08.プレゼント(三年オール)


 彼が用意した答えは、一体どんなものだろう。いずれにせよ、自分はただ受け入れるしかないのだ。
 たとえそれが、望まぬものだったとしても。


 月曜日、向日は緊張した面もちで教室へ足を踏み入れた。真剣な顔の向日に、クラスメイトは皆どうしたのかと首をひねる。
「あ、そーいえば向日誕生日だっけ?」
「マジで〜? 俺よりお兄さんかよ」
 ひとしきり笑った後、クラスメイトは手持ちのお菓子などをお祝いがわりに差し出してきた。ありがたく受け取りながらも、向日の心は全く違うところにあった。
 彼はもう、登校してきただろうか。学校の目の前に住む彼は、朝練がなくなってからというもの人より遅く来るのが常だった。
 もしかすると、今頃やってきているかも知れない。思いついて、向日は窓際に駆け寄る。
 人気のない校門を、誰かが通った。
 その人物の醸し出す気だるげな雰囲気に、向日はそれが彼であることに気づいた。名前のひとつも呼べば、彼はきっと笑ってくれるだろう。
 だが、何故かそうする気にはなれなかった。
 彼のほうから、気づいて欲しい。いまここに、自分がいることを知って欲しかった。目を凝らして、彼を見つめていることを。
 昇降口に姿を消そうとした彼が、ふと顔を上げた。眼鏡の奥、切れ長の目が向日の姿を捉える。
 ふわりと、今にも空気に溶けてしまいそうな、そんなはかなげな笑みを彼は浮かべた。
 それがどんな意味を持つのか、向日にはわからない。ただ、ひどく落ち着かない気持ちになったことだけは確かだった。


 放課後、あけておいてくれと言ったのは彼のほうだったはずなのに。
 食堂で偶然出会い、並んで昼食をとっている間も、彼がそれに触れることはなかった。
「がっくん、食べへんの?」
 かちゃかちゃとスプーンをいじっていた向日に、彼が首を傾げる。
「食うよ!」
 なんだか無性に腹が立って、向日は勢いよくスプーンを皿に突っ込んだ。絶対、わざとだ。
 彼は、わざととぼけている。向日が気にしていることを、知っていてわざと。
 彼は、時折そんな意地悪をすることがあった。でも、なにもいまそんな意地悪をしなくてもいいのに。
 ごくりと、スープとともに言葉を飲み込んだ。泣き言なんて、口にしたくはなかった。
「そろそろ予鈴やな」
 立ち上がった彼に倣い、向日も立ち上がる。教室の前で別れ際、彼が思いだしたように振り向いた。
「がっくん、これ」
「え?」
 手のひらに何かを押し込まれ、ぎゅっと握らされる。
 戸惑う向日を置いて、彼は行ってしまった。予鈴が鳴って、向日は我に返る。彼の姿は、とっくに見えなくなっていた。
 彼に渡されたものは、一枚の紙切れだった。
 ルーズリーフの端を切り取ったものに、特徴のある字を書く彼にしては頑張ったのか、なかなか丁寧な字が書かれている。
 ──放課後、部室で待ってる。
 たったそれだけの走り書きに、向日の心は動揺した。
 楽しみなような、恐ろしいような。それはまるで、嵐の前のようだった。


 部室の扉の前で、向日は立ちつくしていた。この扉を開けたら、後は答えを聞くだけ。そうしたら、もう引き返すことはできないのだ。
 答えを先延ばしにする彼へ腹を立てていたのは自分だったはずなのに、いまは逃げ出したい気持ちでいっぱいだった。
 深く息を吸って、向日は扉に手をかけた。
 だが、中にいたのは予想外の人物だった。
「あ、向日来た〜?」
「遅えんだよ、何してやがった」
「跡部、その言い方はないでしょう」
 すっかりくつろいでいたらしい滝が、ソファーから立ち上がる。上座でふんぞり返っていた跡部が、仕方なくといった様子で腰を上げた。
「お前ら、なにしてんだ……?」
 偶然居合わせたのかとも思ったが、どうやら違うらしい。滝が、不思議そうな顔をした。
「え? 忍足に聞かなかった?」
「侑士に?」
「渡してって、手紙お願いしたんだけど」
「手紙……ルーズリーフ?」
 そうそれ、と微笑んだ滝に、あのやけに丁寧に書かれた文字は彼が書いたものではなかったのだと悟る。
「なんだ……」
 てっきり、彼が答えを出したのだとばかり思っていた。先日の電話も、滝に言われてかけてきたものだったのだろうか。
 そのとき向日を支配した感情は、果たして落胆だったのだろうか。それとも、安堵だったのか。向日自身にもわからなかった。
「向日?」
「なんでもいい。とっとと始めろ」
 呆然とする向日など意に介さない様子で、跡部が慇懃に顎で示した。
「ったく、跡部ってつくづく跡部だよね」
「どういう意味だ」
 目つきを鋭くした跡部に背を向け、滝はロッカーからなにかを取り出す。
「向日、お誕生日おめでと〜! これ、ぼくたちからね」
「え? あ、ああ」
 大きな箱を手渡され、向日は曖昧に頷いた。
 滝の笑顔が、今箱をあけろと言っているように思える。向日は、大きさの割に軽い箱に手をかけた。
「あ、これテニスウエア……?」
「そう! かっこいーでしょー」
「俺様が特別に頼んで作らせたやつだからな」
 跡部が、得意げに胸を反らした。
 白地に薄い緑色の模様が入ったウエアは、向日の髪色にもよく映えそうだ。
「へー、かっこいーじゃん」
「ね、着てみてよ」
 にこにこと嬉しそうな滝に促され、向日は真新しいウエアに袖を通す。着心地は軽く、飛び跳ねるプレイをする向日にはぴったりだった。
「っしゃ」
 その場でくるりと宙返りして見せると、滝は手を叩いて喜んだ。
「すごいすごーい」
「お、これ伸びるんだ? いー感じ」
 これなら、向日の動きについていけずほつれることもないだろう。
「俺様が特別な素材で作らせたからな」
 跡部が、ますます胸を張った。
「ちなみに、デザインはぼくね」
 滝は向日の腕をとると、そっと耳打ちしてきた。
「感謝してよ〜? 跡部に任せてたら、どんなきらびやかな衣装になっていたことか」
「ありがとな滝! 俺すっげー感謝してるし!」
 合宿などで目にした跡部の私服の数々を思い返し、向日はおおいに滝の心遣いに感謝した。
 ばたばたと駆けてくる足音がして、派手な音を立てながら扉が開かれた。
「向日〜!!」
「ジロー?」
 ジローが、いつになく焦った様子で駆け込んでくる。
「向日大変! 道場破りだよ!」
「はあ!?」
 訳のわからないことを言うジローに、向日は怪訝な顔で返した。
「道場って……、日吉んち?」
「ちがうよー! 向日と試合したいって奴らが来てるんだ!」
「は? 俺と?」
 いいから来て、と向日は無理矢理部室から連れ出される。扉が閉まる瞬間、跡部の苦渋に満ちた声が聞こえたような気がした。
「いくらなんでも、道場破りはねえだろう……」


 ジローに引っ張られ、向日がたどり着いたのは見慣れたテニスコートだった。
「で、どこに道場破りがいるって?」
「あそこ!」
 ジローが指さした先には、確かにベンチに座る人影があった。
「……や、あれどー見ても宍戸と鳳だし」
 向日に気づき、二人が立ち上がる。ラケットを掲げながら、宍戸がネットの向こう側に立った。
「さ、とっとと始めよーぜ」
「は?」
「何度やったって、俺達が勝ちますけどね」
 宍戸の脇を固めるように、鳳もやって来た。
「ちょっと待て、なんの話だ?」
「あ? なんだよ、俺達と試合がしたいっつったのはそっちだろ」
「そーですよ、だから俺達この日のために特訓重ねてきたんすから。ねー、宍戸さん」
「特訓って、……お前なんかまた傷が増えてねえか?」
 レギュラーへ復帰するためにどんな特訓を重ねたのか、宍戸の身体は一時期打ち身やあざだらけですごいことになっていた。すっかりよくなったはずのそれは、今また宍戸の身体を浸食しているようだった。
「しょーがねーだろ、こいつのノーコンが直らねーんだから!」
「あいたっ! でもちょっとはマシになりましたよ!」
 ラケットで小突かれ、鳳が頭を押さえながら主張する。
 なんだかよくわからないが、とにかく試合をしなければならないらしい。
「試合って、……でも、ダブルスだよな?」
 当たり前だろうという風に、宍戸が呆れた顔をする。鳳も、当然のように頷いた。
 自分にとっても、ついこの間までは当然のことだったはずなのに。いまでは、ネットのこちら側と向こう側はまるで別の世界のようだった。
「俺、俺……、ダブルスは、」
 ──大石とじゃなきゃつまんないしー。
 不意に、先日会ったゴールデンコンビの片割れを思い出す。あんな風に、素直に口に出来たなら、何か変わるだろうか。
 けれど、あれは相手が必ず受け入れてくれるとわかっているからこそ口に出来る台詞に思えた。


「なんやがっくん、もうダブルスはしてくれへんの?」
「……侑士?」
 いつの間に来たのか、忍足がラケットを持って立っていた。忍足のラケットと、もうひとつ。
「せっかく宍戸たちにお願いしたんやけど、無駄になってもうたかなー」
「侑士、だって……」
 忍足が、なにを考えているのかわからない。忍足の言葉をどう捉えればいいかわからず、向日は混乱した。
 小さく息を吐いて、忍足は正面から向日を見た。
「俺、勝ったでがっくん。約束通り、強なって、そんで、……戻ってきてん」
「侑士」
「遅なってごめん。でもな、もう大丈夫やから。俺、がっくんと、岳人と一緒に、並んで歩いてく自信ついたわ。せやから、」
 泣きそうな顔で微笑んで、忍足はラケットを差し出してきた。向日が愛用しているラケットを。
「もっぺん、俺とダブルス組んで? ほんで、今度こそあいつら叩きのめしたろーや」
「侑……」
 こみ上げてくる熱いものを無理矢理飲み込んで、向日は震える手でラケットを受け取った。


 ずっと、不安だった。ほんとうは、忍足は自分一人でなんだってできるのだと思っていた。ただ向日を置いていくことが忍びなくて、仕方なくつきあってくれているだけなのではないかと。
 一瞬強く目を閉じ、向日は笑った。
「ったりまえだろ! 侑士の面倒見れんのなんか、俺ぐらいのもんなんだからな!」
「……頼むで、岳人」


 対戦相手は、宍戸と鳳。向かうところ敵なしだった忍足と向日が、校内戦とは言え初めて敗北した相手だった。
 ダブルス復活戦の舞台として、これ以上おあつらえ向きの相手はないだろう。


「誕生日祝いがわりに、サーブ権くれてやろうか?」
 宍戸が、挑発的な笑みを浮かべて言った。
「いらねえよ! てめえらにくれてやらあ」
「言ったな。よし、長太郎やってやれ!」
「え、いいんすか?」
 ボールを渡され、鳳がベースラインの外まで走っていく。
「ぜってーとれよ侑士!」
「任せとき岳人」
 背後から聞こえる低音が、これほど頼もしく思えたことはなかった。やっぱり、忍足とのダブルスが最高だ。
 忍足も、同じように思ってくれていたらいい。
「いきますよー」
 鳳がトスを上げ、試合は始まった。


【完】


2005 09/12 あとがき