06.来年のコト(菊丸と向日) ※全国大会編ネタばれありです。


 改札を出ると、一面に青空が広がっていた。なんてきれいな空だろう。両手を掲げ、大きく伸びをして深呼吸する。肺の中いっぱいに詰め込まれた酸素までもが、空の色に染まっているような気がした。
 ぐるりとあたりを見渡し、菊丸は一歩踏み出す。さて、どこに行こう。
 目的は特になく、ただ急に空いた時間をもてあましていた。今日に限って、友人は皆予定が入っているという。つまらないと口をとがらせたのもつかの間、たまには一人でぶらぶらするのも悪くないと考え直した。
 いつもは乗らない電車に乗り、降りたことのない駅で降りる。たったそれだけのことで、とてつもない冒険をしたような気分になった。
「お小遣いもらったばっかだしー、なんか買おうかな?」
 駅前を歩いていくと、商店街のアーケードが目に入る。入り口のところに案内図が見え、なにかいい店はあるだろうかと近づいた。
「へー、けっこういろんなお店が入ってるんだー。ねえ、」
 ついいつもの癖で、隣を振り向いてしまう。だが、そこに見慣れた笑顔はなかった。
「あー、そーだ。俺今日ひとりなんだっけ……」
 なんだか、この世に自分だけが取り残されたような気がして、急に不安になった。ちょうど空いている時間なのか、周囲に人影はない。
 ほんとうに、自分しかいないのだろうか。きょろきょろとあたりを見渡すと、誰かが近くの店に入っていくのが見えた。
 いた! 自分だけではなかったと、安堵から菊丸は思わずその店に駆け寄った。
 その店はCDショップらしく、店内は様々なジャケットで彩られている。さっきの人はどこだろう。入り口から見える範囲には誰もいなかった。
 ごくりと喉を鳴らし、菊丸は恐る恐る店内に足を踏み入れる。まさか、見間違いだなんてことはないよね。
 棚の間を歩いていくと、レジが目に入る。だが、そこは無人だった。レジに人がいないなんてこと、あるのだろうか。少なくとも、菊丸はいままで一度もそんな店を見たことはなかった。
 まさか、まさか、まさかほんとうに……? 無意識に後退していたらしい、肩が背後の棚にぶつかって、菊丸は悲鳴を上げた。
「うわーっ!」
「うわっ!」
 自分以外の声が聞こえ、菊丸は顔を上げる。そこには、驚いた顔でこちらを見ている少年の姿があった。
「うわー、人がいたー!」
「は?」
 菊丸の叫びに、少年は怪訝そうな顔をする。そこへ、店の裏から店員がやってきた。
「えーと、」
 菊丸と少年を交互に見て、店員は少年へ頭を下げる。
「すみません、特典すでに出ちゃったみたいで……」
「えー、マジで? ちぇー、仕方ねーか」
「お買いあげでよろしいですか?」
「あー、はい」
 どうやら、少年が買おうとしたCDの特典をとりに店員は裏へ行っていたらしい。真相がわかって、菊丸は胸をなで下ろした。
 会計をすませ、店を出ていこうとした少年が、道をふさぐ格好になっている菊丸をにらみ付ける。
「邪魔」
「あ、ごめーん」
 菊丸が脇に避けると、少年はさっさと店を後にしてしまう。あの顔と、あの制服には見覚えがあるような。
 菊丸は、なんとなく少年の後を追った。


 足が速いのか、少年の背はだいぶ遠くにあった。このままでは追いつかないかも知れないと、菊丸は叫びながら追いかける。
「待って待って待ってーーーーーー!」
「はあ?」
 駆け寄った菊丸に、嫌そうな顔をしながら少年が振り向いた。
「なんか用かよ」
「ねえねえ、俺達、どっかで会ったことなーい?」
 口にしてから、なんだか一昔前のナンパの台詞みたいだと思う。案の定、少年は思いきり顔をゆがめた。
「てっめー! 菊丸! 俺のこと覚えてねえとはどーゆーことだ!?」
「へっ? え? なになに、なんで俺のこと知ってんのー?」
「知ってるも何も、……もういいっ」
 今にも掴みかかってきそうな勢いで怒鳴っていた少年は、思い出そうともしない菊丸に痺れをきらしたのか、そのまま背を向けて行ってしまう。
「待って待って待ってー! ねえ、どこで会ったんだっけ? あ、もしかしてテニスするのー? でもラケット持ってないよねえ」
 試合会場ででも顔を合わせたのだろうか。だが少年は手ぶらで、通学カバンすら持っていなかった。
「もう引退したからな。てめーだってそうだろう」
「俺? 俺は……、うん、引退したんだー」
 全国大会が終わり、先日菊丸達三年生は引退をした。それからはテニスコートに足を運ぶこともなくなり、かといって高等部へは推薦であがれるため勉強をする必要もなく、菊丸は暇を持てあましていた。
 目の前の少年も、どうやら同じ身分らしい。なんとなく親近感が沸いて、菊丸は微笑んだ。
「んん? え? あれー、ってことはあ、君も三年生〜!?」
 ずいぶん小柄なので、てっきり年下だとばかり思っていた。
「だから俺はお前が嫌いなんだ!」
 思いきりすねを蹴飛ばされ、菊丸はその場にうずくまる。
「いたっ、痛ってー! ちょっと待ってよー」
 動けない菊丸を置いて、少年は行ってしまった。
「嫌いって、なんでー……?」
 五人兄弟の末っ子で甘え上手な菊丸は、学校でも部内でもムードメーカー的役割を果たしている。これほどあからさまに人から嫌われたのは、初めてのことだった。
 ずきずきと痛む胸をおさえながら、菊丸は少年の消えた方向を見つめていた。


 あれから探し回ったものの、少年を見つけることはできなかった。一体彼は誰だったのだろう。
「なんで俺、嫌われちゃったんだろ……」
 重苦しい気分で歩いていると、携帯が鳴った。メールは同じクラスの友人からのもので、今日はつきあえなくてごめん、明日は一緒に遊ぼうと書かれていた。
「う〜。こーゆーフォローうっまいよなあ」
 涙ぐみそうになった目をこすると、ありがとうと返信して携帯をしまう。
 少しだけ軽くなった足取りで、目の前にあったファミリーレストランへ入った。ウエイトレスのお一人様ですかの問いかけに頷くと、窓際に案内される。
 今日は結局お小遣いをつかわなかったし、なにか美味しいものを食べて帰ろう。メニューを眺め、エビフライのセットを注文する。
 窓の外には、相変わらずの晴天が広がっていた。どこまで続いているのだろう。見入っていると、隣からなにか声が聞こえた。
 振り向くと、隣の席にさきほどの少年が座っていた。ドリンクバーへ行っていたのか、手に持ったグラスにはジュースらしき液体が注がれている。
「お前……、ついてきたのか!?」
「ちっがうよー!」
 探し回っていたのは確かだったが、ここに入ったのは偶然だ。首を振った菊丸へ、少年は疑いの眼差しを向けてきた。
「ほんとだもーん、嘘じゃないもーん。大体、誰なのかもしんないしー」
「てめえが頭悪いだけだろっ」
 ぷいっと顔を背け、少年はポケットから携帯を取り出した。着信はなかったのか、小さく溜息をつく。
「君もー、お友達にふられちゃったの?」
「別にふられてねえし。……なに、お前ふられたの?」
「うん。用事があるんだってー」
「ふーん。お前友達多そうなのにな」
 同じ立場であるとわかったお陰か、少年から先ほどまでの刺々しさが消えた。ずるずると音を立てて水を飲む菊丸に、汚いなあと顔をしかめながら少年は自分の顔を指さす。
「お前、ほんとに俺覚えてないのか?」
「えっとー、見たことある気はすんだけどー」
 わかんにゃーい、と明るく笑った菊丸に、脱力したように少年はテーブルに突っ伏した。
「向日。氷帝の向日岳人」
「むかひ? 氷帝……、あー!」
 氷帝学園の、向日岳人。関東大会で試合をした相手だった。
「そっか、あのときのー! 向日かあ、そっかそっか」
「全国でリベンジしてやろーともったのによ、てめー逃げるんだもんなあ」
 拗ねたような口調で向日が言ったので、菊丸はおかしくなった。
「ごめーん。でもさあ、あのときは大石が怪我しちゃってたからさ」
 大石以外の相手と、ダブルスをする気にはなれなかったのだ。
「ふーん。もう治ったのかよ?」
「うん! まだ病院通ってるみたいだけど、大丈夫だってー」
「そっか。よかったよな」
 向日が安心したように目元を和ませたので、菊丸は嬉しくなった。
「えへへ、あんがとー」
 注文した品が運ばれてきて、しばらく食べることに専念した。
 向日と、こんなところで会うとは思わなかったなあ。向日の家はこのあたりなのだろうか。
 そういえば、全国でふたたび氷帝と当たったとき、向日は違う者とダブルスを組んでいたような気がする。あのときは自分が出ていなかったので応援に専念していたのだが、向日の相方である忍足はシングルスで桃城と対戦したはずだった。
「ねえ向日ー」
「口にもの入れたまま喋んな。なんだよ?」
「向日、忍足とのペア解消しちゃったのー?」
「はあ!? してねえよ!」
 声を荒げた向日に、周囲の視線が集中する。菊丸は、しーっと口の前に人差し指を立てた。
「してねえ。あのときだって、またダブルス組もうって約束したんだから」
「そーなんだ」
「そうだよ、だから大丈夫なんだ。約束、したんだ……」
 だんだん弱まっていく語尾に、向日が不安を抱いているのだと気づく。迷って、菊丸はフォークにエビフライを突き刺した。
「食べる〜? 美味しいよん」
「は?」
 向日は呆気にとられた顔をしてエビフライと菊丸の顔を見比べた。菊丸が譲ろうとしないので、仕方ないといった素振りで口を開く。
「ん。けっこういけるな」
「でしょ〜?」
 残りを平らげると、ふたりは店を後にした。


 振り向かずに歩いていく向日について、菊丸は歩いた。
「向日んちって、このへん〜?」
「ああ、もうちょい先。お前はなんでこんなとこにいんだ」
「暇だったから、知らない駅で降りてみた。ひとりだったし」
「そっか」
 橋の下で立ち止まり、向日が振り向いた。
「お前はさあ、」
「ん?」
 向日が視線を落としながら続ける。
「お前は、大石の怪我が治ったらまたペア組むんだよな」
「あー、うん。そのつもりー。大石とじゃなきゃつまんないしー」
「そっか」
 それきり黙り込んで、向日はそよぐ草を見つめていた。
 菊丸は、忘れていた不安が一気に押し寄せてくるのを感じた。この世に、ひとりきりでいるような恐怖。
 足下から崩れ落ちそうで、菊丸は向日のほうへ一歩踏み出した。
「向日は? 向日だって、また忍足とペア組むんでしょ?」
「ああ……」
「約束、したんだよね?」
「した。握手して、約束した。また組もうって……」
 そのときのことを思い出しているのか、向日の目はどこか遠くを見ているようだった。
「約束、したのに」
 急に声音が変わって、菊丸はぎくりと身体を強ばらせる。向日が、握った拳を震わせていた。
「侑士、なんも言ってくれねえんだ。約束の試合は終わったのに、引退したのに、なんも……」
「向日、」
「シングルスやって、やっぱりシングルスのほうがいいって思ったのかな? 侑士優しいから、言い出せないのかな……」
 これまで我慢してきたのだろう、向日はぽろぽろと言葉とともに涙をこぼした。
「泣かないで向日」
「泣いてねえ!」
 ぐいっと乱暴に目をこすると、向日は顔を上げる。
「俺は、侑士がシングルスやりてえなら、それでいいんだ。やだけど、侑士が決めたなら仕方ねえともうし。でも、なんで俺に言わないんだ? 俺が、それぐらいで侑士のことやになるとでも思ってんのかよ? 俺は、それがムカツクんだ」
 ダブルスを解消することにではなく信頼されていないことに腹が立つのだと、向日は赤く腫れた目元をこする。
「向日は、ほんとに忍足が好きなんだね」
「はあ!? キモイことゆうな!」
 感心した菊丸に、目を剥いて向日が怒鳴った。
「だいじょーぶ、忍足だって向日の気持ちはわかってるはずだよ」
「なんでお前にそんなことわかんだよ」
「だあってー、俺にだってわかったんだから」
「……お前、ばかだろ」
 心底呆れたという顔で、向日が肩をすくめる。
 不意に電子音が鳴り響き、向日がポケットから携帯を取り出した。すぐには出ず、向日はしばらくディスプレイを眺めていた。
「切れちゃうよ?」
「ああ……」
 思い切ったように通話ボタンを押すと、向日は携帯を耳にあてた。
「もしもし、侑士? いま? 家の近く。あー、ひとりっつーか、」
 ちらっと菊丸に目をやって、向日は笑う。
「へんな猫と一緒ー」
「猫? 猫どこ!?」
 きょろきょろし出した菊丸に、笑い声をあげながら向日は空を見上げた。
「月曜? ああ、別に暇だけど」
 じゃあ月曜日に、と向日は携帯を切った。携帯をポケットにしまう向日は、どことなく嬉しそうな顔をしている。
 こちらまで嬉しくなって、菊丸は頬をゆるませた。
「忍足ー?」
「ん。なんか、放課後あけといてって」
「よかったねー」
 駆け寄って、菊丸は向日の腕をとった。
「きっと、大丈夫だよ」
 繋いだ手を一度強く握ると、菊丸は手を離した。
「なんだよ?」
「大丈夫だから! じゃ、俺そろそろ帰らないと!」
 ばいばーいと手を振って、菊丸は駅に向かって駆けだした。


 月曜日。忍足は、向日に何を言うのだろう。
 わからないけれど、向日にとって嬉しいことならいいと思った。


【完】


2005 09/11 あとがき