05.いつもと変わらない日常(岳人と忍足と宍戸とジロー)


 時折ぱらりと雑誌をめくる音がする以外、室内は静かだった。
 部屋の主である向日は、ベッドに転がりながら今日発売の漫画誌を眺めている。大体読み終わったところで、そろそろ寝ようかと電灯のひもに手を伸ばした。
「岳人! 起きてるー?」
「なに?」
 扉越しに姉の声が聞こえ、また何か頼み事だろうかと日頃から理不尽な扱いを受けている向日は身構える。
「今日台風来るって。ちゃんと雨戸閉めて寝なさいよ!」
「マジで? わかった」
 姉はそのままもう一人の弟を注意しに行ったようだ。どうやら何か買いに行かされる訳ではないらしいとホッとしながら向日は、言われたとおり開けっ放しだった雨戸を閉めにかかる。
 夜だからという理由だけでなく暗い空を見上げ、向日はふと一人暮らしをしている友人を思いだした。
 中学生の身で一人実家を出てきた彼は、学校近くのお世辞にも立派とは言い難いアパートで暮らしている。あのアパートは、果たしてこの台風に耐えられるのだろうか。
 一度気になり出すといてもたってもいられず、向日はきちんと戸締まりした部屋を抜け出した。
「岳人!? あんたどこ行くつもりなのこんな天気なのに!」
 姉に見とがめられ、向日は友人である忍足のところへ行くと告げた。忍足は何度か家にも遊びに来たことがあり、その外面の良さに実の弟よりも姉の信用を得ていた。忍足のところへ泊まると言えば、何も言われない筈だった。
 だが、今日ばかりは日が悪かったらしい。姉は心配そうな顔で向日を引き止める。
「心配なのもわかるけど、電車が止まるかも知れないのよ。電話にしなさい」
 向日の家から忍足のアパートへ行くには、短い距離とはいえ電車に乗らなければならない。姉の心配ももっともだったが、向日は振りきるように家を出た。


 学校までの定期を使い、電車に乗る。手ぶらで来てしまったが、何か食料でも買い込んだほうがいいだろうか。忍足は節約生活を強いられているため、冷蔵庫がからっぽなことも多々あった。
 電車を降りると、向日は学校近くのコンビニに入る。台風が近づいてきているせいか、人気はなかった。
 食料を見ていたらお腹がすいてきて、ついあれもこれもとカゴに入れてしまう。これで今月の小遣いは吹き飛んだなと、向日は内心ため息を吐いた。
 チャイムが鳴って、誰かが店に入ってくる。既に雨が降り出しているのか、水滴の跳ねる音がした。
「あっ、向日!」
「え?」
 入ってきたのは、同級生で部活仲間でもあるジローと宍戸だった。二人の家は、偶然通りがかるには遠いところにあるはずだ。
「お前ら、なんでここに?」
「それはこっちの台詞だって」
 呆然とした面もちで訊ねる向日に、宍戸が苦笑して答える。その背にはりついて、ジローが笑った。
「えへへ、多分おんなじ理由!」
「同じ……って、侑士?」
 彼らも、忍足の身を案じて来たというのだろうか。
「いつ崩れっかわかんねえしな、あのアパート」
「俺は、亮ちゃんが歩いてくの見えたから!」
 どうやらジローは近所に住む宍戸が出かけるのを知ってついてきたらしい。
「向日も一緒だなんて、嬉しいなあ」
 言葉通り嬉しそうな顔でジローは向日につきまとう。向日の持つカゴに目を向けると、こんなに食べるのかと目を丸くした。
「や、見てたらなんか食いたくなって。あ、お前らも食うなら金出せよ」
 わかったわかったと頷く宍戸に、これで少しは金が残りそうだと安心する。
「俺ポッキー食う! ポッキー!」
 ジローが箱を抱えて棚の間から顔を出したのをきっかけに、三人で騒ぎながら買い物を済ますと、雨が酷くならない内に行こうと店を出た。
 すぐに忍足のアパートが見え、暗く静まりかえったそれに不安が募る。
「大丈夫かな忍足」
「なんか暗いけど、停電ってことはねえよな?」
「隣は電気ついてんぜ」
 みしみしと音を立てながら階段を上り、三人は忍足の部屋の前へたどり着いた。
 時刻は夜の八時半、まだ眠るには早いだろう。チャイムを押すと、中で人の動く気配がした。
 すぐに扉が開き、忍足が顔を見せる。
「……皆さん、お揃いで?」
 三人揃っていることに驚いたのか、忍足はそんなことを言った。


 既に寝ていたらしく室内には布団が敷かれている。それを脇に寄せる忍足を見ながら、向日は買ってきたものをテーブルに置いた。
「誰だよちくわなんか買ったの」
「あ、俺。中にチーズ入ってんだこれ」
「亮ちゃんチーズ好きだよねー」
 ちくわを受け取った宍戸の隣を陣取り、ジローがポッキーポッキーと手を叩く。
「自分でとれよな」
 文句を言いながら向日はポッキーを渡してやった。
「ちくわって、酒のつまみやん」
「うめーよ」
 お前も食うかと食べかけを差し出され、忍足は一瞬顔をひきつらせてから断る。
「ひとくちー」
「はいはい」
 両手をさしのべるジローに宍戸が一口食わせてやった。羨ましそうに見ている忍足の手を叩いて注意をひくと、何か食べるかと向日は袋の口を広げる。
「ほんなら豚マンもらおか」
 思い思いに食べ物を広げ、口に運ぶ。しばらくして、忍足がそういえばと口を開いた。
「お前ら、何しに来たん?」
 忍足はぐるりと三人を見回し、首をかしげる。三人は顔を見合わせると、まずジローが手をあげながら答えた。
「忍足に会いに!」
「……こんな時間に?」
「台風来るっていうから」
 宍戸がそう言い添えると、忍足はようやく合点がいったという風に息を吐く。
「なんや、心配してきてくれたん?」
「だってなあ、この天気だし」
 今にも吹き飛ばされそうな天井を見上げ、向日は肩をすくめた。
 自分たちが来たからといって何の役に立つわけでもないが、たった一人で夜を過ごすよりは気が紛れるだろう。
 そんな気持ちが伝わったのか、忍足が照れたように笑った。
「ありがとうな。みんなええ子で嬉しいわ」
 いつになく素直に礼を述べる忍足に、今度はこちらが照れてしまう。
「ばーか」
「ばかじゃねえの」
 照れ隠しで口々に罵る向日と宍戸を見て、ジローが楽しそうに続けた。
「ばーかっ」
 愛らしいジローに満面の笑みでそんなことを言われた忍足は、降参という風に両手をあげる。
「関西人にばかは禁句やってゆうとるのに……」
 机に顔を伏せて泣き真似をし出した忍足の背に、ジローが飛び乗った。
「ぎゃ! 痛い! 痛いてジローちゃん」
 忍足が喚いても聞こうとはせず、ジローは張り付いたままだ。
「ちょお、なんとかしてやこの子」
 今度は向日のほうへ頼んできたので、宍戸と顔を見合わせる。二人で頷きあうと、
「いんじゃね、そのままで」
「良かったなジロー」
 手を振る宍戸に、ジローが大きく頷いた。


 家主の許可を得て、室内ではゲーム大会が開催されることになった。トーナメント表を作って対戦していく。何回か対戦が終わったところで、宍戸がぽつりと呟いた。
「にしても、四人じゃいまいち盛り上がらねえよな」
「誰か呼ぶ?」
「来ねえだろさすがに。この天気だぜ」
 皆で窓の外へ目を向け、風雨のすごさに顔を顰める。
「この窓割れないだろうな侑士」
「さー。何も飛んでこんかったら平気やろ」
 雑誌に目を通しながら、忍足が適当なことを言った。部屋の隅で転がっていたジローが、跡部呼ぼうかーと口走る。
「なんで跡部やねん!」
 その名前を出すな、と忍足がすかさず突っ込みを入れた。
「えー。だって、跡部なら来るでしょう」
「そおか? 来ねえんじゃね。あいつ忍足嫌ってるみてえだしよ」
「……」
 跡部は、宍戸がいるところならどこにでも駆けつけるだろう。一人何も気づいていない宍戸に、向日は哀れみの目を向けた。
「名前出したらほんまに来そうで怖いわー。やめてえや」
 ジローの口を今更ふさぎながら、忍足がぼやく。
 と、雨の音に紛れて扉を叩く音がした。
「……」
「……」
「……」
「なあ、今誰か来なかったか?」
 何かを予感して押し黙る三人に、宍戸が呑気な口調で訊ねる。
「だ、誰も来てへんて」
「な、なあ」
 忍足と向日は必死に誤魔化そうとしたが、宍戸は立ち上がって玄関へと向かった。
「し、宍戸っ!」
 忍足が止める間もなく、宍戸は扉を開けてしまう。
 しかし、それは二人の恐れていた人物ではなかった。
「宍戸さん、ご無事でしたか!」
 そう言って姿を現したのは、全身ずぶ濡れの格好で、それでも爽やかな笑顔は欠かさない一つ下の後輩、鳳長太郎だった。


 とりあえず濡れたままで部屋に上がるなと風呂場に向かわせた後、四人は声をひそめて会話を始める。
「なんであいつここがわかったんだ?」
「宍戸さんパワーじゃねえの」
「何だよそれ」
 考えるのも面倒だと適当なことを言う向日に、宍戸が呆れた顔をした。
「呼んだら来るだろうとは思ったけど、まさか呼びもしないのに来るとはねえ」
 ジローがのんびりした口調で言った。
「忍足先輩、これちっちゃいみたいなんですけど」
 忍足の貸した着替えが合わなかったらしく、鳳は風呂場から顔だけ出す。
「文句があるなら今すぐ帰ってええんやで?」
 脅すように忍足が低い声を出しても、鳳は笑顔を絶やさず頭をかいた。
「やだなあ、俺が宍戸さんを置いて帰る訳ないじゃないですかー」
 あはははと笑いながら、ボタンの留まらなかったらしいシャツを羽織って鳳が出てくる。
 さりげなく宍戸の隣に座ろうとする鳳を、ジローが蹴り飛ばした。
「亮ちゃんの隣は俺!」
「いつも一緒にいるんだから、ちょっとぐらいいいじゃないですか。大人げないですねあんたも」
 宍戸の背中に抱きついて牽制するジローに、鳳が口を尖らせる。
「長太郎」
「はいっ。何ですか宍戸さん!」
 力いっぱい返事をする鳳へ満足そうに頷くと、宍戸は好きなものを食べろとテーブルに乗っている食べ物を指した。
「いただいていいんですか?」
「いんじゃね」
「ポッキーは俺の!」
「そんな食べかけ誰もとりませんよ」
 鳳は、すかさず開封済みの箱を手にとったジローへ言い返す。
「ところでお前、なんで俺がここにいるってわかったんだ?」
「宍戸さんのお宅へ伺ったら、忍足先輩の家にいるって言われたんで」
「フーン」
 いやそこは何でこんな時間、しかもこんな天気のときに宍戸の家を訪ねてきたのか突っ込むところだろうと向日は思ったが、聞きたくないことを聞かされそうで口には出さなかった。
「なんや、ちっともうちにいる気せえへん」
「がっこにいるみてーだよな」
 場所が違うだけでいつもと全く同じやり取りをする宍戸達に、忍足が諦めたように呟いた。
 ゲームの対戦を再開しながら、向日は隣の忍足をちらりと見上げる。
「いっそのこと、跡部も呼ぶ?」
「それだけは堪忍してや」
 忍足が呻くようにそう漏らすのと、玄関のチャイムが鳴ったのは同時だった。


【完】




2004 09/10 あとがき