01.9月1日(岳人と跡部と宍戸)


 一ヶ月と少し離れていただけなのに、もう何時に家を出ていたのかすら思い出せない。多分間に合うであろう時間に通学路を歩きながら、向日は大きく口を開けた。
「ふあーあ」
 今日から、二学期が始まる。昨日は今日に備えて早めに寝る予定だったが、まだ手をつけていない宿題があることを思い出し、慌てて忍足に頼んで写させて貰ったため、結局床についたのは日付が変わってからだった。
「それもこれも、合宿がなかったからだよなー」
 毎年行われている夏合宿には宿題をする時間というものが組み込まれており、皆で教え合いながら合宿中に終わらせてしまうのが恒例となっていた。だが、向日の所属する男子庭球部は関東大会の初戦で敗北を喫し、本格的な夏を迎える前に引退が決定してしまった。来年に向けての合宿は行われたが、向日達三年生が参加することは出来なかったのだ。
 足下の石を蹴り飛ばしながら、向日は改めて周囲の風景に目を向ける。なんだか、知らない場所にいるような気がした。
 休みの間、忍足達と連れだって後輩への指導という名目で何度か学校へ行ったことはあったが、そこはもう自分たちの居場所ではなかった。
 家で暇そうにしている向日に、家族は夏期講習へ行くことを進めてきた。向日の通う氷帝学園は高等部へ推薦であがることができたが、それも二学期の成績次第だ。気分で成績の上下する向日を心配したのだろう。
 最初は渋っていた向日だったが、やることのない一日の長さに辟易し、夏期講習へ出ることに決めた。環境が変わったからといって勉強が楽しくなった訳ではなかった。しかし、家で過ごすよりは随分とマシだったと思う。
 忍足とは昨日会ったが、他の者と会うのは久しぶりだ。そう思っていると、背後から声がかけられた。
「向日」
 部活仲間である宍戸が、曲がり角から顔を見せる。
「よー。久しぶり」
「な」
 お互い手をあげて挨拶をすると、並んで学校へ向かう。花でも咲いているのか、どこからか甘い匂いが漂ってくる。歩きながら向日は、宍戸が一人であることに疑問を抱いた。
「お前、ジローは?」
 宍戸は学校へ来るとき、大抵幼なじみであるジローを伴っていた筈だ。向日の問いかけに、宍戸は苦笑する。
「あいつ起きなくてさ、跡部んちの車」
「げ。いーなー、俺だって寝てたかったっつの」
 跡部というのは宍戸のもう一人の幼なじみで、どこへ行くにも運転手付きの車で移動する習慣があった。
「なに向日、跡部の車に乗りてえの?」
 向日が跡部を苦手としていることを知っている宍戸が、悪戯めいた笑みを浮かべて聞いてくる。
「や、それは遠慮したいかな」
「あはは」
 渋い顔で否定する向日に、宍戸は声をあげて笑った。何か違和感を覚え、向日は足を止める。
「向日?」
 二、三歩進んだところで向日が立ち止まったことに気づき、宍戸が振り返った。どうしたのかと首をひねるその顔は、以前と同じようでどこか違うようにも感じる。
「何だよ、遅刻すんぞ」
「あ、悪い」
 遅刻の二文字に反応して、向日は慌てて歩き出した。



 昇降口で二人はジローを連れた跡部に出くわした。
「宍戸。てめえジロー置いて逃げやがって……」
 寝ぼけているジローをここまで連れてくるのに散々苦労したらしい跡部が、不機嫌そうな顔で宍戸を睨む。
「別に逃げてねえよ」
 けろりとした顔で宍戸が言い返した。跡部は忌々しげにため息を吐くと、連れて行けとジローを宍戸に押しつける。
 跡部だけ教室のある階が違うので、一人さっさと行ってしまった。向日と顔を見合わせると、宍戸は肩をすくめる。
「おらジロー、靴はきかえっから自力で立ってろ」
 ジローを立たせると、宍戸は上履きに履き替えた。向日もそれに倣う。
「あー、亮ちゃんだ! おはよう!」
「はいはい、おはよう」
 ようやく目が覚めたらしいジローが、挨拶とともに宍戸に抱きついた。いつものことなので宍戸も気にせずジローの好きにさせている。
 宍戸の肩に頬を寄せていたジローが、ふと何かに気づいたように顔を上げた。
「ジロー?」
「亮ちゃん、」
 宍戸の目を見て、ジローは言葉を切る。どうしたという顔をする宍戸に、首を振ってジローは身体を離した。
「お早う向日! 久しぶりっ」
「あー、ああ」
 くるりとこちらを向くと、ジローは向日の手をとる。一緒に行こうと、手を引いて歩き出した。
 向日とジローは教室が隣なこともあり、それなりに仲がよい。だが、宍戸より自分を優先するとは思えなかった。置いて行かれる形になった宍戸は、肩をすくめて大人しくついてくる。
「……なんかあったのか?」
「何がー?」
 声をひそめて訊ねる向日に、とぼけているのかジローはわからないという顔で首をかしげた。


 始業式が終わり、帰ろうと教室を出たところで後輩である鳳に出くわした。
「あ、向日先輩、今日って何か予定ありますか?」
「帰って寝る」
 既に眠気がピークに達していた向日は、険しい目つきで鳳を見る。その視線に怯みながら、鳳はよかったらと言った。
「今日これから部の人たちで食事をしようってことになってて」
「みんな行くの?」
「はい、宍戸さんは行かれるそうです!」
「誰も宍戸のことは聞いてねえっつーの」
 嬉しそうに宍戸の名を口にする鳳に、無駄だと思いつつ向日は一応突っ込みを入れておく。
 帰ってもどうせカップ麺だろうし、食べて帰るのも悪くない。向日は誘いに乗ることにした。


 向日が待ち合わせ場所である昇降口に行くと、まだ誰も来ていなかった。立って待つのもだるいと向日は壁を背に座り込む。
 帰っていく生徒達の足音を聞くともなしに聞いていると、その内の一つが向日の隣で止まった。
 無言のまま動かない相手に、何か用かと顔を上げる。跡部が、前を向いたまま立っていた。
「げ」
 向日は思わず顔をひきつらせたが、跡部はそんな向日を一瞥しただけで視線を正面に戻した。
 隣に立っているということは、跡部も一緒に行くのだろうか。これから自分たちが行くところは、恐らくファーストフードかファミレスだ。普段からそういったものを馬鹿にしている跡部が、まさか同行するとは夢にも思わなかった。
 隣にいるというのに挨拶すらしてこない跡部に、向日はやはり苦手だと思う。特に仲が悪いわけではないが、向日には跡部の言動が理解できないことのほうが多かった。それは跡部も同じなのだろう、二人が部活とは無関係なことで会話を交わすことなど皆無に等しい。
 脇を通っていく生徒達の賑やかな声が、余計に二人の間の沈黙を重苦しく感じさせた。早く誰かやってこないだろうかと、向日は携帯を開いて片っ端から電話をかける。滝と宍戸は電話に出ず、忍足は寝てしまったジローを起こすのに苦労しているらしい。どうやら、当分跡部と二人でいなければならないようだ。向日は抱えた膝にため息を落とした。
 黙り込んでいるよりは何か話していた方が気も紛れるだろうと、向日は意を決して跡部に声をかける。
「跡部さあ……」
「なんだ」
 愛想はないが、とりあえず返事があったことにホッとした。
「珍しいんじゃね、お前がこういうのについてくんの」
 集団行動を好まない跡部は、こういった集まりには顔を出さないことが多い。行く先が例え跡部好みのレストランだったとしても、いつもならやってこないだろう。
「俺は行きたかねえんだけどな」
「樺地が行くから?」
 樺地はきっと行くだろうと思って口にすると、跡部は小馬鹿にしたような笑みを浮かべた。
「なんだよ」
 向日がムッとしながら問いかけても、跡部はそれきり黙り込んでしまう。意味わかんねえ、と向日は顔を背けた。
 帰る者が途切れた頃、不意に何かの甘い香りが鼻をかすめていく。どこかで嗅いだような匂いに、向日は首をひねった。
 その香りが跡部から漂ってくることに気づいて、朝会ったときにでも嗅いだのだろうかと思う。
「お前、なんかつけてんの? 甘ったるい」
「ああ? ……ああ、朝シャワー浴びてきたからな」
「ふーん」
 香水の類ではなく、シャンプーかボディソープの香りらしいことに向日は安堵する。跡部には似合うかも知れないが、中学生男子が香水などつけていたら気味が悪くて仕方ないと向日は思った。
「あれ、まだお前らしかいねえの?」
 いつの間にかやってきた宍戸が、目を丸くしてこちらを見ている。向日が遅いと言う前に、跡部が宍戸に手を伸ばした。
「遅えんだよ、てめえはいつもいつも」
「うっせー。担任に呼ばれてたんだよ」
 跡部の手が、少し伸びた宍戸の髪を撫でる。嫌がるでもなく受け入れている宍戸に、今度は向日が目を丸くした。
「お、お前ら……」
 確かに跡部と宍戸は幼なじみで、時折口げんかをすることはあっても険悪という訳ではなかった。かといって、ここまでべたべたするような間柄にも見えなかったのだが。
 これは一体どういうことかと動揺する向日に、背後からジローが飛びついた。
「お待たせ向日っ!」
「うわ、ジロー?」
「何やってんだジロー」
 向日に懐くジローに、宍戸が笑いかける。いつもなら宍戸の元へ行く筈のジローが、今日は向日に張り付いたままだ。
 そんなジローを気にする様子もなく、跡部と宍戸は会話を続けている。和やかなムードに、向日は腹にまわされたジローの手を軽く叩いた。
「なあなあ、あいつらどーしちゃったんだ?」
「それを俺に聞くう?」
「野暮なこと聞くなや岳人」
「侑士」
 後からやって来た忍足が、ジローと顔を合わせて頷きあっている。自分だけ取り残されたようで、向日は腹を立てた。
「なんだよ、どーゆーことだよ?」
「見てわからんの?」
 忍足が困ったように笑う。何をわかれというのだ。向日はもう一度跡部と宍戸を見て、そういえばと思った。
 先ほど跡部から漂ってきた香りは、宍戸と登校しているときに嗅いだものと同じだ。あの時は何かの花だと思ったが、あれが跡部の使っているシャンプー類の香りだとすると、宍戸は跡部の家に泊まりでもしたのだろうか。
 だが、今朝二人は別々に登校してきた。ジローと三人で跡部の車で来ても良かっただろうに、何故。
 そこまで考えて、向日は唐突に理解した。


 向日が宍戸に感じた違和感。ジローが急に宍戸に寄りつかなくなったこと。二人が同じ香りをまとっている訳。跡部が、今日に限って一緒に行く理由。
 その全てが、一つのことを示しているのだということを。


「あー。ああ、あああああ、そーゆーことかよ」
「わかったあ?」
 呻くように低音を絞り出した向日に、ジローが呑気な声で問いかけてくる。
「夏休みを満喫したっつーわけね、あいつらは」
 自分が暇を持てあまして真面目に夏期講習を受けていた間、彼らは二人で何をしていたのか。
 無性に怒りがこみ上げてきた向日は、今日は絶対二人におごらせてやろうと固く決意した。


【完】


2004 09/19 あとがき