02.楽しみで眠れない(ジローと向日)


 今日はなぜか、珍しくすっきりと目覚めることが出来た。とても気持ちが高揚していることを不思議に思いながら、ジローはキッチンへ向かう。
「おはよーっ」
 元気よく飛び込んだジローへ、既に出かける支度をしていた兄がお早うと頭を撫でてくれた。少し遠い高校へ通う兄は、ジローよりも朝が早い。兄を見送って、ジローは朝食をとろうと席に着いた。
 ミルクを注いでくれた母が向日の名前を出したので、ジローは首を傾げる。
「向日がなあに?」
 問いかけると、母は目を丸くしてからおかしそうに笑った。昨日あれ程騒いでいたのにもう忘れてしまったのかと言われ、ジローは昨日のことを思い出す。
 そうだ。そうだったんだ。
 だから今日は、こんなにすっきりと目覚めることができたのだ。だからこんなにも、わくわくした気持ちでいるのだ。
 思い出して、ジローはにっこりと笑った。


 午前中の授業が全て終わり、昼食をとろうと皆思い思いに移動し始めた。うとうとしていたジローは、物音に目を覚ます。
「ジロー起きたのか」
「飯食べようぜ」
 クラスメイトに声をかけられたが、ジローはぶんぶんと音を立てそうなぐらい強く首を振った。
「俺、用事あるから!」
 とってもとっても、大切な用事。
 ジローは立ち上がると、隣のクラスを目指して走った。
「向日ーっ!」
 叫びながら扉を開けたジローに、クラス中の注目が集まる。だが、その中に向日の姿はなかった。
「あれー、向日は!?」
「向日くんなら、ちょっと前に出てったよ」
「たぶん忍足くんのとこに行ったんだと思うけど」
 扉付近で昼食をとっていた女生徒たちが、親切に教えてくれる。
「ええ〜っ!」
 残念そうに叫ぶジローに、あちこちから笑い声が漏れた。
「ジローくん、もうご飯食べたの?」
「まだ買ってない!」
「え、もう購買も食堂もいっぱいだと思うけど……、これ食べる?」
 パンを食べていた女生徒が、まだ手をつけていないクリームパンを差し出してくる。
「いいの!? サンキュー!」
 受け取って満面の笑みを浮かべたジローに、他の者も笑顔になった。手を振って別れを告げると、ジローは隣の教室をのぞき込む。
「向日いるー!?」
「え? 来てないけど」
 ジローに気づいた男子生徒が、室内を見渡しながら教えてくれた。
「えー! 忍足んとこ行ったって聞いたんだけど!」
「や、忍足のクラスも一個となりだし」
「突き当たりだろ、あいつんとこ」
 少し呆れた様子で口々に言われ、ジローは自分の間違いを悟る。
「あ、間違えた! はずかし〜!」
 ジローが顔を赤らめると、皆ジローは仕方ないなという風に笑った。
「なに、そのパン」
 ジローの手にしたパンに目を留めた一人に訊ねられ、ジローは先ほど貰ったことを話す。
「ばか、そんなの飯になんねーだろ」
「これやるよ」
「パンばっかじゃ食えねえだろ」
「あ、じゃあこれもやる」
 気づくと、ジローの両手は貰ったものでいっぱいになっていた。
「こんなにいいの!? サンキュー!」
 笑顔で送り出され、ジローは今度こそ忍足のクラスへ向かう。
「向日ーーーーーーー!! ……ありっ?」
 しかし、そこにも向日の姿はなかった。
「あれー、向日は? 忍足も亮ちゃんもいないし〜!」
「向日くん捜してるの?」
「ジローくん、どうしたのそれ」
 教室に残っていた女生徒たちが、不思議そうにジローが抱えているものを指さしてくる。
「持ちきれないんじゃない? これに入れなよ」
 もう使わないからと、一人が愛らしい花柄の袋を広げてくれたので、ジローは持っていたものを全て入れた。
「それ全部食べるの?」
「すごいねー」
「そうだ、これ好きだったでしょ? あげる」
 口の開いていないポッキーが、袋の中に詰め込まれる。
「忍足くんたちなら、屋上で食べるって言ってたよ」
「マジ? 行ってみる!」
 そのまま駆けだしてから、うっかりしたとジローはまた教室へ戻った。ふたたび駆け込んできたジローに、皆一様に驚いた顔をする。
「これ、ありがと〜な! ポッキーも!」
 袋を掲げてみせると、女生徒達が笑みを浮かべるのがわかった。もう一度ありがとうと言って、ジローは教室を出る。
 今度こそ、ジローは屋上へ向かった。


 階段を一気に駆け上ると、勢いよく扉を開け放った。扉の向かい側のフェンス付近に座っていた女生徒のグループが、驚いたように顔を上げる。
「ジローくん! びっくりした〜」
「あ、ごめんね! 向日いる〜!?」
「向日くん?」
 首を傾げる女生徒に、ここにもいないのかと肩を落とすと、給水塔の向こうからなにやら声が聞こえてきた。
「がっくん、ご指名やで〜」
「うっせ」
「向日!?」
 ジローが振り返ると、建物の影から向日が姿を現す。
「お前、うっせーんだよ! 人の名前叫ぶな! 恥ずかしいだろ!」
「向日〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜っ!」
 なにやら叫んでいる向日へ向かって、ジローは両手を広げて突進した。
「うわ、待てジロー! やめっ」
 勢いを殺さず飛びつくと、向日を下敷きに二人はその場に転がる。
「いってー!!」
「向日〜! 会いたかったよ〜!」
「なにがだよ!」
 ジローが探し回っていたことなど知らない向日は、突然の仕打ちに声を荒げた。
「重い! どけ!」
「向日〜!」
「人の話を聞け! くっつくな!」
 じたばたともがく向日を押さえつけるように抱きついていると、後ろからひょいっと抱え上げられる。
「ジロちゃん、がっくんつぶれてまうで」
「あ、忍足! 離してよう!」
「なにやってんだジロー。向日大丈夫か?」
 ジローを抱えた忍足の傍らで、宍戸が向日を起こしてやっていた。
「だいじょうぶなわけねーだろ!」
「向日〜!」
 向日の名を呼びながら、ジローは忍足の腕から逃れようとする。
「ん? ジロちゃんなんやのそれ」
「うわ、なんだそのかわいいの」
 ジローの持つピンク色の袋に、宍戸が顔をしかめた。
「ジロちゃんには似合うとるけどな」
「お昼買ってないって言ったら、皆がくれた!」
 ジローがにっこりと笑うと、どれどれと宍戸と向日が中をのぞき込んでくる。
「クリームパンにサンドイッチにカフェオレ、やきそばパンにメロンパンにポッキーまで入ってるぜ」
「お前、人にたかんなよな……」
「たかってないよ! くれたんだよう!」
 ジローが否定すると、忍足が笑った。
「まあ、ジロちゃんならありえん話でもないか」
「ほんとだもん!」
 頬をふくらませたジローを離すと、忍足はよしよしと頭を撫でてくる。あっさり機嫌を直して、ジローは本題を思い出した。
「そうだ向日!」
「なんだよ?」
「明日俺んち泊まりきて!」
「へっ?」
 ジローの突然の申し出に、向日は目を丸くする。向日の手をとって、ジローは続けた。
「向日んち、法事で向日置いておばあちゃんち行くんでしょう? 向日、俺んちきて! お母さんにお願いしたから、大丈夫!」
 先日、部活のある向日を置いて家族がいなくなってしまうと聞いてから、ジローは向日はひとりでどうするのだろうと心配していた。自分の家へ泊めればいいのだと気づいて、昨日はずっと母にそのことをお願いし続けたのだ。
 ジローの提案に、向日は困ったように忍足を見上げる。
「えーっと……」
「がっくん、俺んちに泊まりにくることになってん」
「えええええええええええ!」
 身体中で驚愕を示したジローに、向日が申し訳なさそうな顔になった。
「侑士なら一人暮らしだし、いーかなーと思って……」
「……そっかあ……」
 忍足は向日のダブルスパートナーなのだから、それが一番自然な形だろう。そう思ったが、ふくらんでいた気持ちがどんどん萎んでいくのはどうにもできなかった。
 手にした袋をぎゅっと掴んで俯いたジローに、仕方ないだろうと宍戸が優しく肩を叩いてくる。
「しゃあないなあ。がっくん、俺んちはまた今度にしよか」
「えっ」
 ジローが顔を上げると、向日も驚いた顔で忍足を見ていた。
「俺んちならいつでも泊まりに来れるし、たまにはええんちゃう」
「いいの!?」
 腕を掴んだジローに、忍足はちらりと隣の向日へ目をやる。
「なんや、がっくんもジロちゃんちに泊まりたいみたいやし?」
「なっ、別に俺は……」
「そうなの!?」
 ジローが期待に満ちた目を向けると、向日は顔を赤らめた。
「そりゃまあ、ちっとは……。ジローんち行ったことねえし、気になるっつーか」
「素直になってええんやで〜」
「うっせ! 頭撫でんな侑士!」
 頭に置かれた忍足の手を払いのけると、向日はジローを見る。
「俺、からあげ食いたい」
「お母さんに頼んどく!」
「ジローんちのおばさん料理うまいからなー」
 自分で食事を作ることの多い宍戸が羨ましそうに言ったので、皆笑った。


【完】


2005 09/02 あとがき