10.もう少し(岳人とジロー)


 照りつける太陽に背を向けながら、向日は歩いていた。もう夏も終わるというのに、この暑さはなんなのだろう。
「暑い。重い。たるい」
 呟くと、荷物をわざと揺らした。着替えや明日の練習で使うラケットの入ったバッグとは別に抱えていたそれは、出がけに母に持たされたものだ。
「あー、こーゆーときって普通ケーキとかじゃねえ?」
 よりによって、こんなに大きくて重いものを持たせなくても。せめてジローが喜んでくれたらよいのだが、さすがに大きすぎるような気がする。
「センスねえよなあ、うちの親」
 空いている手で汗を拭って、向日はふたたび歩き出した。
 目的地であるジローの家までは、もう少しの筈だ。訪ねるのは初めてのことだったが、ジローは毎日歩いて氷帝まで通ってるのだからそう遠くはないだろう。
 手前の家から出てきた人物に、向日は目を丸くした。
「宍戸?」
 ラケットバッグを背負った宍戸が、驚いた顔で門を開ける。
「向日! 何してんだ、こんなとこで」
「ここお前んち?」
「ああ。あ、そーか今日ジローんちだっけ?」
「そ。泊まりにきた」
 部活を休めない向日を置いて家族が祖母の家へ行ってしまうので、その間ジローの家へ泊めて貰うことになったのだ。
 そうだったと頷いて、宍戸が急に妙な声を発する。
「たまちゃん」
「は?」
 宍戸の視線が向日の持っているものに注がれていることに気づき、向日は顔をしかめた。
「人のもんにへんな名前つけんな!」
「あ、悪ィ。や、でも別に俺がつけた訳じゃ……」
 なにやら小さく呟いている宍戸をにらみ付け、向日は大きくふんぞり返る。
「せっかく今日は休みなのにテニスかよ?」
 宍戸の背負ったラケットバッグを指さすと、困ったように宍戸が笑った。
「ああ、まあ、ちょっとな。長太郎と」
「ほんっと宍戸ってテニス馬鹿だよな〜」
 感心する向日に、悪くとったらしい宍戸がむっとする。
「馬鹿じゃねーよ」
「馬鹿だろ、どー見ても」
「んだと……」
 宍戸は何か続けようとしたが、携帯が鳴ったので慌ててポケットを探り出した。会話を聞くともなしに聞いていると、どうやら相手は跡部らしい。
「るせーな、すぐ行くっつってんだろ」
 そう言って、宍戸は通話を切ってしまった。向日が見ていたことに気づいて、宍戸ははっとしたように顔を強ばらせる。
「跡部もいんの?」
「え? あ、やー、その……跡部んちのコート借りて、な」
 ははは、と誤魔化すように笑って宍戸は行ってしまった。
「なんだあいつ」
 二人は幼なじみだから、宍戸が跡部の家へ行くのはわかるのだが、鳳は跡部を苦手としていたはずだ。なんだかおかしいと首を傾げながら、向日はジローの家へ向かった。


「……なにやってんだ、こいつ」
 宍戸の家から数軒離れたところに、ジローの家はあった。すぐにわかったのは、門の中で眠りこけるジローの姿があったからだ。
 太陽の光が降り注ぐ中、ジローは暑そうな顔で眠っている。さすがに寝苦しいのか、時折うなり声のようなものを発していた。
「おい起きろジロー、日射病になるぞ」
 門の隙間から手を伸ばして、眠っているジローの身体を揺すぶる。すると、ジローはすぐにぱちりと目を開けた。いつも寝起きは悪いのに、珍しいこともあるものだ。
 ジローの大きな目が、向日をとらえる。途端に、にっこりと微笑まれた。
「向日だー! いらっしゃいませー!」
 立ち上がって、ジローは門を開けてくれる。中にはいると、ぎゅっと手を掴まれた。
「向日が来てくれて嬉しい!」
「そーかよ」
 照れ隠しに、向日はなぜこんなところで寝ていたのか訊ねる。
「あのねえ、向日が迷子になったらたいへんだから、門のとこで待ってようともったの! でも眠くて寝ちゃったみたい」
 えへへ、とジローは恥ずかしそうに笑った。
「迷子になんかならねーよ。ばかだな、お前……」
 手で触れたジローの頭は、火傷しそうなぐらい熱をもっている。
「ばか! 頭おかしくなるぞお前、水浴びたほーがいんじゃね?」
「お水まく?」
「ちげーよ、もう……」
「慈郎? お友達きたの?」
 二人の声を聞きつけたのか、家の中から誰かが出てきた。高校生ぐらいだろうか、優しくて人のよさそうな顔立ちの少年だ。
「あ、おにーちゃん! うん、向日きたよ〜!」
 ぐいっと手を引かれて、向日は少年の前まで連れて行かれる。
「そんなに引っ張ったらだめだよ」
 ジローを窘めると、少年は向日に向かって小さく頭を下げた。
「慈郎の兄です。向日くんだよね、いらっしゃい」
 そう言って控えめに微笑んだその顔は、どことなくジローに似ていて、確かに彼の兄なのだと思わせる。
「あ、ジローくんと同じ部活の向日岳人です。今日はおせわになります」
 母に言われた通りの挨拶をして、向日は持っていたものを差し出した。
「これ、母からです」
「わあ、おっきなスイカー!!」
 向日の持ってきた大きなスイカに、ジローが目を輝かせる。大切そうに胸に抱えて、くるくるとその場で回った。
「これ食べる!? 食べるの!? 今日食べる!?」
「う、うん、そうだね。慈郎落ち着いて」
 ぐいぐいとジローに腕を引っ張られ、ジローの兄は困ったように頷く。
「向日くん、わざわざありがとう。後でうちの親から電話させてもらうね」
「あ、でも今日はもういないと思います」
「え、あ、そっか。そーだよね、だからうちに来たんだもんね」
 そうだったと何度も頷きながら、ジローの兄は顔を赤くした。どうやら、ジローのおっちょこちょいは彼に似たらしい。
「そうだ、中入ろう。暑いしね、あがって」
 ジローの兄が扉を開けてくれ、向日は玄関へ入る。男物に混じって、小さな女の子用の靴やサンダルがあった。
「そういえばジロー、妹は?」
 お邪魔しますと中へ入って、後からやってきたジローに問いかける。ジローの妹は、氷帝の幼稚舎へ通っているはずだ。時々、寝坊したジローが妹と手を繋いで登校してくるのを見かけた。
「いまねえ、学校のお泊まり会でいないの〜。向日にも会わせてあげたかったなあ」
「ふーん」
 姉と弟しかいない向日にとって、妹という響きはなかなか新鮮なものだ。会えないのは残念だが、また会う機会もあるだろう。
「これで最後ってわけじゃねえしな」
「なあに?」
「べつにー」
 ジローの部屋へ荷物を置きにいこうとしたところで、キッチンから兄の戸惑ったような声が聞こえてきた。
「おにーちゃん?」
 中を覗くと、向日の持ってきたスイカを冷蔵庫に入れようとしていたらしい兄が、眉尻を下げて振り向く。
「入らない……」
「えー!」
「げっ」
 だから、ケーキとかにすればよかったんだ。向日は今頃祖母の家に向かっているであろう母へ、心の中で文句を言った。
「切れば入ると思うけど」
 スイカを抱え、兄がちらりとジローを見る。ジローが、不満いっぱいの声で叫んだ。
「えー! 切っちゃうのー!?」
「冷やさねえと、美味くねえだろ」
 向日が言っても、ジローは口をとがらせたままスイカを見つめている。
「だってー、おかーさんにもおとーさんにも丸いまんま見せてあげたいんだもん」
 スイカを撫でながら、ジローが小さく呟いた。その声に胸を打たれ、向日は何も言えなくなる。
「そうだ、お風呂に入れよう」
「ゆでるの!?」
 兄の提案に、ジローが顔を上げた。
「ち、違うよ。お水張って、なかにつけておこう」
「冷たくなるー?」
「なるよ、きっと」
 やったあと、ジローがキッチンを飛び出した。後を追うと、どうやら風呂場に向かったらしい、水を流す音が聞こえてくる。空っぽの湯船に水を張り、中へスイカを沈めた。
「たまちゃん、冷たくなっていっぱい美味しくなってね」
 水に手を入れ、スイカを撫でながらジローが優しく話しかけている。
「たまちゃん?」
 どこかで聞いたような、と向日は首を傾げた。
「スイカのたまちゃん〜」
 にこにこ笑いながらジローが振り向く。
「変な名前つけんなよな」
 呆れて、向日は溜息をついた。


 ジローの部屋は、なんだかよくわからないものがたくさん置いてあった。とにかくカラフルで、あちこちに子どもが遊ぶようなおもちゃが落ちている。
「これなんだ?」
「水でっぽう! お風呂で遊ぼうね〜!」
「水鉄砲……」
 小さい頃はこれで遊んだりしたっけ。懐かしく思いながら、向日は手にした水鉄砲を眺めた。黄色と緑のプラスチックでできたそれは、水の入っていない状態ではさほど重くもなく、手に馴染んだ。
「……ん? ちょっと待て、風呂一緒に入るのか?」
「うん!」
 大きく頷かれ、一瞬それが当然のように思えてしまう。
「違うだろ、それ!」
「え〜?」
「なんで中三にもなって友達と入らなきゃなんねーんだよ!」
「合宿では一緒じゃ〜ん」
 確かに、毎年行われるテニス部の夏合宿では一緒に入っている。だが、それは合宿所の大浴場があってこそだ。
「あんな狭い風呂に入れるわけねえだろ!」
 先ほど見た風呂場を思い浮かべ、向日は首を振った。
「だいじょぶだよ、亮ちゃんと入れるし。向日とならもっと平気!」
「……それは、俺が宍戸よりちっちゃいからって言いたいのか?」
「うん!」
「ジロー!」
 向日はジローに飛びかかると、その場に転がした。馬乗りになって、脇腹をくすぐってやる。
「きゃ〜! いや〜! おにいちゃん助けて〜!」
「男のくせに助けなんか呼ぶんじゃねえ!」
 きゃあきゃあ笑いながら、ジローはなんとか逃れようとしているのか身をよじった。
「逃げるなって!」
「えー、にげるよー!」
 逃げるジローを捕まえようとしたとき、部屋の扉が開く。どうやらジローの兄が開けたらしい、一目散にジローが飛びついた。
「おにいちゃん助けて!」
「え? あ、ごめんね、ノックしたんだけど」
 飛びつくジローを受け止めながら、兄が向日を見る。
「あ、うるさかったっすか?」
「ううん。かき氷作ったから、二人も食べるかと思って」
「かき氷!」
 ジローが目を輝かせ、おにいちゃん大好き〜とひときわ強くしがみついた。


 赤、青、黄色と色とりどりの液体の入った瓶を前に、二人はどれにしようか迷っていた。
「俺、やっぱいちごかな〜」
「向日いちご? じゃあ俺、レモンー!」
「じゃあ俺はブルーハワイにしようっと」
 ジローの兄が、手際よくそれぞれの皿にシロップをかけてくれる。目の前に皿を置かれ、いただきますと声を揃えてスプーンですくった。舌の上に乗せると、ぷーんと甘い香りと味が口の中に広がる。
「つめたー! あまー! うまーい!」
「やっぱ夏はこれだよなー」
「もう夏も終わるけど、まだまだ暑いもんね」
 しゃくしゃくと氷を咀嚼していると、隣からスプーンが伸ばされた。
「いちご一口ちょーだいっ」
「いいぜ。俺もレモンもーらいっ」
 皿を差し出しながら、向日はジローの氷をすくう。
「ん。レモン食うの初めてかも」
「マジで〜? けっこういけるっしょ」
「ああ」
「いちごもおいし〜!」
 もりもりと食べ、二人は顔を見合わせた。同時に、正面に座っていた兄を振り返る。
「……食べる?」
 差し出された目に鮮やかな青いシロップのかかった氷に、二人はスプーンを突き刺した。
「いただきまーす!」
「おー、ブルーハワイって感じ」
「感じー!」
「食べ過ぎるなよー」
 苦笑した兄に、ジローがそういえばと目を向ける。
「おにーちゃん今日塾は〜?」
「塾行ってんだ」
 ジローの兄は、確か高校生だったはずだ。高校の勉強は、そんなに難しいのだろうか。
「あー、予備校ねー。一応、受験生だから」
「わー」
 氷帝はよほどのことがない限り大学部までは進学できるが、都立へ通っているというジローの兄はそうはいかないはずだ。
「いんすか、遊んでて」
「べつに遊んでる訳じゃないんだけど……」
「おにーちゃん、今日向日が来るからって張り切ってんだよね!」
「えっ?」
 ジローの話では、仕事中の母にかわって弟の友人をもてなさなければと、いろいろ計画を練っていたらしい。
「このシロップも朝になってから買いに行ったんだよねー」
「慈郎……。ばらさなくてもいーだろう」
「そーだったんだ……」
 そこまで歓迎してくれていたとは気づかなかった。兄が、優しい目をしてこちらを見てくる。
「慈郎にね、いつも聞いてたんだ、向日くんのこと」
「俺のこと?」
「そう。毎日毎日、あれして遊んだ、これして笑った、向日くんといると楽しいって。だから一度連れておいでって言ってたのにさ。それこそ、慈郎達が一年の頃から。なのに、慈郎ってばすぐ忘れちゃうんだから」
「えへへ。ごめーん」
 ぺろりと舌を出して、ジローが笑った。なんだか、以前にも誰かにそんなことを言われたような気がする。
「宍戸だ……」
「亮ちゃん?」
 一年生の時、まだジローと出会って間もない頃。ちょっとした行き違いから、派手な喧嘩をしたことがあった。疎遠になって、口もきかないでいたあのとき。宍戸がやってきて、言ったのだ。毎日向日の話をしていたジローが、急に名前を出さなくなって、元気もなくなってきてしまったと。
 ジローと仲違いしていたことを思い出し、向日はちくりと胸を痛ませた。
「お前、誰にでもしてんだな、俺の話」
 誤魔化すように言うと、ジローが大いばりで言った。
「うん! だって自慢だもーん」
「自慢?」
「俺には向日岳人っていう、素敵なお友達がいるんだよーっていう自慢!」
「ばっ……かやろ……」
 恥ずかしい真似をするなと怒ればよいのか、それとも素直に喜べばよいのかわからず、向日は言葉を詰まらせる。ただ、ひどく心を揺さぶられたことだけは確かだった。
「俺は、べつにそんな……」
 自慢されるようなことをしてやったつもりなど、これっぽっちもない。ただ普通に、友人として過ごしてきただけだ。
「向日? 怒っちゃったあ?」
「べつに、怒ってねーけど……」
 恥ずかしくて、向日は顔を逸らす。ジローの兄と目が合い、更に恥ずかしくなった。


 トイレに行くと言って部屋を出たきりジローが戻らないので、向日は探しに行くことにした。ジローの部屋を出ると、とりあえずトイレを目指す。明かりはついておらず、ノックをしても返答はなかった。
「どこ行ったんだ、あいつ」
 下の階に降りると、庭のほうからなにやら声がする。ジローの声であると気づき、向日はキッチンから庭を覗いた。
 木陰にタライを置いて、水を張っているらしい。何をするのかと見ていると、ジローがくるりとこちらを振り向いた。
「あ、向日!」
「なにやってんだジロー。水遊びか?」
「ちがうよー」
 ぱたぱたと駆けてくると、ジローはキッチンに上がり込む。そのまま行ってしまったと思ったら、水浸しのスイカを抱えて戻ってきた。
「どーすんだそれ」
「タライに入れとくんだって! お風呂沸かさないといけないからー」
「あ、そっか」
 いつまでも湯船につけておく訳にもいかないのだろうと納得して、向日もジローに続いて庭に降りる。外は蒸し暑いかと思われたが、木陰なためか案外涼しかった。
 タライの中にスイカを入れると、全部はつかりきらずぴょこんと頭だけが出てしまう。
「あれー、頭出ちゃった」
「でかすぎなんだろ、これが」
「これじゃないよ、たまちゃんだもーん」
「だからたまちゃんって……」
 食べ物に名前を付けるという感覚がわからない。だがたまちゃんと呼ばれるのを見ているうちに、なんとなく愛着がわくから不思議なものだ。緑の皮も黒い模様も、なんだかかわいく思えてきた。
 ぺたりと触れてみると、意外と冷えているように感じる。
「うん、食べ頃だな」
 満足げに言った向日とは対照的に、ジローは小さくうんと呟いた。なんとなく元気がないように思え、向日はジローの顔をのぞき込む。ジローはどこか淋しそうな表情をしていた。
「ジロー?」
 問いただそうとしたとき、玄関のほうからただいまという女性の声が聞こえ、ジローはおかーさんだと嬉しそうに走って行ってしまう。後に残された向日は、ぼんやりとジローの消えた先を見つめていた。


 ジローの母は、とてもきれいで小柄な女性だった。にこにこと笑うその表情が、やはりジローに似ている。
「向日くんは嫌いなものはないかしら?」
「あ、はい」
「俺もなんでもすきー!」
「慈郎は、好きなものがいっぱいあるのよね」
 くすくすと笑いながら、彼女は夕飯の支度にとりかかった。
 向日などは呼びやすいのでつい伸ばしてしまうのだが、ジローの兄や母はジローを「慈郎」と呼ぶ。呼び方ひとつとっても、ジローがずいぶん家族から愛されているのだとわかった。
「母さん、これはなに?」
 母の持ち帰った荷物を仕舞っていたジローの兄が、紙袋を手に戻ってくる。彼の手にしたものに目を留め、忘れてたと彼女は包丁を置いた。
「商店街の生地屋さんがお兄ちゃんたちにってくれたんだけど、お兄ちゃんには少し小さいかしらね」
「なあに? 俺のもあるー?」
 ジローが、立ち上がって母親の元へ駆けていく。袋をのぞき込んで、手を突っ込んだ。
「わあ、何これ! ゆかたー!?」
「甚平ですって。やっぱりお兄ちゃんには小さいみたいね」
 青い甚平を兄にあて、母親は向日を振り返る。
「そうだ、向日くんよかったら貰ってくれないかしら? きっと似合うと思うわ」
「え、いいんですか」
 どうしよう、貰ってもいいのだろうか。迷っていると、ジローがやってきて手を引かれた。
「見て見て! 俺とおそろいー! ねえ、向日これ着よう!」
「え、いま?」
「先にお風呂入っておいでよ。そろそろ沸いた頃だろうから」
 兄に言われ、二人は風呂に入ることにする。
「……って、一緒には入らねーかんな!」
「ばれた!」
 ジローが大げさに驚いたので、皆笑った。


 ジローの家の風呂は、ぬるめに設定されているらしい。熱い湯に慣れている向日としては少し物足りなかったが、ゆっくり浸かっているとだんだんぽかぽかして気持ちよかった。
「ふー」
 じわりと汗が浮かんで、そろそろ頭を洗うかと湯船を出る。シャワーを出す前に、どこからか刺されるような痛みを感じた。
「いてっ」
「えへへ〜」
「ジロー!?」
 振り返ると、ジローが水鉄砲を片手に立っている。しかも裸だ。
「おま、なにやって……入る気か!?」
「だって二人のが楽しーもん!」
「もんじゃね、いて、いてーってそれ!」
 ふたたび水鉄砲で撃たれ、向日は痛みにうめく。
「そんな痛い〜?」
「痛い!」
 ジローから取り上げ、今度は向日が水鉄砲を構えた。ジローが、きゃあと声を上げて湯船に飛び込んだ。
「うわ、洗ってから入れよ! きたねーなあ……」
「だいじょぶだいじょぶ!」
「大丈夫じゃねーだろ」
 水鉄砲を置いて、向日は頭を洗い出す。ジローが、じゃあ今度はシャンプーしてあげるーと水鉄砲にシャンプーを詰め始めた。
「壊れねーか、んなことして」
「だいじょぶ! 俺シャンプー刑事ね!」
「ねって言われても……、うわっ! 顔にかけんな!」
 突然顔を撃たれ、咄嗟に目を瞑ったが少し入ってしまったようだ。
「いって〜! ジロー、お前後で覚えてろよー」
 シャワーで流しながら叫ぶと、忘れちゃうかもーとジローが笑った。


 二人で散々暴れたため、出る頃には湯の量が半分ぐらいになってしまっていた。
「あーあ、足しとかなくて平気かなこれ」
「後でおにーちゃんにゆっとくー」
 風呂からあがると、二人分のタオルと甚平が畳まれて置かれていた。何度見ても、それはおそろいの色と柄をしている。
「……これ、着るの?」
「じんべー嫌い? 俺好きー」
「嫌いじゃねえけど、おそろいってのがなー」
「なんでー! いーじゃん仲良しで! 明日花火あるから、これ着ていこーねー」
 嫌だと言う間もなく、ジローはさっさと着替えてしまった。ひもを結ぶと、なかなか様になっている。いつもの子どもっぽい雰囲気とはがらっと変わり、なんだかジローが格好よく見えた。
 自分も、甚平を着ればこんな風に映るのだろうか。向日は体を拭くと、ジローに倣って甚平に袖を通す。
「向日おっとこまえ〜!」
「ジローに褒められてもなあ」
 口ではそう言ったものの、悪くない気分だった。
 キッチンへ向かうと、ジローの母や兄から口々に褒められた。ちょうど父親も帰ってきて、そのまま夕食となる。
 山のように盛られた揚げたてのからあげに、向日は食欲を刺激された。
「いただきまーす」
「いただきます!」
 行儀良く手を合わせ、向日はからあげに箸を伸ばす。レモンをかけ、かじり付いた。熱々のからあげは、外側はぱりっとしているのに中はやわらかく、肉汁がしみ出してくる。
「おいしい? おいしい?」
 隣でジローが真剣な顔で聞いてくるので、飲み込んでからすげー美味いと笑いかけてやった。ジローも、安心したように笑う。
「うちのおかーさん、料理うまいっしょ?」
「ああ、すげーなあ」
「お口に合ったようでよかったわ。明日はお弁当を作ろうと思うんだけど、いいかしら?」
「あ、はい、お願いします!」
 明日も休みだが、部活はあった。コンビニで買うつもりだった向日にしてみれば、こちらからお願いしたいぐらいだ。
「やった! 向日とおんなじお弁当〜!」
 きゃっほうと、ジローが両手をあげて喜ぶ。その拍子に袖を椀に引っかけ、みそ汁がこぼれそうになった。慌てて椀を掴んで、ジローの兄が注意をする。
「こら、駄目だよ慈郎。ちゃんと見なきゃ」
「はーい、ごめんなさいっ!」
「返事だけはいいんだよなあ……」
 向日がぼやいても、ジローは聞いていないようだった。
 学校や部活での出来事など、思いつくままあちこちに飛ぶ話を、ジローの家族はとても楽しそうに聞いてくれる。特に宍戸や跡部など、ジローの幼なじみの名を出すと嬉しそうだった。
 食事も終盤にさしかかった頃、ジローの兄が思い出したように立ち上がる。
「スイカ持ってくるね」
「向日くんにいただいたんですって? どうもありがとう」
「いえっ、俺はケーキとかのほうがいいかと思ったんですけど」
 つい言い訳のように付け加えると、ジローがケーキも好きだけどスイカも大好き!と手を叩いた。
「ねっ! おとーさんもおかーさんもスイカ好きだよね?」
「そうね。食べ過ぎないように気をつけないとね」
 やがて、兄がスイカを抱えて戻ってきた。テーブルの上を片づけ、新聞紙を敷いてまな板を乗せる。
「この包丁で大丈夫かしら?」
「平気? 俺がやろうか」
 スイカの大きさと包丁のサイズが、どう見ても合わない。小柄な母親に任せるのは危ないからと、兄が包丁を手にした。上の部分を切り落とそうとしたところで、ジローが口を開く。
「……切っちゃうの?」
 その声があんまり頼りなくて、向日は思わずジローの顔をのぞき込んだ。ジローは、庭で見たときのように哀しそうな顔をしている。
「切ったら痛いよね、たまちゃん」
「ジロー」
 どうやら、すっかりスイカに情が移ってしまったらしい。ぐるりと家族と向日の顔を見回して、ジローは切なげな目で訴えた。
「たまちゃん、このままじゃだめ?」
 うっかりほだされそうになって、向日はなんとか踏みとどまる。小さく息を吸って、わざと乱暴に言った。
「何言ってんだジロー、こいつこのままじゃ腐って捨てるしかねーんだぞ? そのほうがよっぽどかわいそうだろう」
「くさっちゃう?」
 はっとしたように、ジローが自分の口を押さえる。
「くさっちゃうの、たまちゃん……」
「慈郎。たまちゃんは、このままだと捨てるしかなくなっちゃうけど、慈郎が食べてあげれば、ずーっと慈郎と一緒に生きていけるんだよ」
「俺と一緒に?」
「うん」
 兄の言葉を、ジローは一生懸命考えているようだった。
「たまちゃんもね、慈郎に美味しく食べて欲しいって言ってるわよ」
「え、ほんとう!?」
 母の言葉に、ジローはぴたりとスイカに耳をつける。なんとなく、ジローがどうしてこういう人間に育ったのかわかったような気がした。


 あんまり痛くないように切ってあげてね、というジローの言葉通り、ジローの兄はゆっくりとスイカを切り分けた。二切れずつ皿に入れると、ジローについて隣の和室へ向かう。縁側に腰掛け、庭を見ながら食べることにした。
 二人並んで、おそろいの甚平に袖を通し、スイカを咀嚼する。なんだか今日は、時間の流れがいつもより遅く感じられた。
「きっとジローに合わせてんだろうな」
「なにがあ?」
「お前がとろくさいっつってんの」
「何それー」
 ぷう、と頬をふくらませ、ジローは庭に種を飛ばす。
「ばか、いーのかよ?」
「いーのいーの。たまちゃんの兄弟が生まれるかもだしー」
「ふーん」
「向日もきょーりょくして!」
 ジローにせがまれ、向日も庭に種を飛ばした。兄弟が生まれるかはわからないが、ジローの願いが叶ったらいいなと思う。
 どこからか祭囃子が聞こえ、向日は顔を上げた。
「お祭りだ! 花火は明日だけど、行ってみる?」
 少し考え、向日は首を振る。
「いいよ、今日は」
 向日の言いたいことがわかったのか、ジローはひとつ頷いた。
「そうだね。せっかく向日とふたりでいるんだもんね」
 明日は、宍戸や跡部や忍足を誘って──跡部は来るかどうかわからないが、花火を見に行くのもいいだろう。
 けれど、いまはもう少しだけ、このままで。


「……たまちゃんって、宍戸も言ってたなそういえば」
「え? なあに?」
 昼間出くわした宍戸の複雑そうな顔を思い出し、向日はまさかと顔をしかめる。
 まさかこいつ、毎年スイカを買うたびに同じこと繰り返してるんじゃねえだろうな。
 ジローは、きょとんとした顔で向日を見ていた。


【完】


2005 09/07 あとがき