もしも、あのとき(鳳と宍戸と跡部)


 生徒時代を思い出すとき、浮かぶ映像は決まって夏だった。うだるような暑さの中、倒れるまで練習を重ねた日々。当時はなにもわからないまま、ただひたすら前へと進んでいた気がする。
 周囲には気の合う仲間がいて、時には喧嘩をし、時には笑い合いながらともに歩んでいた。
 いつまでもそんな時間が続くのだと、なんの疑いもなく信じていたあの頃。
 思い返すと懐かしさとともに苦い気分になるのは、もう二度と取り戻すことはできないとわかっているからだろうか。


 オルゴールの曲が流れる店内で、宍戸はぼんやりと雑誌を眺めていた。時折ガラス窓から外へ目を向けては、待ち人が来ていないことを確認する。
 この場所と時間を指定してきたのは、既に三十分ほど遅刻している相手のほうだった。さほど厚くはない雑誌を読み終えると、宍戸はふたたび窓の外へ目をやる。
 こんなことなら、自分が借りているアパートか相手の家で待ち合わせるんだった。いまさら後悔しても遅かったが、一人で時間を潰すにも限界というものがある。
 せめて店に入る前に遅れると一報をくれたなら。相手が遅れると連絡してきたのは、宍戸が席についてコーヒーを飲み始めた後だった。
 一人で先に食事を済ませるわけにもいかず、宍戸は途方に暮れる。場所を変えるとメールをしてみようか。だが、勝手なことをするなと怒られることは目に見えていた。相手は、自分の思い通りにならないことを嫌う。
 おもしろくてわざと反発することもあったが、久々に会うというのにわざわざ機嫌を損ねることもない。怒らせた後の対処法は心得ているとはいえ、なかなか恥ずかしいことなのであまり実践はしたくなかった。
 週刊誌でも読むか。店内に備え付けられているマガジンラックを見ると、今週発売の雑誌がいくつか並んでいる。
 一瞬腰を浮かしたところで、興奮した調子で名前を呼ばれた。
「……宍戸さんっ!」
 その声と、どこか上擦った呼び方には覚えがある。振り返ると、大柄な男が頬を赤くして立っていた。
 偶然の再会に驚きながら、暇を持てあましていた宍戸はこれ幸いと向かいの椅子を勧める。少し緊張した様子で、男は腰を下ろした。
「久しぶりだな、長太郎」
 にやりと笑ってみせると、ほっとした顔で長太郎が頷く。
「ほんとに、久しぶりですね」
 大人びた顔で笑う長太郎は、知らない人間のように思えた。


 鳳長太郎は、中高時代の後輩だ。ダブルスのパートナーを組んでいたこともあり、共有した時間の長さは同級生よりも上かも知れない。
 あの頃、何をするにも長太郎が一緒だったような気がする。
 隣にいることが自然で、ともに笑い合うことが当たり前で。こんな風に離れることがあるだなんて、想像もしていなかった。


「大学は別になっちゃいましたもんね」
「ああ」
 宍戸はそのまま氷帝の大学部へ進学したが、長太郎は外部を受験したのだ。
「てっきりお前もくると思ってたんだけどな」
 あの頃はなんとなく言えなかったことをあっさり口にする自分に、少しは進歩したのだと内心苦笑する。
 大学に入って本格的にテニスを続けることはできなかったが、サークルでそれなりに活動はしていた。長太郎が入学してきたら、またダブルスを組むつもりでいたのだ。
「え、あ、そーなんですか……?」
 戸惑った顔で、長太郎が運ばれてきたアイスティーに口を付ける。暑い中歩いてきたのか、ごくごくと美味そうに喉が動いた。
「そっか。……そーだったんだ」
 何かを確認するように、長太郎は小さく頷きながら繰り返す。黙って見つめると、照れくさそうに目を伏せられた。
「俺、宍戸さんが待っててくれたなんて思いもしませんでした」
「なんだそりゃ。そこまで薄情じゃねえぞ」
「いえ、そーじゃなくって」
 そういうことではないと、長太郎は首を振る。意味がわからないと首を傾げる宍戸に、やがて長太郎は言いづらそうに口を開いた。
「なんか、あの頃って、俺ずっと宍戸さんだけを追いかけてたじゃないですか」
「……ああ」
 なんとなく思い当たって、宍戸は相づちを打つ。
 宍戸より上手い奴も優しい人間もたくさんいたというのに、何を気に入ったのか長太郎は宍戸の後ばかりついてまわっていた。それこそ、「宍戸の犬」などと噂されるぐらいに。
「あの頃、俺の頭には宍戸さんとテニスしかなくて、でも宍戸さんは違うと思ってたから」
「なんだよ。もっとわかりやすく言え」
 長太郎は、核心を避けて話している。不愉快になって、宍戸は鼻を鳴らした。慌てたように長太郎が頭を下げる。
「ち、違うんです。俺、俺、実は……」
 俯いた顔を上げ、長太郎は真っ直ぐに宍戸を見つめてきた。真剣な瞳に、宍戸は思わず背筋を伸ばす。
「俺、宍戸さんが好きだったんです」
 数秒遅れて、宍戸は聞き返した。
「は?」
「あの頃、俺ほんとに宍戸さんが好きで。でも、俺男だし、気持ち悪いでしょう? 宍戸さんには、跡部部長がいたし……」
 だから言えなくて、と長太郎は苦笑いを浮かべる。
 唐突に意味を理解した宍戸は、大きく目を見開いた。


 宍戸さん、と呼ぶ声がいつも上擦っていたことを思い出す。
 何かを含んだ目で、いつも見つめられていた気がする。


「俺……は」
 掠れた声が出て、宍戸は咳払いをする。長太郎が、気にしないでくださいと手を振った。
「もう、昔のことですから」
「昔のこと……」
「すみません、でもなんか、ちょっとすっきりしたかも」
 ずっと言いたくて言えなかったからと笑う長太郎は、胸の支えがとれたような顔をしている。
 ストローでアイスティーをかき混ぜながら、思い出を語るように長太郎が言った。
「もしも、あのとき俺が告白してたら、何か変わっていたでしょうか」
 はっとして顔を上げると、長太郎もつられるようにこちらを見る。その表情に、宍戸は力無く首を振った。
「変わんねえよ。なんも、変わんねえ」
「そうですよね」
 頷いて、長太郎は一気にアイスティーを飲み干す。窓の外へ見知った顔を見つけたのだろう、それじゃあと伝票を手に立ち上がった。
「いいって」
「俺に払わせてください」
 すっきりさせてもらったからと、悪戯が成功した子どものように笑う。その顔はあの頃と変わらないと、ぼんやり思った。
「いいよ。金持ちに払わせっから。お前に奢られたなんて知られたら、俺が怒られる」
「待ち合わせっすか」
 宍戸の待つ相手が誰なのかわかったのだろう、長太郎は納得した顔になる。少し間があって、それじゃあと長太郎は伝票をテーブルへ戻した。
「跡部部長に、よろしくお伝えください」
「お前、殺されっぞ」
「うわ、それはやだなあ」
 笑いながら、長太郎は去っていく。店外へ出た長太郎が、小走りにベンチへ腰掛けている女性の元へ向かっていくのが窓から見えた。


「なんだ」
 テーブルに目を落とし、宍戸は呟いた。
「俺達、両思いだったんじゃん」


 ──宍戸さん、と上擦った声で呼ばれるのが好きだった。
 ──なにかを含んだ視線に、もしかしてと期待した。
 あの頃、宍戸ががむしゃらに頑張ることができたのは、後を追いかけてくる存在があったからだ。
 何をするにも一緒で、隣にいられることが嬉しかった。いつまでも一緒にいられるのだと、そう信じていた。
 あのとき、告白されたとしても何も変わらなかったというのは、嘘だ。
 もしも、あのとき長太郎に告白されていたとしたら。自分たちの関係も、未来も、なにもかもがいまとは全く異なっていたはずだった。
 けれど、そう問いかけてきた長太郎の顔は、否定されることを望んでいた。何も変わらなかったと言ってほしいと、その目が語っていた。


「待たせたな」
 言葉とともに、目の前に待ち合わせていた相手が座り込んだ。どのぐらいぼんやりしていたのか、長太郎のいた形跡は跡形もなく片づけられていた。
「おせーよ、ばか」
「それが久々に会った恋人に言う台詞かよ」
 臆面もなく恋人などと口にする跡部に、相変わらずだと宍戸は苦笑する。思えば、昔からこいつはこうだった。
「お前は、変わんねえな」
「何の話だ」
 不機嫌そうに、青い目が揺れる。
「別に。ちょっと、昔のことを思い出してただけだ」
「俺様の華麗な過去に思いをはせてたのか?」
「お前のその自信はどっからくんだよ……」
 それこそ幼稚園の頃から一緒にいた存在。長太郎が宍戸の後を追いかけてきたように、宍戸もまた跡部の背を追いかけてきた。


 なるべくしてなった関係なのかも知れないと、素直に思える。
「昔のこと、だかんな」
 窓の外の景色へ、さきほど目にした後輩と女性の姿を思い浮かべた。
「俺さあ、跡部」
「なんだ」
 視線を正面へ戻すと、宍戸は笑みを浮かべる。
「お前のこと、好きだぜ」
「……当たり前だろう」
 無表情になるのは、照れたときの跡部のくせだ。
 重苦しかった気持ちが、蒸発していくのがわかった。


【完】


2005 07/31 あとがき