35:涙(忍足と鳳と宍戸)


 はじめは、ただの好奇心。
 非常にわかりやすい性格をした後輩が、非常にわかりやすく落ち込んでいたので、声をかけた。
 ただ、それだけ。
 そしたらなんか、懐かれた。


「それで、俺と話してたはずなのに、なんかしんないけど、急にジロー先輩が割り込んできて、宍戸さん行っちゃったんです〜!」
 俺をおいて〜、と、涙ながらに語る鳳の額を、些か辟易しながら箸でこづいた。
「いでっ」
「泣くか喋るか食べるか、どれか一つにせえ」
 にらみ付ける忍足に、鳳は涙を浮かべたまま答える。
「……無理ですっ!」
 鳳の口から、頬張っていた飯粒が幾つか飛んで、忍足はテーブルに乗っていたティッシュを投げつけた。
「少しは考えてから喋れ? な?」
「そんなこと言ったって、涙は出るし愚痴りたいしお腹は空くんです!」
 鳳が、まだ半分ほど残っている丼を抱えて言う。
「そりゃまあ、そうやろうけど……」
 何を言っても無駄らしいと、忍足はため息をついた。とりあえず、早いところ食べ終えて場所を変えよう。ただでさえテニス部の正レギュラーというだけで人目を集めてしまうというのに、中でも見た目のよい男が二人そろっている上、昼休みの食堂は人でいっぱいだ。泣きながらがっついている鳳に、視線が集中してしまうのも当然だろう。恥ずかしい。逃げ出したい。
 どうして、こんなことになってしまったのだろう。
 そもそも、はじめに声をかけたのが自分自身であることを思い出し、忍足は顔をしかめた。


 入部してきた当時から、鳳は頭一つ分他の一年より大きかった。むかつく奴だと忍足の相方である向日が口をとがらせていたので、なんとなく顔を覚えた。
 馬鹿正直で嘘をつけない性格であることは、見ればわかった。その目が、誰を追っているのかにも。
 部活中でも堂々と熱い視線を送っているというのに、全く相手には気づかれず、しょっちゅう落ち込んでいた。声をかけられれば途端に顔を明るくし、他の奴といるところを目撃しては悔しそうに唇を噛む。愉快だと、思った。
 退屈で怠惰な日常に吹き込んできた、新しい風。そこまで言ったら大袈裟だが、退屈しのぎぐらいにはなるだろうと思ったことは確かだ。
 たまたま部室で二人きりになる機会があって、着替えながら口にした言葉には、予想以上の反応が返ってきた。


「……なっ、なななんで、知ってるんですか……っ」
 人間というのは、ここまで白くなれるものなのかと感心するぐらい顔を青ざめさせ、鳳はぎこちない動作で顔を上げた。
「なしてって、そんなん見てたらわかるやん」
 内心おもしろいと思っていることは悟られないよう真面目な顔を作って答えると、鳳はええっと叫んで、ぶるぶると震えだす。
「ま、まさか、まさかししししし宍、」
「宍戸は気づいとらんみたいやけどなあ」
 先回りして答えてやると、鳳は安心したように緊張をとき、それから頭を抱えてしゃがみ込んだ。
「まさか、ばれるだなんて……!」
「……ほんとに、ばれとらんつもりやったん?」
 激しく苦悩しているらしい鳳に、なんだかかわいそうになって声をかけると、はいと縋るように顔を上げられた。
「だ、誰にも……」
「ゆわんから、触らんといて」
 履きかけのズボンにしがみつかれ、忍足は困り果てる。
「俺、どうしたらいいか……っ」
「なんでそこで泣くねん!」
 感極まったのか、鳳は忍足の足にしがみついたまま泣き出してしまった。


 あのとき甘やかしたのがまずかった、と忍足は湯飲みを持った手を振った。
 あれから一年、状況は変わらず。鳳はいまだに宍戸に片想いしているし、ことあるごとに忍足に泣きついてくる。
「忍足先輩?」
「忍足」
 きょとんとした鳳の声に重なって、向こうからやってきた宍戸の呼ぶ声がした。びくりと、鳳が身体をこわばらせる。
「こんなとこにいたのかよ? あれ、おーとりじゃん」
「こ、こんにちはっ!!」
 テーブルの横に回ってきた宍戸へ、わざわざ立ち上がって鳳が挨拶をした。
「よお」
 鳳を一瞥し、宍戸は忍足の前に手をついて顔をのぞき込んでくる。鳳が、その向こうでせつなげな顔をした。いやいや、これは俺が悪いんとちゃうで。
「なんやの、こないなとこまで捜しにくるぐらい、俺が恋しかったんか?」
「あほか! あ、でもそうかも〜」
 即座に突っ込みを入れた宍戸が、急に愛らしい口調になる。鳳が、目を見開いた。いやいや、これは何かおねだりする時の顔や。騙されたらあかん。あかんで鳳。
「すーがく見して」
 にっこりと愛らしく微笑んだ宍戸に、忍足もにっこりと微笑んで言ってやる。
「なに奢ってくれんの?」
「たかんな!」
 途端に、宍戸が目をむいた。うん、もう、宍戸のそーゆーとこ、大好き。後ろで鳳も大好きって顔しとるわ。
 しばし目を泳がせた後、仕方ないという口調で宍戸が言う。
「夕飯、作ってやる」
「毎度」
「早く行こうぜ」
「ああ」
 食べ終わったトレーを片づけようと立ち上がると、まだ食べ終わっていない鳳と目があった。
「鳳も、来るか?」
「えっ」
 驚いた顔で、鳳が宍戸に目を向ける。いやいや、誘ったん俺やし。
「んな金はねえ!」
 きっぱりと宣言すると、宍戸は背を向けて行ってしまった。途中で振り返り、忍足を手招きする。トレーを片づけると、忍足は後を追った。


「ほんま、男らしいっちゅーかなんちゅーか」
「んだよ?」
 二、三歩前を歩いていた宍戸が、笑う忍足に振り向く。肩をすくめて答えると、忍足は宍戸に並んだ。
「お前」
「ん?」
 言いづらそうに、宍戸が口を開いた。
「あいつと、仲いいよな」
「は?」
 忍足が面食らうと、宍戸はもういいと行ってしまう。後ろ姿でも、耳まで赤くなっているのがわかった。
「ノート見せえゆうたの、自分やん……」
 呟いて、小さくなっていく宍戸の背を見つめる。口実、だったのだろうか。
 わざわざ捜しに来たのは、長身の後輩?
 それとも、……。


「俺、修羅場とか、めっちゃ苦手なんやけど」
 宍戸のことは、まあ、ええ奴やと思うけど、好きとかそんなんとちゃうわ。
 宍戸との仲を勘ぐる後輩に、そう言ったのはいつのことだっただろう。
 廊下に立ちつくして、忍足はぼんやりとそんなことを考えた。


 その後、テニス部のほうでなんだかいろいろとあって。一度はレギュラー落ちした宍戸が復活した頃には、その隣で穏やかに笑う後輩の姿があった。
 それでも、やっぱりことあるごとに泣きついてくるところは変わらないのだが。愚痴る鳳を慰めることにうんざりしながらも、忍足はその役目を投げだそうとはしなかった。理由など、自分でもわからない。ただ、その行為が宍戸に繋がっていることだけは確かだった。


 ある日、夢を見た。夢の中で、何故か自分は鳳になっていて、それをおかしいとも思っていなかった。夢の中でも、やはり鳳の隣には宍戸がいて、長太郎、と名を呼んで笑っていた。
 目が覚めた瞬間、気づいた。ああ、自分は、宍戸に名を呼ばれたかったのだと。長太郎、と、大切な宝物のように、紡がれる言葉。あんな風に、呼ばれたかったのだ、きっと。
 忍足、と。愛おしそうに、微笑まれて。
 わかって、だからといって、何が変わるわけでもないのだけれど。


 朝が来て、服を着替えて、学校へ行って、同じクラスの宍戸と挨拶を交わして。それから、また愚痴りにくるであろう後輩を慰めて。
 何一つ、変わらない日常。


 変化のない明日を望んだのは、自分。
 舞台に上がることを拒んだのは、自分。
 だから、これは決して哀しむべきことではないはずなのだ。


 無意識に頬を伝うしずくを拭って、忍足はふたたび眠りについた。


【完】


2005 03/22 あとがき