24:お菓子(ジローと跡部)


 甘い香りに目を覚ますと、いつの間にか隣にジローが眠り込んでいた。いつ来たのかと疑問に思いつつ、呼吸に合わせて揺れる金糸に手を伸ばす。くるくるの髪はやわらかく、手触りが良かった。
 跡部は、ジローの髪を撫でることが好きだった。こうしていると、日常の様々なことを忘れ、穏やかな気持ちになることが出来る。いつだったか、滝が言っていた。ジローは癒し系だと、いまの跡部のように頭を撫でながら。
 全くその通りだと、跡部は目元を和ませる。
 しばらくそうしているうちに、ジローがもぞもぞと身じろぎした。目を覚ましたのかと見守っていると、もっと撫でろとでも言うように跡部の手へ頭を押しつけてくる。その仕草が飼い猫を彷彿とさせ、跡部は微かに笑った。


 目を覚ましたジローの希望通りホットミルクを用意させると、跡部はソファーに腰掛けた。隣でふうふうと息を吹きかけながらカップを両手で抱えるジローに目を向け、跡部は尊大に頬杖をつく。
「で? なにかあったのか、ジロー」
 ようやく冷めたのか、ジローがカップに口を付けた。一口二口と喉に流し込み、ジローがこちらを向く。
「跡部と、お菓子食べようと思って!」
 じゃーん、という効果音を口で発しながら、ジローがポケットから何かを取り出した。愛らしい桃色の包みを開けると、中から手作りらしいクッキーが姿を現す。甘い香りの正体はこれだったのかと、跡部は目を細めた。
「どうしたんだ、これ」
「あのねえ、はなちゃんが作ってくれたんだ!」
 はなちゃんというのは、ジローの妹だ。まだ小学生だというのに、ジローより余程しっかりしている。初めて会ったとき、お兄ちゃんをお願いしますと頭を下げられ、面食らったほどだ。ジローによく懐いていて、ジローのほうも特別可愛がっていた。
 そのはなちゃんが自分のために焼いてくれたのだと、嬉しそうにジローが包みごとテーブルに広げる。
「いいのかよ? 俺が食べて」
「いいって! 跡部と食べようと思って持ってきたんだから」
「そうか」
 ジローがそこまで言うのならと、跡部はクッキーへ手を伸ばした。見た目はそれなり、味はなかなかのものだ。小学生が焼いたと思えば上等だろう。
「うめえ! うまいよな、跡部っ!」
 頬張りながら、ジローが跡部の膝を叩いた。
「才能あるんじゃねえ?」
「なーっ!」
 きっとジローが食べているクッキーは、込められた想いの分、自分と違う味がするのだろう。うまいうまいと次々口に放り込むジローを見ながら、そんな風に考えた。
「ったく、甘いもんばっか食ってっと病気になるぞ」
 苦笑して言うと、ジローがぴたりと動きを止める。クッキーを口に入れたまま、くるりと跡部を振り向いた。
「……なんだよ?」
「あひょべ」
「飲み込んでから喋れ」
 口にものを入れたまま迫ってくるジローに、跡部は顔をしかめる。大慌てでかみ砕くと、ジローが目を輝かせた。
「跡部、亮ちゃんとおんなじことゆう!」
 跡部は、大きく目を見開く。
「……ああ?」
 跡部が低音を発したことには構わず、ジローはずりずりとソファーの上を移動してくる。ぽふりと抱きつかれ、跡部は反射的にジローの背へ片手を回した。
「なに甘えてんだ」
 甘える相手は、他にいるだろう。咄嗟に出かかった言葉を飲み込むと、跡部はすり寄せられた金髪を見つめる。
「俺さあ」
 跡部の肩に顔をつけたまま、ジローが口を開いた。髪が、頬に当たってくすぐったい。
「俺、跡部が好きだよ」
 これまで、幾度となく繰り返されてきた言葉。ストレートに好意を示すジローらしい、わかりやすい愛情表現。それが、今日ばかりは違うニュアンスに感じられた。
「……ジロー?」
 名前を呼ぶと、返事のかわりにぐりぐりと頭を動かされる。ぎゅうっと、首にしがみついている腕に力が込められた。
「あと、お菓子食べるのも好き」
 続けられた言葉に、跡部は苦笑する。背を撫でながら、小さくぼやいた。
「おいおい。俺様は食い物と一緒かよ?」
「お菓子美味しいから、大好きなんだ。でも、好きな人と食べると、もっと美味しいよね?」
 ジローが顔を上げる。優しい声音と同じ、どこまでも優しい表情で跡部を見上げてきた。
「だから俺、跡部とお菓子食べるんだ。これからも、ずっとね」
 言いたいことは全て言ったとばかりに、ジローが口を引き結ぶ。眉尻がさがって、いまにも泣き出しそうに見えた。
「……ばーか」
 跡部は、もう片方の手でジローの頭を引き寄せる。ジローの顔を、見なくてすむように。ジローに顔を、見られなくてすむように。
「んなこと、言われなくたってわかってるよ」
 震えそうになる指先を誤魔化すように、跡部はジローの頭を強く抱え込んだ。
「俺様がそう望むんだ。叶わないはずねえだろうが」
 口にした言葉には、真実味があった。そうだ、自分が望めば、叶わないことなどないはずだ。
 きっと自分たちは、いつまでもともにいられるだろう。いつまでも、子どものようにはしゃぎながら。お互いの距離が変わってしまったとしても、いつまでも一緒に。
 時刻を告げる仕掛け時計に、跡部は顔を上げた。抱きついたままのジローの背を、ぽんぽんと叩く。
「今日は、宍戸と約束してんだろ」
「……うん」
 ゆっくりと、ジローが跡部から離れた。立ち上がって、大きく伸びをする。
「それじゃ、俺もう行くね! ミルクごちそーさま!」
「おい、これまだ残ってんぞ?」
 テーブルに広げられたクッキーは、まだ三分の一ほど残っていた。にっこりと、ジローが笑う。
「また食べに来るし! とっといて!」
 ジローの答えに、跡部は口の端をあげた。
「日持ちしねえだろ。早めに来い」
「おっけー! まーかしてっ」
 音を立てそうなぐらい大きく手を振りながら、ジローが部屋から出ていく。見送って、跡部は知らず嘆息した。


 ジローと宍戸は、どんな風に今日を過ごすのだろう。テニスをするのだろうか、それともゲームだろうか。いずれにせよ、楽しい時間を過ごせればいいと、跡部は願う。
 二人の、お互いを想う気持ちに気づいたのは、恐らく跡部が一番最初だった。えらく遠回りをする二人を、さりげなく導いてやったのもまた、跡部だった。それは多大なる苦痛を跡部に強いる行為だったが、二人の顔が曇るよりは遙かにましだった。
 置いていかれたクッキーの一欠片を口に入れ、跡部は顔をゆがめる。込められた想いは、きっとジローの妹のものだけではなかったはずだ。
 今更気づいた自分の愚かさと、ジローからのメッセージに、跡部は笑った。


【完】


2005 03/07 あとがき