03.太陽(忍足と跡部と向日) ※全国大会編ネタばれありです。


 男は、人を待っていた。もうすぐやってくるであろう、自分のパートナーを。
 やがて届いた足音に、男は顔を上げた。


「どういうことですか?」
 動揺を隠せないまま、忍足は声を荒げた。窓際に立つ男は、何も言わずただこちらを見つめている。
 その視線に、なにもかも見抜かれているような気がして、忍足は固まった。同時に、自分の考えに疑問を抱く。見抜かれている? 一体なにを。
 何か言わなくてはと焦る気持ちとは裏腹に、舌は張り付いたようにぴくりとも動かない。
 このままでは、だめだ。このままでは──、
「何故わからない振りをする?」
 男の声に、忍足は顔を上げる。男が、何を言っているのかわからない。
 忍足が首を傾げる前に、男は口を開いた。
「いい加減、逃げるのはやめたらどうだ」
「監督……?」
 逃げるとは、一体なんのことだ。戸惑った目を向けた忍足に、榊は首を振る。
「私の指示がきけないのなら、お前はレギュラーから外す」
「……っ」
 びくりと大きく身体を揺らした忍足には目もくれず、用は終わったとばかりに榊はピアノの前に腰掛けた。その指が鍵盤をたどる前に、忍足は声を振り絞る。
「……考えさせてください」
 返事はなく、ピアノの音色を背に忍足は音楽室を後にした。


 賑やかな集団が近づいてきて、道を譲ろうと忍足は廊下の端に寄った。
「あ、忍足先輩!」
 目を向けると、恐らく一年生であろう、真新しい夏服に身を包んだ男子生徒が数人こちらを見て立っていた。
「こんにちは!」
「こんにちはーっ」
 テニス部の者だろうか。男子テニス部はとにかく人数が多く、顔も覚えていない者がほとんどだった。
 曖昧に頷いた忍足の脇を通って、集団が去っていく。
「忍足先輩に挨拶しちゃったー!」
「やっぱかっこいいよなー」
 ちらちらと向けられる視線に含まれる羨望の色に苦笑して、忍足は歩き出した。
 一年生か。自分にも、あんな風に初々しい時期があったのだ。と言っても、あそこまで可愛らしくはなかっただろうが。
 ──侑士ってなんかしゃべり方暗いし、苦手だったんだよなー、最初の頃。
 いつだったか、そう言って笑ったのはダブルスを組む向日だった。
 向日の力強い笑みを思い返し、忍足は無意識に顔をゆがめた。


 関西から出てきたばかりで、まだ右も左もわからなかったあの頃。ひときわ目を引いたのは、当時の部長でもなく、少し風変わりな監督でもなく、同じ一年ながら既に正レギュラーの座を勝ち取っていた男だった。
 どこか外国の血が混じっているのか、男は全体的に色素が薄く、目などはほとんど青に近い色をしていた。右目の下に泣きぼくろがあり、男のくせに妙に色気のある奴だった。
 たまたま同じクラスだったため、中等部から編入してきた忍足にも男の優秀さはすぐに知れることとなった。とにかく何をやらせても完璧で、何でもそつなくこなすどころか、専門的にやっている人間以上の能力を発揮した。
 普通なら妬みややっかみの対象になるところだが、男はすでにそんな次元を超越した存在だった。
 こんな人間がこの世にいたのか、と感動したことを今でも覚えている。


 日々の練習も、部内での練習試合も、そこそこの結果は残せるものの、忍足にとっては苦痛でしかなかった。
 あの男はなぜ、こんな日々に耐えられるのだろう。自分よりも過酷な生活を送っているはずだというのに、どうしてあんなにもいきいきとして見えるのだろう。
 不思議で、忍足は気がつくといつも男を目で追っていた。
「跡部は、やになったりせえへんの?」
「なにがだ」
 たまたま教室にふたりきりという状況になり、忍足はかねてからの疑問を口にした。帰り支度をしていた跡部が、訝しげに目を向けてくる。
「日々の生活が、や。跡部ぐらいになると、楽しゅうてしゃあないんか?」
 からかうような口調の忍足に、辞書をしまいながら跡部は目線を落とした。
「お前、」
「ん?」
 にやりと口の端をあげ、跡部が青い目を輝かせる。
「お前は、好きでやってるわけじゃねえもんな? テニス」
 息を呑んだ忍足を置いて、跡部はカバンを手に立ち上がった。
「俺様は好きだぜ、テニス。自分一人の力で戦えるってのが楽でいいしよ。敵がわかりやすいってのもいいな。ネットの向こうにいる相手を、ねじ伏せるのが快感だ」
 言い切って、跡部は教室を出ていく。
 残された忍足は、力無く近くの椅子に座り込んだ。
「インサイトって……、そないなことまで見抜かんでええのに」
 小さく呟いて、忍足は瞑目した。


 跡部の言うとおり、忍足は元々好きでテニスを始めたわけではなかった。
 忍足には年の近い姉がいるのだが、これがまた跡部の女版とまではいかなくとも、優秀な人間なのだ。小さい頃から比べられて育った忍足は、姉に対してコンプレックスを抱いていた。何をやらせても一番をとる姉と、何でも器用にこなすがけっして一番にはなれない自分と。
 周囲は、精一杯やっている忍足に対して、何故手を抜くのかと責め立てた。あんなに優秀な姉がいるのだから、忍足ももっとできるはずだと言われ続けた。
 いつしか、「やれば出来るのに、本気を出さない忍足」という認識をされるようになっていた。
 周囲からの期待が苦痛で、ただ姉がやったことのないスポーツだからという理由だけで始めたテニスで氷帝へスカウトされたのをきっかけに、忍足はひとり東京へ出てきた。
 東京には、姉を知る者はいない。ここでなら、のびのびと暮らせると思った。あの姉の弟としてではなく、忍足自身を見てくれる存在を望んだ。
 そして、ほんの少しだけ、ここでなら一番をとれるかも知れないという期待もあった。
 だが、ここには跡部がいた。
 跡部景吾という存在を知った瞬間、忍足の胸をよぎった感情はなんだったのだろう。期待を裏切られた衝撃、こんな人間もいるのかという感動、そして、羨望。
 跡部を見て、忍足は悟った。自分は、こういう人間になりたかったのだと。自分が跡部のような人間だったら、きっと──。


「忍足」
 教室へ向かっていたはずの足は、いつの間にか違うところへたどり着いていた。渡り廊下の端で、跡部が腕を組んで佇んでいた。
「なんや」
「監督に聞いたんだろ」
「……ああ」
 おおかた、榊から忍足を説得するように言われたのだろう。いくら部長とはいえ、ご苦労なことだ。
 肩をすくめた忍足に、青い目を向けたまま跡部は口を開く。
「お前だって、わかってんだろう」
「……」
 無言で、忍足は視線を落とす。跡部の名が書かれた上履きが目に入った。いまどき、律儀に名前を書いている奴なんて跡部ぐらいのものだろう。
 妙に真面目なところのあるこの男は、どう言って自分を説き伏せるつもりだろうか。興味を抱いて、忍足は跡部の言葉を待った。
「このままじゃ、置いてかれるぞ」
 ぎくりと、忍足は身体を強ばらせる。跡部は、気づいていたのだろうか。自分が、一体なにを恐れているのか。
 目を上げようとしない忍足に、痺れをきらしたように跡部は溜息をついた。
「立ち止まってるのは、てめえだけだ」
 吐き捨てるように言われ、忍足は更に身体を縮こまらせる。跡部の立ち去ろうとする気配に、慌てて言葉を紡いだ。
「ジロちゃんは! ……ジロちゃんは、なんて?」
 オーダーの変更があったのは、忍足だけではない。一番影響を受けたのは、忍足のかわりに押し出される形となったジローであろう。
 半分背を向けていた跡部が、顔をこちらに向けた。
「こんな時にまで、他人の心配か?」
「他人って……、」
「ああ、てめえの場合は優しさじゃねえか」
「跡部」
 苛立った口調で、跡部がまくし立てる。
「ジローのことなら心配いらねえよ。あいつは、てめえよりよっぽど素直で扱いやすい」
 素っ気ない物言いに、忍足は顔を上げた。眉根を寄せた跡部を見て、それが本心ではないのだとわかる。跡部も大概、素直ではない。
「ジローは俺様に任せとけ」
「すまん」
「ったく、部長ってのも苦労するぜ」
 小さく笑って、跡部は踵を返した。


 それは、ある意味絶望だったのかも知れない。
 努力していればいつか叶うかも知れないと僅かながら抱いていた希望が、粉々にうち砕かれたあの瞬間。忍足は、一生忘れないだろう。
 跡部のように、なりたかった。
 けれど、絶対になれるはずがないのだと、一目見た瞬間わかってしまった。どれだけ自分と跡部との間に大きな隔たりがあることか。
 完璧すぎる跡部を目の前に、忍足は最早自分がなんのためにこの場に存在するのかもわからなくなっていた。
 ようやく自分の才能を認められたのだと、楽しんでいたはずのテニスでさえ疎ましく感じられた。
 遠い関西からスカウトされ、そこそこの能力を発揮する自分を天才だともてはやす周囲と、跡部には絶対に敵わないという失意とのギャップに、忍足は疲れ果てていた。
 そんな折りだった。忍足が、ダブルスを組むよう監督から指示を受けたのは。
 パートナーとして指定されたのは、テニスとは思えないアクロバティックなプレイを得意とする向日だった。元々、フォローできるパートナーがいてこそ真価を発揮するプレイだということで、向日のパートナーはずっと選考中だったらしい。
 パートナーとして挨拶をした忍足を一瞥し、向日は一瞬嫌そうな顔をした。
 気持ちは、わからないでもない。なんとなく、向日が自分を胡散臭い奴だと思っていることは感じていた。ストレートで飾らない性格の向日からしてみれば、自分のように本音をひた隠しにするタイプは信頼できないのだろう。
 初めての相手と、初めてのダブルス。うまくいくとは忍足自身思っていなかった。
 しかし、ダブルスはやってみれば意外とおもしろいものだった。
 昔から一対一の争いや他人との競争が苦手な忍足には、仲間と同じコートに立ち、仲間のために力を尽くすというプレイは、一人で戦うよりずっとやりやすかったのだ。
 どこへ飛ぶかわからない向日の行動をフォローするのは骨の折れる作業だったが、だんだんと先が読めるようになってきた。そうなると楽しくなってきて、忍足は夢中でボールを追うようになった。
 向日のフォローができるのは忍足だけだと言われるのが嬉しかったし、なにより試合の合間に向けられる向日の笑顔が心地よかった。
 向日と組むようになって、はじめてテニスを好きになれたような気がした。
 名前で呼び合うようになり、親しさを増した二人のダブルスは順調だった。このままレギュラーをとり、全国制覇だと明るく言った向日に、忍足は強く頷いた。


 三年になり、先にレギュラーを獲得していた忍足の後を追うように、向日が正レギュラー入りを果たした。今年こそ、ダブルスで全国制覇だと意気込んでいたのだが。
 氷帝学園男子テニス部は、関東大会初戦でまさかの敗北を喫し、全国大会出場の望みを絶たれた。
 帰り道、駅前で解散してから忍足は向日と並んで歩いていた。どこへ行くというあてもなかったが、二人の足は自然と学校へと向けられていた。
 フェンスの外からコートを眺めながら、向日がぽつりと呟いた。
「俺達、がんばったよな」
「ああ」
「俺も、侑士も、一生懸命やったよな」
「……ああ」
 肩を震わせながら、向日はがしゃんと音を立ててフェンスを掴んだ。
「悔しい。俺、悔しいよ侑士。ふたりで力合わせてがんばったのに、これで終わりなんて、引退なんてしたくねえ……」
「岳人」
 忍足に背を向けたまま、向日は強く目をこすった。振り返った目が、赤く腫れている。
「侑士は?」
「ん?」
「侑士だって、悔しいだろ!? 侑士がんばったもんな! ドロップショットだって決まってたのに、……せっかくマジでやってたのに、悔しいだろ!?」
 強く胸ぐらを掴まれ、忍足は咳き込んだ。
「がっくん、待って……」
「侑士だって、全力でやったんだから、いいんだぜ」
 急に声のトーンを落とし、向日は忍足の胸に頭を押しつけてくる。
「いいって、何がや?」
「我慢しなくていいって! 泣きたけりゃ、泣いていいんだぜ。一生懸命やったんだから、いいんだって」
 こんなときだというのに、向日は自分を気遣ってくれている。
 忍足は、自分の身体が震えていることに気づいた。これは、負けて悔しいとか、引退が淋しいとか、そんな感情のせいではない。
 純粋な、喜びからくる震えだった。
 昔からずっと、負けると何故手を抜くのかと責められた。お前さえ本気を出せば勝てたのだと罵られた。
 何度否定しても誤解は解けず、かえって酷くなるばかりだった。
 いつしか、忍足は自分でもわざと手を抜いている振りをするようになった。ほんとうは精一杯やっているのに、わざと負けてやっているのだという振りをした。


 けれど、向日は。
 そんなポーズをとる間もなく、忍足も一生懸命やったのだと言ってくれた。
 自分自身を、認めて貰えたような気がした。
「ありがとなあ、がっくん。ほんまありがとう……」
 声が震えたのは、けっして哀しさのせいではない。
 ありがとうと繰り返す忍足の声に、やがて向日の嗚咽が混じった。


 一度は引退した身だったが、開催地枠で全国大会出場が決まったのはつい先日のことだ。それ自体は喜ばしいことだった。しかし、監督から出されたオーダーは忍足をシングルスで使うというものだった。
「このままやと置いてかれる、か……」
 跡部に言われた言葉を反芻し、忍足は苦笑する。
 立ち止まっているのは自分だけだ、とも跡部は言っていた。
 関東大会で負け、悔しがる向日を見て忍足は気づいた。自分には、決定的なものが欠けていることに。
 自分は確かに全力を尽くした。だがそれは、果たして誰のためだったのだろう。仲間のため、チームのために精一杯頑張る。それは悪いことではないはずだ。
 けれど自分は、向日のように悔しがることはできなかった。泣きじゃくる向日の姿に胸を痛めた。自分の力が及ばなかったことを嘆いた。
 しかし、それは自分自身のためではなかったのだ。
 向日が勝ちたいと言うから、勝利を目指す。皆が全国制覇を狙っているから、そのために努力する。そこに、忍足の意志はなかった。
 周りに流されて生きるのは楽だ。何をしても、どんな結果になったとしても自分で責任をとる必要はないのだから。
 自分は、なんのためにテニスをしているのだろう。向日に引っ張られてここまでやってきたのは確かだが、少しぐらいは自分の意志もあったのではないだろうか。
 テニスを好きだと、楽しいと思った気持ちに偽りはないはずだ。


 忍足は、向日を待っていた。根拠はなかったが、向日はきっとここへやってくるはずだ。
 思い悩む自分へ、答えを携えて。
 忍足は、全国へシングルスで出場するつもりだった。自分が、前に進むために必要なことなのだと、もうずっと前からわかっていた。ただ、目を背けていただけで。
 これは決別ではなく前進なのだと、向日は理解してくれるだろうか。
 シングルスでやると告げたら、向日は一体どんな顔をするのだろう。きっと傷ついた表情をするに違いない。
 そのとき、自分は意志を貫けるだろうか。
 一人で、自分自身のために戦い、そして勝利することが必要なのだ。前を走る向日に、置いていかれないように。追いついて、また共に戦うために。


 理解されることを、もう一度ふたりで戦えることを願って、忍足は向日を待ち続けた。


【完】


2005 09/10 あとがき