27:雨(跡部と宍戸)


 声が聞こえたような気がして、跡部は顔を上げた。窓から見える景色は、絶え間なく打ち付ける雨に歪んでいる。まだ四時だというのに辺りは暗く、昼過ぎから降り始めた雨は、やむどころかますます勢いを増しているようだ。
 耳をすましても、聞こえてくるのは所かまわず激しく叩きつける雨の音だけだった。
 先ほどの声は、空耳だったのだろうか。
 そう思って一旦は書類に目を戻したものの、どうしても気になって再び窓の外へ目を向ける。集中力には自信のある跡部が、これほど何かに気をとられることは珍しい。
 雨の音に混じって、もはや水たまりというよりも池のようになってしまっている地面の上を、ばしゃばしゃと駆けてくる足音が聞こえた。  やはり、誰かいるのだ。
 誰か──跡部の耳が正しければ、先ほどの声はよく知っている人物のものだった。
 足音は次第に勢いを弱め、ついには立ち止まってしまう。滝のような雨でよく見えなかったが、誰かが窓の外で立ち尽くしているようだ。
 相手は、ここに跡部がいることを知っているのだろうか──いや、恐らくは知らずにいるのだろう。
 どしゃ降りの雨の中、傘もささずに立っているなど尋常な事態ではない。
 そこにいる人物が跡部の想像通りの男だったとしたら、跡部にだけは弱みを見せるような真似はしないはずだ。
 知らずため息をつき、跡部は立ち上がった。
 気配を殺し、ゆっくりと戸口へ近づいて一気に扉を開け放つ。雨の中、部室の外に立ち尽くしていた男が、驚いたようにずぶ濡れの顔を向けてくる。
 やはり、と跡部は苦々しい気持ちで顔をゆがめた。
「こんなところで、何してやがる」
 身体どころか、顔まで冷えてうまく動かないのだろう。宍戸が、たどたどしい口調で跡部の名を呼んだ。
 
 
 ぼんやりと佇んでいる宍戸を室内に引き入れ、跡部は自分のロッカーを開けた。真新しいタオルを取り出すと、宍戸の頭に投げつけてやる。
「さっさと拭け。床が汚れる」
 目だけを跡部に向け、だが宍戸は一向に動こうとはしない。ぽたりぽたりと、宍戸の身体を伝った雫が小さな水たまりを作っていくのを、跡部はやるせない気持ちで見つめた。
「宍戸」
 自分の言葉は、宍戸には届かないのだろうか。
 頭に乗せられたタオルはそのままに、宍戸は黙って視線を床に落とす。水たまりは、広がっていくばかりだ。
 苛立ちに任せ、跡部は宍戸に手を伸ばす。宍戸は一瞬目を上げたが、そこには跡部に対する何の感情も浮かんではいなかった。
 殴りたおしたい衝動を抑え、乱暴に宍戸の頭をぬぐう。わざと髪をひっぱってやっても、宍戸は抵抗することもなく、されるがままだ。
「……何があった」
 聞きたいのか聞きたくないのか、自分でもわからなかった。ただ一つだけわかっていることは、宍戸をこんな風にしてしまったのは自分以外の人間であるということだけだ。
 たまらなく悔しくて、タオルを握る手に力をこめる。宍戸が、そんな跡部に気づくことはなかった。
 宍戸の目が、正面に立つ跡部を捉えた。だが、跡部を見ているわけではないのだとすぐに悟る。わかってしまう自分の鋭さが、この時ばかりは恨めしかった。
「ジロー、が……」
「ジロー?」
 もう一人の幼なじみの名が飛び出し、跡部は目を見開く。ぽつりぽつりと、抑揚のない声で宍戸が語りだした。
 
 
 放課後、帰ろうとした宍戸は、ジローのクラスメイトに捕まった。眠り込んでいるジローを宍戸に頼むと、その男はさっさと部活に行ってしまう。あいつんとこは、まだ引退してないんだな。その背を見送って、宍戸はそんなことを考えた。
 ジローの教室を覗くと、黄色い頭が机に突っ伏しているのが目に入る。ぐっすり眠っているようだ。宍戸は、小さくため息を吐いた。
 起こそうか迷い、どうせ時間はたっぷりあるのだからとジローの前の席に座る。頬杖をついて、寝入っているジローを眺めた。
 普段から年の割りに幼い顔立ちをしていると思ってはいたが、こうして表情もなく眠っていると余計に子どものように見えてくる。
「背も、あんまのびねえしな」
 くるくるの髪へ指を絡め、やわらかい感触を楽しんだ。どのくらいそうしていたのか、誰かの笑う気配に宍戸は我に返る。
 顔を上げると、後ろの扉の前に忍足が立っていた。にやにやとした忍足の笑みに、気恥ずかしくなってジローの髪をいじっていた手を引っ込める。
 忍足が、大またに近づいてきた。
「ほんまに、宍戸はジロちゃんが好きやねんなあ」
「うるせえ」
 ぷいとそっぽを向くと、忍足の笑い声が耳に届く。単なる戯れのつもりだったのに、よりによって忍足に見られるとは。
 忍足は、宍戸をからかうことに関しても天才的だった。
 早く帰れというように手を振ると、つれないなあと忍足は肩をすくめる。忍足は手近な椅子を引っ張ってくると、わざわざ宍戸の隣に座り込んだ。
「なんだよ」
「ええやん。雨ひどいし、まだ帰りたない気分やねん」
 にっこりと胡散臭い笑みを浮かべ、忍足が宍戸の顔を覗きこんできた。
 やっぱりこいつ、馬鹿にする気だ。
 むっとした表情で見ると、忍足はやはり笑みを浮かべている。眼鏡の奥を覗き込んで、宍戸はなんだか落ち着かない気分になった。自分を見つめる忍足の目が、とても優しい色をしていたのだ。
「……」
 何か言おうと口を開き、結局何も口にしなかった。
 ジローの健やかな寝息が響く中、時間だけが過ぎていく。
 やがて、帰ると忍足が席を立った。カバンを抱え、前の扉から出て行く。何となく目で追っていると、忍足が振り返った。
 見ていたことに気づかれ、宍戸は気まずい思いになる。忍足が、困ったように首をかしげた。
「たまには、俺にも優しくしてや?」
「は?」
 忍足の唐突な言葉に目を丸くしていると、ぽつりと呟かれる。
「ジロちゃんに対する、十分の一でもええから」
「……!」
 自分の気持ちを見透かされたようで、宍戸は全身をこわばらせた。否定も肯定もできず、宍戸は忍足を凝視する。そんな宍戸を哀しげに見つめた後、忍足は今度こそ立ち去った。
 忍足の足音が遠ざかり、先ほどまでは耳に入らなかった雨音が急に気になりだす。脱力したように椅子へ座り込むと、宍戸はがしがしと頭をかいた。
「いいなあ」
「うわっ!?」
 寝ているとばかり思っていたジローが急に顔を上げたので、宍戸は驚いて身を引く。まだ寝ぼけているのか、ジローはぼうっとした顔で宍戸を見てきた。
 落ち着かない心臓をなだめようと、宍戸は無意識に胸をさする。
「いいなあって、なにがだよ?」
「亮ちゃんが」
「へ?」
 ジローが、眠そうに瞬きをしながらも懸命に宍戸へ目を向けてきた。
「俺、亮ちゃんみたいになりたかったなあ」
「……ジロー」
 そうすればきっと、とジローは再び机に顔を伏せる。
「忍足は、俺を見てくれたよね」
 いつになく弱々しい呟きに、宍戸の胸がひどく痛んだ。一瞬呼吸を忘れ、軽く咳き込む。ジローは、机に顔をつけたまま動かない。
 ジローの顔が見えなくて、自分の顔を見られなくてよかったと宍戸は思った。
 いま、自分は泣きそうな顔をしているだろう。


 どうして、と宍戸は声を震わせた。
「どうしてジローは、あんなことを言うんだ。俺が悪いのか? 俺が? なんで、あんなこと言うんだ。言われた俺はどうすりゃいいんだよ?」
「宍戸」
 答えを求めて、宍戸が跡部の制服にしがみついてくる。
 ジローは、本来ならけっして他人を羨んだりしない人間だ。大層な思想があるわけではないだろうが、己が己であることに何の疑問も抱いてはおらず、また自分が持っているものを心から愛している。向上心がないわけではなく、ジローは現状に満足することを知っているだけだった。
「あんなこと言われて──、言わせた俺は、どうすればいいんだ……? 俺は、俺は……っ」
「宍戸、落ち着け」
 無駄だとわかっていて、それでも声をかけずにはいられなかった。動揺する身体へ手を伸ばし、宥めるように背中をさすってやる。
「俺は、あのまんまのジローが好きなのに」
 わかっていたことのはずなのに、実際言葉にされるとこたえ、跡部は軽くめまいを覚えた。
「よりによって、本人が否定するんだ。あのまんまのジローが好きな俺の気持ちは、どうすればいい? なあ跡部、お前ならわかるだろう? お前頭いいし、俺らより大人びてるし、お前ならわかるだろ?」
 普段から己の優秀さを誇示していたりしたから、こんな目に遭うのだろうか。
 答えを教えて欲しいのは、こちらのほうだというのに。──宍戸を想う自分の気持ちは、どうすればいい?
 頼むから教えてくれとすがりついてくる宍戸を振り払うことも出来ず、濡れた身体からだんだんと染み込んでくる雨に、心まで冷えていきそうな気がした。


 【完】


2005 11/16 あとがき