76:スカート(日吉と宍戸)


 なんか近づきすぎじゃねーか、と思ったときは既に手遅れだった。
 視界いっぱいに広がっていた顔が離れて、ようやく宍戸は自分がなにをされたのか気づく。
 顔を赤らめることもなく、相手は床に座り込んだまま動けずにいる宍戸を黙って見下ろしていた。
 冷静な双眸に晒されていることが急に恥ずかしく感じられて、宍戸は慌てて立ち上がるとその場から逃げ出す。
 あてもなく走っている最中、危険だと頭のなかで鳴りだしたサイレンに、いまさら遅いんだよと腹を立てた。


「いでっ!」
 足の下から聞こえてきた悲鳴に、宍戸は焦って飛び退いた。ジローが、廊下に寝転がったまま踏まれた腹をさすって恨めしげに見上げてくる。
「痛いよ〜」
「わ、悪い」
 普段ならこんなところで寝てるなと呆れるところだが、今はそれどころではなく宍戸は素直に謝った。ジローが、ぼんやりとした顔で身体を起こす。
「りょ〜ちゃん、なんかあった?」
「なっ!」
 いつも寝てばかりいるくせに勘の鋭い幼なじみが、両手を伸ばして抱きついてきた。抱き留めてやりながら、宍戸はなんもねーよと口の中で呟く。
「ならいいけど〜。……なんか、亮ちゃんぼろぼろだね」
 改めて宍戸の姿を見たジローが、眉根を寄せた。
「髪の毛もほどけかかってるし、こんなの滝に見つかったら大変だよ」
 抱きついたかっこうのまま、ジローが宍戸の髪をなでつける。正確には、宍戸のつけているウィッグを。


 今日は、氷帝学園の文化祭だ。年に一度のお祭りだけあって、学校中が若者らしい熱気に包まれていた。
 文化祭に男子テニス部で何をやるかという話になったとき、真っ先にあがったのは「ホストクラブ」だった。何故かテニス部には部長である跡部を筆頭に、見た目のよい男が揃っている。これを利用しない手はないと、声高に主張したのは忍足だった。
 忍足が、二日間で一番利益を上げ、文化祭の成功へ貢献した企画にだけ贈られる豪華賞品を狙っているであろうことは、誰の目にも明らかだった。賞品は企画に参加した者全員に贈られるとあって、他の部員も忍足の提案に乗ろうとしたのだが。
「お前らが何やろうと構わねえが、俺様は参加しねえぞ」
 肩をすくめながら放たれた跡部の言葉に、皆一様に愕然とした。どうして、と問いかければ、生徒会長だから、どこかの企画にだけ肩入れする訳にはいかないと返ってきた。
「当日はいろいろ雑務もあるしな」
 嘘だ、と部員は心の中で突っ込みを入れた。部長としての細々とした仕事さえ他の者──主に忍足に押しつけるような男が、いくら文化祭だからと言って雑務などするとは思えなかった。
「さては自分、女相手に愛想するんが嫌なんやな」
 勇気を出した忍足に、跡部が気だるそうに顔を上げる。
「はっ。俺様ぐらいになれば、女なんて黙っててもよってくるんだよ」
「じゃあ、ええやん。跡部はいつもみたいにふんぞり返ってればええねんて」
「そうだぜ跡部! お前は座ってるだけでいいからよ」
 向日が、忍足の脇から顔を出して援護した。学校の内外を問わずファンの多い跡部なら、たとえ一言も喋らなくともそばにいられるだけで満足する客がいくらでもいるはずだ。説得を続けるふたりに、跡部が面倒そうに口を開いた。
「なんで俺様がそんなめんどくせー真似をしねえといけねえんだ」
 勝手にやれとまで言って、跡部は部室を出ていこうとした。
「ああ、言っとくが俺様のテニス部がトップに立てないような無様なことになったりしたら、そのときは覚悟しとけよ?」
 思い出したように告げると、跡部はそのまま立ち去った。
 静まりかえった部室内に、忍足の声だけが響く。
「な、なんで参加もせんような奴に、あないなこと言われんとあかんの……?」
 誰もが抱いた疑問だったが、口にする者は他に存在しなかった。


「だからこれ、ってのも短絡過ぎじゃねえ?」
「えーでも、似合ってるよ亮ちゃん!」
 宍戸は、ご丁寧に長髪のウィッグまでつけて女生徒の制服を着込んでいた。
 跡部のいないホストクラブでは、がっかりして帰ってしまう客が続出するであろうと、忍足が新たに考えたのが「女装喫茶」だった。顔のよい者は女装をしても似合うはずだと主張する忍足に押し切られる形で、出し物は決定となった。今日、男子テニス部の部員は、跡部と裏方役の者を除いた全員が女生徒の制服に身を包んでいる。どこが受けたのか宍戸にはさっぱりわからなかったが、女装喫茶はまずまずの成功を収めていた。このままいけば、一位をとるのもそう難しくはないだろう。
「かわいい!」
 満面の笑みを浮かべたジローに、宍戸は困ったように笑みを返す。今日一日散々言われ尽くした、ある意味褒め言葉なのだ、いまさら怒る気にもならなかった。
「あー!」
 廊下の向こうから神経質な声が聞こえ、宍戸は恐る恐る振り向く。
「なにしてんの宍戸! 服ぐちゃぐちゃじゃない!」
 滝が、一目見ただけで回れ右したくなるような恐ろしい形相で立っていた。
「髪も! せっかくぼくがきれいにしてあげたのに! そんな座りかたしないで! 座るときは正座か女の子座りって言ったでしょう!」
 スカートの裾から大胆に露出した宍戸の太股をぴしゃりと叩いて、滝が空いている教室へ宍戸を引っ張っていく。がんばって〜、とジローが呑気に手を振った。


 あれこれ文句を言いながら、滝は宍戸が着くずした制服を整え、ほどけかけた髪を結び直してくれた。
「これでよし、と。もー、あんまり変な風にしないでよね」
「あー、悪かったって」
 鏡に映った自分を見ながら、宍戸は曖昧に返答する。なんだかこうしていると、ほんとうに女にでもなった気分だ。
 ──だからあいつも、あんなことをしたのだろうか。
 目の前で閉じられた涼やかな目元を思い出し、宍戸は顔を赤くした。
「宍戸? どうしたの、暑い?」
「や、大丈夫」
「そうだ、これさっき貰ったやつ。口つけてないからあげる」
 手にしていたジュースのパックを差し出され、宍戸はありがたく受け取る。パックはまだ冷えていて、温度差に汗が浮いていた。ストローを刺して中身を口に入れると、ようやく宍戸は身体の力を抜く。自分では気づかなかったが、ずいぶんと緊張していたらしい。
「疲れた? もうすぐで今日は終わりだし、もうちょっと頑張ってね。稼ぎ頭なんだから」
「やめろ、それ」
 普段は無愛想でとっつきにくいと思われている宍戸だが、こんな格好をしているお陰か妙に評判が良く、宍戸目当てに来店する者は数え切れなかった。その人気は、絶対俺が一番やと思ってたのに、と化粧までほどこし長身の美人に変身した忍足に嘆かれたほどだ。
「女の子も騒いでたけど、男も多かったよね〜」
 店内の様子を思い出したのか、滝がくすくすと笑う。宍戸は、黙って口をとがらせた。
「宍戸ってけっこう化粧映えすると思うんだけど。いじらせてくれなくて、残念だなあ」
「うるせー」
 それだけは勘弁してくれと、宍戸はメイクブラシを持った滝の前から逃亡したのだ。いくら祭りだと言っても、男の身で化粧をする気にはなれなかった。
「制服もいいけど、浴衣とかも似合いそうだよね。今度一緒に出かけない?」
「……女物は着ねえぞ」
 にこにこと優しそうな笑みを浮かべた滝に、なんだか嫌な予感がして宍戸は釘を差す。
「なんだ、ばれちゃった?」
 滝が、それでも楽しそうに笑った。呆れながら、宍戸は窓から部室の様子を窺う。そろそろ戻ったほうがいいだろうか。
 窓の下から見上げてくる視線に気づいて、宍戸は身体を強ばらせた。


「宍戸さ〜ん!」
 部室に足を踏み入れた途端、泣きそうな顔で駆け寄ってきた大柄な男に宍戸は顔をしかめた。
「情けない面してんじゃねえよ」
「だって、俺もう嫌です〜!」
 こんな格好恥ずかしい、と宍戸と同じく女生徒の制服に身を包んだ鳳が両手で顔を覆う。気持ちは痛いぐらいわかったが、今日一日をスカートで過ごし、すでに開き直っていた宍戸はいまだにうじうじしている後輩を情けなく思った。
「てめえも男ならしゃきっとしろ、しゃきっと!」
「うう……。宍戸さん、男らしい〜」
 うっすらと涙ぐみながらも鳳は、宍戸を褒め称えることだけは忘れない。スカートから伸びた足も、偉そうに組まれた腕も、つんとすました顔も、すべてが男だと主張しているというのに、このただよう色気はなんなのだろう。
「宍戸さん、すてきです。誰よりもかわいいです、きれいです、男らしいです〜」
「そ、そうか」
 うっとりと顔の前で手を組んだ鳳に、一歩下がって宍戸は頷いた。なんかちょっと、こいつ怖い。
「こら鳳、なにさぼってんねや!」
 やってきた忍足が、鳳の首根っこを捕らえて店内に引き戻す。何度も振り返りながら、鳳は持ち場へ戻っていった。
「まだ終わんねえの?」
「あほ。時間いっぱい稼がんでどないすんねん」
 きっぱりと言い切り、だが忍足は店内には戻らず準備室がわりに使っている部屋へ入っていく。宍戸が後を追うと、忍足は机に腰掛けて溜息をついた。
「さすがに疲れたわ」
「交代すっか?」
 少し考える素振りの後、忍足は首を振る。宍戸の肩へ手を置いて、忍足は眼鏡を光らせた。
「お前は稼ぎ頭や。明日も頑張ってもらわなあかんし、今日はもうええわ」
「だからそれ、やめろって」
 がくりと肩を落とし、宍戸は隣の机に座る。足をぶらつかせながら、あーあと声を漏らした。
「跡部がいれば、楽だったのになあ」
 ただでさえ日本人離れした容姿なのだ、跡部なら少しいじるだけで、さぞかし美しい女性に化けたことだろう。そうすれば、自分がここまでこき使われることなどなかったはずだ。
「そううまくいかへんと思うで?」
 なんのことかと顔を向けると、忍足は真面目な顔で続ける。
「客が跡部に求めるもんと、宍戸に求めるもんとでは性質がちゃうってことや」
「はあ?」
 意味がわからず、宍戸は首を傾げた。
「まあ、ここで事細かに説明したってもええんやけどな?」
 机から降り、忍足は宍戸の正面に立つ。肩に置かれた手が、今度は違う意味を持ったような気がして、宍戸は慌てた。
「お、忍足?」
「殺されてえのか」
 突然背後からかけられた声に、忍足は飛び上がらんばかりに驚く。跡部が、視線だけで人を殺せそうなぐらい凶悪な顔つきを戸口から覗かせていた。
「あ、跡部! 生徒会のほうはもうええんか?」
 とってつけたような質問をする忍足に、跡部は冷たい視線を向ける。忍足が、ぎこちない動きで宍戸から手を離した。
「えーと、俺、そろそろ戻らんと!」
 さっと片手をあげ、忍足が跡部と入れ替わりに出ていく。
「あんなあ宍戸、気をつけたほうがええで」
「は?」
「そのかっこ、そそるから」
 宍戸が問い返す前に、──跡部の蹴りが入る前に、忍足は扉を閉めた。
「……何言ってんだ、あいつ」
 怪訝な顔で呟いた宍戸に、傍らで跡部が眉間にしわを寄せる。
「なかなか繁盛してるみてえじゃねえか」
 跡部が、隣の部屋を肩で示しながら言った。
「あ? ああ、まあな」
 こんなん何が楽しいんだかわかんねえけど、と宍戸は身につけたスカートを両手で広げてみせる。跡部が、目を細めた。
「意外と似合ってるぜ」
「嬉しくねえ」
 不満げな顔をする宍戸に、跡部が愉快そうな目をする。
「忍足の言うことにも一理あるな」
 言うが早いか、跡部の手が宍戸の足に伸びた。机の上から投げ出された足はちょうどよい高さにあったらしく、スカートの裾から滑り込んできた白い指に、痴漢される女ってこんな感じなのだろうかと宍戸はぼんやり考える。指先が洒落にならない部分に触れた瞬間、我に返って跡部を突き飛ばした。
「なに考えてんだ、ばか!」
「なんだ、誘ってるんじゃなかったのか」
 わざとらしく残念そうな顔をする跡部に、宍戸は目を剥いて怒鳴る。
「当たり前だろ!」
 肩をすくめ、もう行くと言って跡部は出ていった。文化祭に協力しない口実だけでなく、ほんとうに忙しいのかも知れない。もっと労ってやるべきだったろうかと思いながら去っていったほうを見ていると、不意に扉が開かれる。跡部が戻ってきたのかと思ったが、現れたのは一つ下の後輩だった。


「日吉」
「お疲れさまです」
 身体を固くした宍戸には気づかない様子で、日吉はいつもと変わらない態度で中へ入ってきた。
「お前、いいのかよ?」
「もうオーダーはストップしました」
 日吉は女装要員ではなく、飲み物や食料を盛りつける係だ。今日の仕事を終え、休みにきたところなのだろう。そう思っても、日吉が一歩近づいてくるたびに宍戸の緊張が増す。
「そんなに、怯えなくても」
「お、怯えてなんかいねーよ!」
 明らかに強がりだとわかる口調の宍戸に、僅かに日吉が顔をゆがめた。
「ほんとうに」
 しみじみとした声音で、日吉が続ける。
「かわいい人ですね、あんたって人は」
「なっ」
 日吉の言葉を耳にした瞬間、一気に顔が赤くなったのが自分でもわかった。がたりと音を立てて、宍戸は隣の机に飛び移る。すました顔で、日吉が向きを変えた。
「来るなって!」
「どうして」
 とうとう逃げ場がなくなって、宍戸は窓に背中をつける。日吉が、正面にやってきた。
「変なんだ」
「変って、人に向かってよくそんなこと言えますね」
 不愉快そうに眉をあげた日吉に、誤解だと宍戸は慌てて続ける。
「いや、お前じゃなくて俺が!」
「あんたが?」
 興味を持ったのか、日吉が僅かに表情を変えた。
「かわいいとか、きれーだとか、朝から色んな奴に言われて、なんか慣れたっつーか」
「そうですか」
「でも、でもなんか、お前に言われると……恥ずかしい」
「恥ずかしい?」
 日吉が、首をひねる。目を見ることが出来ず、宍戸は視線を落とした。
「なんか、すげーどきどきするし、顔赤くなるし、なんか……、なんか変」
 今だって、心臓が悲鳴を上げそうなぐらいどくどくと落ち着かない。ぎゅうっと、制服の胸のあたりを掴みながら言う宍戸に、ふっと日吉が目元を和ませる。気配で伝わって、宍戸は顔を上げた。
「それは、あんたが俺のことを好きだからですよ」
 目にした日吉の顔は、いままで見たことのない表情を浮かべている。わかったような、気がした。


 かわいいとか、きれいだとか。飽きるぐらい、今日一日散々言われたというのに。
 日吉の口から出る言葉は、まるで生まれて初めて聴いた音のようで、くすぐったかった。


「好き、だから」
「そう。あんたは、俺のことが好きなんだ」
 断定するように言われると、ほんとうにそうなんじゃないかと思えてくる。日吉が口にする言葉は、なんだって真実のように聞こえた。
「そっか、好きなんだ、俺」
「そうですよ」
 伸びてきた腕に、宍戸は素直に身体を預ける。背中を撫でる手が心地よくて、うっとりと目を閉じた。


 ややあって、ふと感じた疑問に、宍戸は顔を上げる。日吉が、驚いたような顔をした。
「お前は、どーなんだよ?」
 俺ばっかり言わせてと睨みつけると、日吉は呆れた目を向けてくる。
「俺は、好きでもない人にあんなことしたりしません」
「あんなこと」
 間近に迫った顔に、何のことを言われているのか悟った。
「お、おい、」
 慌てすぎて窓に後頭部をぶつけた宍戸をがっちりと捕まえ、日吉が囁いてくる。
「今度は、逃げないでくださいね」
 懇願するように言われ、それだけで熱をもった耳に、宍戸は観念して目を閉じた。


【完】


2005 06/20 あとがき