07.喧嘩(岳人とジローと宍戸)
鈍い衝撃とともに、向日は床へ転がった。背中を打ち付け、痛みに目の前がちかちかする。
教室内にいたクラスメイト達が、悲鳴じみた声をあげた。騒ぎの中、向日が上半身を起こすと、正面で息を荒くしているジローの姿が目に入った。
目に涙を溜めたジローが、顔を真っ赤にして叫ぶ。
「何も知らないくせに! お前なんか、何も知らないくせにっ!!」
いつも穏やかなジローとのギャップに、周囲も戸惑っているのか声をかけられずにいるようだ。
向日は何か言おうと口を開いたが、震える唇に、いま喋ったら泣いてしまいそうだと、言葉を出せなかった。そんな向日を睨み付けると、ジローはそのまま走っていってしまう。
残された向日は、床に転がったまま拳を握りしめた。
向日が氷帝に入ったのは親の意向で、本人は公立の中学校への進学を希望していた。小学校の友達は皆公立へ進んでいて、氷帝へは誰も進まなかった。学校へ行くのに電車へ乗らなければならないし、幼稚舎から通っている他の生徒達の輪へ入っていけるか不安だった。親は大丈夫だと笑ったが、入学してみたらほとんどが既に友達の状態で、向日のように外部から入学してきた者は数えるほどしかいなかった。それでも持ち前の明るさで友人は出来たが、幼稚舎から一緒の子達とはやはり差があるような気がしていた。
そんな向日に、屈託なく笑いかけてくれたのがジローだった。
ジローは気づくといつも寝ていて、誰もが苦笑はしても咎めることはなかった。廊下で倒れていてもまたかで済まされ、教室へたどり着けば偉いと褒められる。
最初は驚いた向日だったが、次第に慣れていった。
向日くん向日くんと後をついてくるジローを鬱陶しいと思うこともあったが、特別に慕われているのだと思うと誇らしい気もした。
二人で遊んでいるとき、何気なく自分も幼稚舎から一緒だったら良かったと言ったことがあった。
その時ジローが言ったのだ。向日くんのことはまだあんまり知らないけど、これから知る楽しみがあるってことだよね、と。その言葉と笑顔に、どれだけ励まされたことか。
仮入部期間に入っても、向日は部活をどこにするか決めかねていた。ジローは幼稚舎からやっているというテニス部へさっさと入部してしまい、向日も入らないかと誘ってきた。
テニスなどやったことはなく、またテレビで観たこともほとんどなかった。だがジローが楽しそうにしているので、気になって向日は見学へ行くことにした。
向日が訪れたときには既に部活は始まっており、集団でグラウンドを走っているところだった。その群れの中にジローの姿を見つけ、向日は表情を和らげる。
いつも眠そうにしているジローだったが、部活の時は別らしい。今まで見たことのない生き生きとした顔で皆の後に続いていた。
見やすい場所を探して、観客席に腰を下ろす。しばらくすると打ち合いが始まったが一年生は球拾いなのか、ジローの金髪が遠くでちょこちょこ動いているのが見えた。
「ボール拾いなんか楽しいのかねえ」
ジローが練習している姿を見に来たというのに、これではちっともテニスの楽しさなど伝わってはこない。
とりあえずもう少し見学していくか。向日がジローから目を離さないようにして座っていると、誰かの打ちそこねたボールが足下に転がってきた。向日が手を伸ばす前に、他の者の手によって拾い上げられる。
見上げると、長い髪を後ろでくくった男が立っていた。
「お前、何やってんの?」
「見学」
「フーン」
顔立ちのあどけなさからして、向日と同じ一年生だろう。相手のどこか偉そうな態度に、向日は苛立った。
「何か用かよ」
向日は不機嫌さを隠さずに問いかける。男は一つため息を吐くとしゃがみ込み、座っている向日に目線を合わせてきた。
「うちの部、人数多くて余程上手くねえと試合にも出られねえし、練習きついからやる気ねえと続かねえぞ」
「は?」
ただジローの練習姿を見に来ただけなのに、誰も入部希望だとは言っていないのに、何故こんなことを言われなければならないのだろう。
しかも、男と口をきいたのはこれが初めてだ。それなのにこんなことを言われるということは、自分が根性なしですぐに投げ出してしまう人間だと男の目には映ったということで、それが余計に怒りを増幅させた。
「頼まれたって入んねえよ!」
元々短気な向日が、そう怒鳴ってしまったのは当然だったかも知れない。立ち上がって踵を返した向日に、男は何も言わなかった。
怒りにまかせて声もかけず帰ってしまった向日に、ジローは翌日嬉しそうに話しかけてきた。
「ねえ向日くん、昨日見に来てくれたんだって?」
「……なんで知ってんだ?」
何も言わずに帰宅してしまったことに罪悪感を覚えながら向日は訊ね返す。途端、ジローの顔に浮かんだ笑みが深くなり、声が明るくなった。
「あのね、亮ちゃんが、向日くんきてたよって教えてくれたの!」
「亮ちゃん……? ああ、幼なじみの」
向日は面識がなかったが、ジローの口からはよく『幼なじみの亮ちゃん』の名前が出る。話を聞いていると、亮ちゃんとやらはとても優しい人間で、ジローがよく懐いていることがうかがえた。
「でも、よくわかったな。俺がいたって」
向日は知らなくとも、向こうは自分のことを知っていたのだろうか。
「うん、俺クラス写真見せてあげたしー。それに、外部だからすぐわかったって」
「あー」
外部から入学してきた向日にとっては知らない者ばかりだったが、内部進学した者にとっては殆どが顔見知りなのだろう。見慣れない者がいればすぐ気づくということか。
「でもなんか、亮ちゃんと喋ってる途中で帰っちゃったんだって? 俺、その後打ち合いさせてもらったのに。向日くんに見て貰いたかったなあ。ご用事でもあったの?」
「……え?」
向日には、ジローの幼なじみと話した記憶などない。他の人間と勘違いしているのではないだろうか。自分が喋ったのは、あの、やる気がないと続かないなどと偉そうに忠告してきた男だけだ。
「俺、そいつと話してねえぞ? 俺が喋ったっつーか、勝手に話しかけてきたのはなんか意地悪そうな髪の長い男だし」
「だから、それが亮ちゃんだって」
向日わかんなかったの、とジローがおかしそうに笑った。
驚きのあまり椅子から転げ落ちそうになりながら、向日はジローに向き直る。
「ちょっと待てジロー、お前の亮ちゃんは、確か優しくてかわいくてきれいでかっこいいんだろ?」
「うん」
「どっこが! あいつ、いきなり決めつけて喋るし、すげームカついたし。お前、騙されてんじゃねえの? や、絶対騙されてるって。あんな奴とつるむの、やめたほうがいいぜ」
昨日の怒りを思い出し、向日は声を荒げて言い募った。途端、鈍い衝撃を感じ、向日の身体は床に転がった。ジローに、突き飛ばされたのだ。
「何も知らないくせに! お前なんか、何も知らないくせにっ!!」
涙目で叫ぶジローに、向日は突き飛ばされたとき以上の衝撃を受けた。初めて言葉を交わしたときから、一度も。
お前と言われたことなど、なかったのに。
向日がジローと喧嘩をしてから一週間が経過した。それぞれ他の友達と過ごすようになり、口をきくことすらなくなった。
今日もジローは楽しそうに部活へ向かう。亮ちゃん亮ちゃんと、嬉しそうにあの男にまとわりついている姿が窓から見えた。ジローがあれだけ懐いているのだから、本当はいい奴なのかも知れない。それでも、初対面であんなことを言われたら誰だって怒るだろう。自分は、悪くない。ジローといると何かと面倒を見なくてはならなかったし、これで良かったのだ。
そう思っても、向日の心が晴れることはなかった。
友人の誘いを断って一人昇降口へ向かった向日の前に、あの男が姿を現した。廊下の端に立っていた男は、向日に目を止めると大股でこちらへやってくる。
ジローが、何か言いつけでもしたのだろうか。また嫌味でも言われるのかと、向日は無視して通り過ぎようとした。
「待てって」
腕を掴まれ、引き止められる。見かけによらず力があるらしい、掴まれた腕が痛んだ。
「痛えよ、触んな」
向日が振り払うと、その手はあっけなく離れていった。
「悪い」
あっさりと謝られ向日は拍子抜けする。
「あのさあ。お前、向日……だろ?」
「だったら何だよ」
苛立った口調で返す向日に、男は相変わらず睨んだような顔でこちらを見据えた。
「俺、宍戸っつって、ジローの幼なじみなんだけど」
「知ってる」
「あのよ、お前、ジローと喧嘩でもしたのか?」
宍戸の言葉に向日は目を丸くする。ジローは、宍戸にも自分とのことを言っていなかったのか。
黙り込む向日に、宍戸は言葉を探すように口を動かす。
「あいつさあ、中等部に上がって、俺とかとクラス離れて、すげえ落ち込んでて」
「……」
だからなんだというのか。ジローと宍戸の間にあったことなど、自分には関係がない筈だ。
「でも、お前と仲良くなって、すげえ嬉しそうでさ。だから、良かったって思ってたんだけど」
「俺と……?」
思わずそう漏らすと、宍戸は力を得たように頷いた。
「向日がこんなことした、こう言ってた、こんなことして遊んだって、毎日すげえうるさかったんだぜ、あいつ」
思い出したのか、宍戸が優しい顔で笑う。こんな顔を、する奴だったのか。そう思って、向日はなんだか羨ましくなった。
「そんで、近頃お前の名前が出なくなってさ、あんま元気もねえみたいで。……あいつ、手がかかるけど、いい奴だし、見てて和むし。えっと、お前が嫌なら仕方ねえけど、そうじゃねえなら、さ……」
そこで言葉を切ると、宍戸は焦った様子で頭をかいた。言葉を選びながら喋る様子に、不器用な人間なのだと気づく。
ジローのために一生懸命な宍戸に、もしかしてあの時も自分を心配して声をかけてくれたのではないかと思った。ただ、言葉が足りなかっただけで。
それがわかって、だからジローはあれ程怒ったのだろう。
──何も知らないくせに! お前なんか、何も知らないくせにっ!!
ジローの悲痛な叫びが蘇り、向日は胸を痛めた。本当に、自分は何も知らなかったのだ。
不器用で、でも本当は心優しい、大好きな幼なじみを悪く言われ、どれほどジローは傷ついたのだろう。
「なあ、お前、もうジローのこと……」
「お前じゃねえよ」
「え?」
「お前じゃなくて、向日。向日岳人」
自分を指さしながら言うと、宍戸は頷く代わりに笑った。
宍戸にジローの居場所を聞くと、向日は教室へ引き返す。ほとんどの生徒が下校したそこには、ジローの黄色い頭だけが窓の外を見ていた。
「亮ちゃん〜? もうご用事終わったの〜?」
振り返らず、ジローは眠そうな声で聞いてくる。
何も言わずに近づくと、向日はジローの頭を小突いた。
「いたっ! もう、何するのっ」
勢いで窓に額をぶつけたジローが、拗ねた顔で振り向く。背後にいるのが向日だと気づくと、目を見張った。
「……な、なあに」
「悪かった」
「えっ」
謝罪とともに頭を下げる向日に、ジローが狼狽える。
「む、向日くん?」
「ごめんな。ジローの大切な奴、悪く言ったりして」
神妙な面もちで向日が見つめると、ジローは数回瞬きを繰り返した。やがて向日の言っている意味が理解できたのか、涙を浮かべ、震える声で話し出す。
「お、俺、亮ちゃんが好きなんだ、すごく」
「うん」
「でも向日くんのことも、すごい大好き」
「う、うん」
だから、とジローは両手を伸ばして向日にしがみついてきた。
「だから、向日くんが亮ちゃんのこと悪く言って、すげえ哀しかったんだ」
「ごめん」
しゃくり上げる背中を撫でてやると、ますます強く抱きつかれる。
「俺の方こそ、ごめんね。痛かったよね向日くん、痛かったよね」
先日強かに打ち付けた背中を、なぞるようにさすられた。
「俺、丈夫だから平気。っつか、くすぐったいって」
触るな、と引きはがすと、ジローは嬉しそうに笑った。
その後様子を見に来た宍戸と途中まで三人で帰ることになった。
「ねー、向日くんもテニス部入って〜! 楽しいって絶対!」
「ジロー、お前なあ。無理強いはやめろって」
身を乗り出すジローを呆れたように押し返す宍戸を見ながら、自分の考えは正しかったと向日は思う。
それから、こいつらがいるならテニス部に入っても楽しくやっていけそうだ、とも。
明日にでも入部届けを提出して、ジローを喜ばせてやろう。
分かれ道まできて、向日はまた明日と二人に手を振った。
【完】