋に戻ってこないから捜しに来ただけです」
「俺は、長太郎が部屋でうるさくするから眠れなかったんだ」
跡部は二人を一瞥すると、そうか、とだけ言った。
それから樺地に指示を出し、鳳を連れて去っていく。
残された二人は、力無くソファーへ座り込んだ。
「あー。何か俺、練習より疲れたかも」
「同感です」
それから、どちらともなく笑い出す。
滅多に言葉を交わすことのない二人にとって、それはとても珍しいことだった。
もしも今誰かが通りがかったとしたら、その光景のあまりの奇妙さに目を丸くすることだろう。
「ったく、長太郎にはまいるよなー」
そう言って苦笑する宍戸に、日吉は驚いて笑いを引っ込める。
じっと見つめると、何だという風に横目で見られた。
「いえ。宍戸さんは、鳳のそういう部分も許容しているのかと思ってたんで」
「あー、べっつに全部が全部嫌っつー訳じゃねえけど。まあ、なんか懐かれてるし? 悪い気はしねえよ」
「他の後輩には、受け悪いですしね」
日吉が淡々とした口調でそう言うと、宍戸は口元に手を当てながら振り向く。
「お前なあ。……そーゆーお前は、先輩受け悪いだろうが。人のこと、言えねえだろ」
宍戸の言葉を、日吉は鼻で笑った。
「俺は別に、受けが良かろうが悪かろうが気にしません。俺が気にするのは、頂点にいつ辿り着けるか、だけですから」
日吉の生意気ともとれる発言に、宍戸が目を剥く。
「よーやく準レギュラーになった奴が、何言ってんだ」
「ようやく正レギュラーになった人に、言われたくありませんね」
二人は、しばらくの間黙り込んだままにらみ合った。
少しだけ近づいたような気がした距離が、また遠ざかったような気がして、日吉は微かに胸を痛める。
けれど、それは嘘偽りのない気持ちだったから。例え、宍戸が相手だろうと撤回する気にはなれなかった。
どれだけの時間が流れたのだろう、不意に宍戸が目を逸らして立ち上がった。
近くの自販機に金を入れると、何かを投げてよこす。
日吉が受け止めたそれは、宍戸が最近よく飲んでいるスポーツ飲料だった。
「半分、やる」
「けちですね」
うっせえ、と宍戸が笑う。
言われるまま日吉が口を付けると、宍戸は再び隣に座った。
少しきしんだソファーに、何故か日吉の鼓動が跳ね上がる。
理由のわからぬまま、日吉は緊張に身を固くした。
「日吉」
「はい」
宍戸は、日吉の素直な返答に虚をつかれたのか、口を閉ざす。
ややあって、
「お前の、そういう真っ直ぐなとこ。腹立てる奴もいるだろうけど、」
「はあ」
「俺は、嫌いじゃねえよ」
それだけ言うと、宍戸は立ち上がった。
去ってゆく背中に、何を言えばよいのか迷って、日吉は結局こう口にした。
「半分、飲まないんすか?」
宍戸は盛大に吹き出したかと思うと、笑顔のまま日吉を振り返る。
「お前に、やるよ!」
その、宍戸の笑顔が、あまりにも鮮やかだったので、日吉はなんだか胸がいっぱいになった。
「ありがとう、ございます」
果たしてそれは、ジュースに対するお礼なのか、それとも宍戸の言葉に対してのものなのか。
日吉にも、わからなかった。
【完】
このお話は、相互リンク記念にと素敵なお話をくださった、TSC受験派 の夜帆様に捧げさせていただきます。
本当に、どうもありがとうございました……!