※本誌全国大会編のネタばれをしています。コミックス派のかた、ネタばれされたくないかたはご覧にならないでください。
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 09.プリーズ マイ 神様(忍足と向日)


 室内が女生徒の悲鳴で満たされたとき、向日は窓際の席に腰掛けクラスメイトと話していたところだった。
 突然のことに、向日は友人たちとともに呆然と後ろの扉を見つめる。そこには、テニス部の部長で生徒会長でもある跡部景吾が立っていた。
 跡部は射抜くような目で向日を見つめた後、くいっと顎でそちらへ来いと示す。腹は立ったものの、ここで無視すれば後で何をされるかわかったものではない。仕方なく、向日は跡部の待つ廊下へと向かった。


 向日は跳ねるように歩く、と表現したのは一体誰だったろう。皆一様にその通りだと頷いていたことを思い出しながら、向日は歩いていく。跳ねるどころか、足を引きずるようにしながら、一歩ずつゆっくりと。
 自分は一体、どうしたいのだろう。会って、顔を見て、そして何を言うのだろう。
 自分に、何か言えることがあるのだろうか。
 自分に、してやれることがあるのだろうか。
 何もわからないまま、向日は歩いていく。
 何もわからないけれど、このまま放っておくことはできないと思うから。
 彼を一人にしておくことだけは絶対にできないと知っているから。


 やがて見えてきた景色に、自然と目が細くなった。
 テニスコートの脇に存在する、真夏でも涼しげな芝生。見慣れた人影に、向日は無意識に笑みを浮かべていた。
 まるで、一年の頃に戻ったみたいだ。
 向日の足音に、人影が顔を上げる。眼鏡の向こうで、切れ長の目が哀しげに揺らいだ。
「がっくん」
「よお」
 忍足が、少し迷うような仕草で場所を空ける。空いた場所に座り込んで、向日は空を見上げた。
「ぜったい、ここにいると思った」
「さっすが相棒、以心伝心?」
「ばーか」
 関西人にばかは禁句だと、忍足が笑う。
 どうして、そんな風に笑えるのだろう。
 胸が痛んで、向日は目をそらした。
「この場所、覚えとる?」
 当たり前だろうと言うかわりに、正面のテニスコートを見つめる。
 そう、正にこの場所。
 ここから、ふたりのダブルスは始まったのだ。


 一年生の時、向日が風邪で休んでいる間に、ジローが見知らぬ関西人と仲良くなっていた。ジローが懐いているのだから悪い奴ではないだろうとは思ったものの、低く聞き取りづらい声でぼそぼそと喋る忍足の第一印象は、「なんだか暗そうな奴」だった。
 関西からスカウトされてきたというだけあって、忍足のテニスの腕は確かなものだった。てっきりシングルス要員だと思われた忍足は、だが監督の言いつけで向日とダブルスを組むことになった。テニスの試合だとは思えない動きをする向日のフォローができるのは忍足だけ、という理由かららしい。
 どこからどう見ても、忍足がダブルスに満足しているとは思えなかった。事実、忍足は暇さえあればコートに立つ跡部の姿を目で追っていて、きっと跡部のようにシングルスで活躍するプレイヤーになりたいのだろうと、そう思っていた。
 だから、忍足のその言葉を聞いたときは本当に驚いたものだった。


「ダブルスって、ええもんやなあ」
 一年同士の練習試合が終わり、向日と忍足の二人は少しでも涼もうとコート脇の芝生へ来ていた。汗を拭う向日のかたわらで、忍足が突然しみじみとした口調で言ったので、向日は面食らう。
「俺なあ、ひとりで戦うのって性に合わんねん」
 ぽつりと、独り言のように忍足が呟いた。
 忍足は、虚ろな目をコートの向こうへ向ける。何を見ているのかと振り向くと、忍足の視線の先には、やはり跡部がいた。
 しばらく跡部を見つめていた忍足は、何かを振り切るように頭を振って、向日へ目を向けてくる。
 やわらかい視線に、向日はなんだか落ち着かない気分になった。
「せやから、ダブルス任されるようになってほんまよかった」
 心からそう言っているのだと、口調からわかる。
「マジで? 忍足はシングルス狙ってんのかと思ってた」
 驚いた顔をした向日に、忍足は一瞬目を丸くして、それから笑ったのだ。
 その笑みに、向日は初めて忍足の笑顔を見たような気がした。
 忍足はいつも愛想がいいけれど、こんな風に笑ったことはいままで一度もなかったような気がする。
 ダブルスを組むようになってからも、なんとなく忍足を胡散臭い奴だと思っていたのは、そのせいだったのかも知れない。
 愛想笑いばかりで、人が喜ぶ言葉だけを口にして。本音は絶対に見せてくれない奴なのだと、無意識に感じとっていたのだ。
 けれど、いまの笑顔は作り物ではない。
 それがわかって、向日は自分が喜んでいることに気づいた。じわりと胸の中にあたたかいものがこみ上げて、震えそうになる手を強く握りしめる。
「俺なあ、向日見てんの好きやねん」
「俺を?」
 聞き返すと、忍足が強く頷いた。
「向日、コートで俺の前におるやろ? 次はどんな動き見してくれんねやろ〜って、けっこう楽しみやねんで」
「見せ物じゃねえぞ」
 馬鹿にされているのかと向日が口をとがらせると、忍足は笑みを深くした。
「ほんまやって。向日と組んで、俺ちょっと好きになれた気ぃするわ、テニス」
「え?」
 忍足は、好きでテニスをしているわけではないのだろうか。わざわざ関西から出てくるぐらいなのだから、相当入れ込んでいるのだと思っていたのだが。
 怪訝な面もちになった向日に、何かを請うような顔で忍足は口を開いた。
「向日、これからも俺とダブルス組んでくれるか?」
 真剣な顔で、忍足が続ける。
「来年も、再来年も。高等部にあがっても。俺とダブルス、続けてくれへん?」
 少しだけ強ばった顔つきに、忍足が緊張しているのだとわかった。冗談ではなく、本気で言っているのだとも。
 どんな顔をすればよいのかわからず、向日は顔を伏せながら忍足の肩を叩いた。
「あったりまえだろ! 俺だって、忍足と──、侑士とのダブルスが最高だって、思ってんだからなっ」
「向日……」
 どんな風に動いても、忍足ならきっとサポートしてくれる。そんな安心感を、日々の練習を通していつからか抱くようになっていたのだ。
 少し間があって、忍足が白い手を差し出してくる。
「……約束やで、岳人」
「ああ。俺達、ダブルス専門な」
 笑顔で固く握手を交わした二人は、その瞬間から強い信頼関係で結ばれることとなった。


「監督に」
 不意に口を開いた忍足に、向日は震えそうになる足をさりげなく叩いて叱咤した。
「言われてん。次の青学戦、シングルスで出ろって」
「跡部に聞いた」
 聞いて、それで向日はここへやって来たのだ。だが改めて忍足の口から聞かされることは、向日にとって恐怖だった。
 怯えている自分に気づかない振りをして、向日は真っ直ぐに忍足を見つめる。
 跡部には、迷っている忍足を説得しろと言われた。けれど、向日にはそのつもりはない。
 これは、忍足が自分で考え、自分で決めるべきことなのだ。
 静かな口調で、忍足が言った。
「俺、シングルスやるわ」
 息苦しさを覚え、向日は震える手で自分の胸を叩く。
「……そっか」
 それだけ返すと、視線を地面に落とした。
 そうか。何も言わなくとも、忍足は自分で結論を出していたのだ。自分がここへ来る必要など、きっとなかったのだろう。
「絶対勝って、俺はもっと上へいく」
「ああ」
 当たり前だ。俺とのダブルスを解消してまでシングルスで出るんだ、それぐらいしてもらわなきゃ困る。頭の中では、いつものようにそんな軽口を叩いてやれば忍足は安心するだろうとわかっていた。けれど、どうしても口にすることはできなかった。


 いま喋ったら、泣いてしまいそうだ。


「いまより強なって、俺は戻ってくる。そうしたら、」
 一呼吸おいて、忍足が続ける。
「もっぺん、俺とダブルス組んでくれるか?」
 その言葉に、向日は勢いよく顔を上げた。
 忍足が、いつかのように真剣な眼差しで向日を見つめている。
 ああ、あのときと同じだ。
 微かに揺れる肩に、忍足も不安なのだと気づいた。


 忍足は、きっとダブルスで出ると言うだろうと思っていた。何故なら、向日がそれを望んでいることを忍足は知っているはずだったから。
 いつだって自分よりも他人を優先する忍足が、我を通す訳はないと、そう思っていた。
 ダブルスで出ると言う忍足を説得するのが自分の役目なのだと、そう思っていた。
 けれど忍足は、シングルスで出ると言った。向日が何か言う前に、そう決めてしまっていたのだ。
 向日が忍足にしてやれることは、本当にもうないのだと、そう思っていた。


 眼鏡の奥の瞳が揺らめいて、もの言いたげに向日を見つめている。
 自分ができることは、たった一つだけ。
「あったりまえ、だろ」
「がっくん」
「俺達、ダブルス専門なんだからなっ」
 笑顔で、彼を送り出してやることだけ。
 うまく笑えていたか自信はなかったが、忍足が緊張を解いたので向日も安心した。
 静かな動きで、忍足が右手を差し出してくる。相変わらずの白さが目にしみて、向日は思わず泣きそうになった。
「約束、やで」
「ああ」
 握手を交わして、向日は笑う。忍足が、つられるように笑みを浮かべた。


 きっと忍足は、勝つだろう。
 勝って、いまよりも強くなって、そしてここへ戻ってくるのだ。自分の、隣へ。
 もう一度、自分とダブルスを組むために。


【完】


2005 08/22 あとがき