59:読書(日吉と鳳と宍戸)
日吉は、校内を彷徨っていた。
片手には、最近出たばかりの文庫本。
日吉が好んで読んでいるシリーズの最新作だ。
落ち着いて読める場所を求め、はじめは図書室へ赴く。
だが、そこは試験前の勉強をする者でごった返していた。
レポート提出と重なっているのか、あちこちで資料を求める声や、教え合う声まで聞こえてくる。
ここでは、落ち着けそうもない。
日吉は嘆息すると、他の場所を探して歩き出した。
部室はどうだろう。
跡部から部長職を引き継いだ日吉は、部室の鍵を持っている。
あそこには椅子やソファーもあるし、最適かも知れない。
日吉は、部室に足を向けることにした。
部室に近付くにつれ、何やら声がしてくるのに気づく。
部室には、騒がしいと評判の元レギュラーが何人か居座っていた。
そこにいるメンバーに目をやり、日吉は挨拶もそこそこに部屋を出る。
背後から、礼儀がなってない等の文句が聞こえてきたが、どうでもよかった。
どこか、落ち着ける場所はないものだろうか。
生徒数の多い氷帝学園に、そのような場所があるのかどうか。
それは、日吉にもわからなかった。
苛々しながら、日吉は探し続ける。
昼休みが半分ほど終わってしまった頃になって、ようやく日吉は落ち着けそうな場所を見つけた。
特別棟の裏にある、ベンチだ。
特別棟自体、昼休みになるとひと気はない。
わざわざその裏にまでやってくる者は、日吉以外いなだろうと思われる。
フェンスに沿って敷かれた植え込みのお陰で、校外から覗かれる心配もなかった。
日吉は知らずため息をつくと、ベンチに腰掛ける。
早速、文庫本の表紙をめくった。
本の中には、日吉が好む世界が広がっている。
暗く、静かに、日常生活に忍び寄る影。
こんなことが、現実に起こればいいのに。
日吉は、先ほどまでの苛立ちや歩き回った疲れを忘れ、すっかり本の世界に夢中になった。
それを見計らったかのように、一つのボールが飛んでくる。
日吉は、見もせずに顔めがけて飛んできたボールを打ち払った。
忌々しい。
せっかく集中できていたというのに。
舌打ちをして、日吉はふたたび本に目を落とす。
まだ、大丈夫。まだ集中は完全に途切れたわけではない。
足下に転がり落ちたボールを無視し、日吉は文字を目で追い続けた。
そこへ、駆けてくる足音がする。
ボールが飛んできたということは、当然飛ばした人間がいるということだ。
明らかに方向の違う場所へ飛ばしてしまうような、ノーコンが。
「すみません、ボール飛んできませんでしたか〜?」
のんきな声で言いながら、相手が駆け寄ってくる。
飛んできたとも。そりゃあもう、日吉でなければ脳天に直撃していたであろう勢いで。
鬱陶しいくらい爽やかな声音に、日吉は聞き覚えがあった。
というか、毎日嫌でも耳に入ってくる声。
「あれっ、日吉?」
ボールを拾うことも忘れ、鳳は日吉の顔をのぞき込んでくる。
日吉は無言で身体の向きを変えると、本を読んでいることを示した。
「えー、こんなとこで本読んでたの?」
「邪魔するな」
にこにこと顔を近づけてくる同級生に辟易し、日吉はとうとう声を出す。
鳳が、えー、と笑った。一体何がおかしいんだ。
「今さ、サッカーして遊んでるんだ。日吉もどう?」
だから、本を読んでいると言っているだろう。
日吉は苛立ったが、鳳は全く気づかないようだった。
立ち上がる気配のない日吉に、鳳が首をかしげる。
「日吉来ないの? 楽しいのに。皆いるんだよ〜」
だからどうした。そう言いたいのを堪え、日吉はじっと紙面を見つめ続けた。
「日吉ってば〜」
「長太郎!」
まとわりつく鳳を呼び声がして、宍戸が姿を現す。
「あ、宍戸さんっ」
鳳が、ぱっと顔を明るくした。
「ボールあったのかよ?」
「あ、はい! ここに!」
鳳が、さっと日吉の足下からボールを拾い上げた。
どうやら、宍戸もサッカーに参加していたらしい。道理で、鳳がいつも以上に元気なわけだ。
納得がいったと、日吉はこっそり頷く。
「あれ、日吉じゃねえか」
日吉に気づいた宍戸が声を上げた。
何てことだ。宍戸の登場で、鳳は日吉のことなど忘れ行ってしまうだろうと思っていたのに。
日吉は宍戸に目を向けると、軽く頭を下げる。
一応、先輩だからな。
「そーなんですよ宍戸さん。日吉も誘おうと思って!」
余計なことを言うな。日吉は、無理矢理連れて行かれる自分の姿を想像し、嘆息した。
もう、本は読めないかも知れないな。
日吉が諦めかけたとき、宍戸が口を開く。
宍戸の言葉は、予想外のものだった。
「日吉が、来るわけねえだろ」
「え?」
鳳がきょとんとした顔になる。日吉も、顔には出さなかったが驚いた。
絶対、無理にでも参加させられると思ったのに。
「行くぞ長太郎」
「は、はい」
日吉を一瞥し、宍戸はさっさと行ってしまう。
じゃあね、と言って鳳も宍戸の後を追っていった。
日吉は、一人になった。
あれ程一人になりたいと思っていたのに。
あれ程、楽しみにしていた本だというのに。
日吉は、開く気になれなかった。
「どうして……」
どうして自分は、取り残されたと思ってしまうのだろう。
自分の意志で残ったはずなのに、置いていかれたと思ってしまうのだろう。
宍戸が、無愛想で物静かな自分など誘うはずがない。
ちょっと考えれば、すぐにわかるはずだ。
誰だって、貴重な休み時間ぐらい、気の合う仲間と過ごしたいと思うのが当然だ。
――そう、穏やかで人好きのする、鳳のような。
日吉の、本を握る手に力がこもった。
どうして自分は、淋しいなどと思ってしまうのだろう――。
「おー宍戸、遅かったなあ」
ボールの到着を待っていた忍足が、戻ってきた二人に顔を上げた。
「あんまり遅いんで、こりゃ鳳に襲われでもしとるんちゃうかと……」
「だから言ったろ侑士! 鳳にそんな度胸ねえって!」
向日が、忍足の横で飛び跳ねる。
「な、何の話ですか二人とも……!!」
鳳が、盛大に動揺してボールを取り落とした。
「はあ? 長太郎なんか、返り討ちにしてやるよ」
襲われる意味を勘違いしたらしい宍戸に、向日が肩をすくめる。
「そ、そーいえば、日吉がいたんですよ!」
鳳が話題を変えようと口を開いた。
「日吉? そーいやさっき、俺らが部室にいたとき、中眺めて逃げてったんだよなアイツ!」
思い出したのか、向日がぷりぷりと怒り出す。
「日吉も誘ったんですけど、……何で宍戸さん、止めたんですか?」
「あ? だってあいつ、何か本読んでただろ。邪魔したら可哀想じゃねえか」
鳳が落としたボールを蹴りながら、宍戸が言った。
「ああ、なるほど〜! さすが宍戸さん、日吉のことを気遣ってあげたわけですね!」
「ばっか、……そんなんじゃねえけど、別に!」
照れたのか、宍戸が思い切りよくボールを蹴り飛ばす。
「ちょ、宍戸どこ蹴ってんねや〜」
忍足が、後を追いかけていった。
「でもさあ亮ちゃん」
「うわ、起きたのかジロー」
部室から連れ出して以来ずっと寝ていたジローが、いつの間にか宍戸の背後に立っている。
「たぶんその気遣い、日吉には伝わってないと思うよー」
「はあ!? だから別に、気なんか遣ってねえし!」
「亮ちゃんのことだから、絶対誤解されるような言い回しだったろうしね〜」
「だから、誤解も何も気遣いなんかしてねえって!!」
宍戸の言うことには取り合わず、ジローは空回り〜、と呟いた。
【完】