前哨戦(跡部と宍戸と忍足)
 
 
 跡部がそのメールに気づいたのは、昼休みを半分ほど経過してからだった。生徒会室で、半年後の卒業式に関する会議をしていたため、携帯の電源を切っていたのだ。
 卒業式――跡部自身の卒業式でもあったが、まだ生徒会の引き継ぎが終わっていないため、細かいことは跡部が指示する形となっている。
 送信者の名前に、跡部は一瞬顔をしかめた。
「会長、どうかしましたか?」
「いや。後は任せる。何かあったら連絡しろ」
「はい」
 立ち上がると、跡部は生徒会室を後にする。

 廊下を歩きながら、再度携帯を確認した。
 屋上にいる。
 たったそれだけの、短いメール。件名もない。
 屋上に来いと書かれている訳ではない。だが、跡部の足は屋上へ向かっていた。
 他の者から着たメールなら、そのまま削除していただろう。
 しかし、いつもなら心が弾むであろうメールも、今は気が重いだけだった。

 屋上へ上がり、メールの送信者を捜す。まだ残暑が厳しいせいだろうか、扉から見える範囲に人影はない。
 小さくため息をつき、跡部は屋上へ踏み出した。途端に、眩しい陽光が目に突き刺さる。
 あいつは、どこにいるのだろう。こんなところで、何をしているのか。
 ――もしかして、気づいているのだろうか。
 跡部は、何も言っていない。言えずにいることに、気づかれているのだろうか。
 じわりと、額に汗がにじむ。
「……宍戸?」
 小さく呟いて、跡部は給水塔の裏に回った。そこはまだ日陰になっている。
「てめえ、何してやがる」
 声を低め、うなり声で威嚇した。
「そないな怖い顔せんといて」
 忍足が、困ったように笑う。相変わらず、胡散臭い笑顔だ。
 三年間同じ部で過ごしたというのに、その笑みに慣れることはなかった。
「死にたくなければ、今すぐそこをどけ」
「はいはい」
 壁に背を預けた忍足の隣で、宍戸は眠っている。忍足の肩に頭を乗せ、何の悩みもなさそうな顔で。
 忍足の手に握られたものに、跡部は目つきを鋭くした。
「てめえ、それ、」
「あ、これか。せや、宍戸の携帯」
 忍足が答える前に、跡部は全て理解する。
「てめえか、俺様を呼び出したのは」
 忍足が、微かに笑った。
「何の話や? 俺はただ、屋上におるでーってメールしただけや。来いなんて、一言も書いてへんで」
「勝手に人の携帯を使うんじゃねえ。てめえの親はどんな躾をしてんだ? アーン」
「親のことは言わんといてーな」
 肩をすくめ、忍足は倒れそうになる宍戸の身体を支えながら立ち上がる。
「はい、ここ座って。宍戸が起きてまうで」
「あ? 何で俺が……」
「ええから」
 忍足に促され、跡部は仕方なくそれまで忍足が腰掛けていた場所に座った。
「服が汚れるじゃねえか」
「文句なら、宍戸にゆうてや。俺トイレ行きたくてしゃあないねん」
「とっとと行け。漏らしたりしたらテニス部の恥だ」
「はいはい」
 申し訳ありません、と大げさに頭を下げ、忍足は歩き出す。振り向かずに、ぽつりと呟かれた。
「ええ機会やろ。全部ゆうてまえ」
「……てめえにゃ、関係ねえ」
 少し考えて、そう返す。
「ま、そうやけどな。今のままなんは、見てるほうもきっついねんで」
「ほう。てめえに、そんな繊細な心があったとはな」
「俺やない。まあ、俺もやけど、一番は――わかっとるやろ?」
 忍足の仕草に、もう一人の幼なじみの姿が自然と浮かんだ。
 何も言ってはいない。条件は同じだ。
 けれど、気づいているのだろう。何も考えていないようで、人一倍敏感な奴だ。
「そうか」
 微かな呟きが聞こえたのか、忍足は手を振って去っていった。



 じりじりと、焼け付くように暑い。喉の渇きを覚え、宍戸は目を覚ました。
「ん……、あれ、俺寝てた?」
 目の前に広がる青空に、屋上へ来ていたことを思い出す。昼食を終え、――その後の記憶がなかった。
 隣で身じろぐ気配がして、もたれて寝ていたことに気づく。
「お、悪い忍足。重かっただろ……?」
「誰が忍足だ。あんな眼鏡と一緒にするんじゃねえ」
「え?」
 隣に座っていたのは、関西弁のクラスメイトではなく、青い目をした幼なじみだった。
「あ、跡部……!? 何でここに!? 忍足は……!?」
「漏らしそうだからトイレだとよ。てめえが寝てたせいで、俺様がかわりに呼ばれたんだ」
「え!? あ、そーかよ。そりゃどーも……」
 まだ混乱していたらしい、自分でも驚くほど素直にお礼の言葉を述べる。
 跡部は、なんだか機嫌が悪そうだ。
 確か今日も生徒会の仕事があると聞いていた。忙しい中そんな用事で呼び出されたから怒っているのだろうか。
「頼んだのは俺じゃねえぞ」
 ぶつぶつと口の中で呟いていると、跡部がため息をついた。
「何だよ」
 馬鹿にされるのかと身構えながら顔を向ける。だが跡部は意外なほど真面目な表情をしていた。
「……跡部?」
 跡部の目は、きれいだ。日本人離れした色をしているだけではなく、純粋に。
 跡部そのもののようだと思う。誰よりも己に厳しく、誰よりも気高い男。
 宍戸は、跡部の目が好きだった。
 その目に映る自分までもが、きれいな生き物のように思えてくる。
「跡部……」
 無意識に、繰り返し名を呼んでいた。不安だったのかも、知れない。
 何故だか、このまま跡部がいなくなってしまうような気がして、無性に不安だった。
 その不安が正しかったことは、次の跡部の言葉でわかった。
「宍戸。俺は、留学することにした」
 
 言われたことの意味が、わからなかった。跡部はそれ以上言わず、黙って宍戸の顔を見つめている。
 まるで、記憶に焼き付けようとしているかのように。
 ――もう、二度と会うことができないかのように。
「なに、言って……」
 呆然と、跡部の顔を見ることしかできない。跡部が、微かに眉をひそめた。
「ずっと前から考えていたことだ」
「ずっと前から?」
 それでは、自分たちと部活をやっていた時も、関東大会でも、全国大会でも、そのことを考えて戦っていたというのか。
「ああ。もちろん、具体的に考え出したのは全国が終わってからだが」
 宍戸の考えを見透かしたように、跡部が続ける。
「お前も、テニスをやる人間ならわかるだろう? 留学の持つ意味が」
「そりゃあ……、」
 わからないと言えば、嘘になった。宍戸にだって、留学を望む気持ちはある。
 跡部ほどの実力を持つ者が、いつまでも日本で燻っているほうがおかしい。頭ではわかっている。
 頑張れ、と送り出してやるのが正しいのだと。わかっていても、気持ちがついていかなかった。
「高等部には、進まないのかよ?」
 声が震えそうになるのをこらえ、必死に言葉を紡ぐ。このまま分かれる訳にはいかなかった。
「一応進む。向こうは学校の始まる時期が違うからな。その後は、向こうの姉妹校に留学する形になる」
 事務的に淡々と話す声音が、かえってつらい。ぎゅっと、膝の上で拳を握る。
 このまま、殴り倒してやりたかった。俺たちを見捨てるのかと。
 俺たちを、――俺を、置いていくのかと。
 ずっと、一緒なのだと思っていた。幼い頃から一緒で、同じものを見て、同じものを目指し、同じ場所を歩んできたのだと思っていた。
 これからも、そうなのだと。いつか道が分かれてしまうとしても、それはこんなに早くではなかったはずだ。

 裏切り者。

 そんな言葉が頭に浮かび、宍戸は首を振る。違う。そんなことを言いたい訳ではない。
 跡部ほどの者が、たかが部活程度で満足していると思う方がおかしい。
 跡部の人生だ。跡部の好きにすればいい。
 跡部が望むとおりに――。
 違う。違う。違う。
 ただ自分は、自分は。

「宍戸?」
 跡部の目が、大丈夫かと問いかけてくる。宍戸は、立ち上がった。
「俺、もう行かなくちゃ」
「宍戸」
 咎めるように、名を呼ばれる。首を振って、次体育だから、とその場を後にした。

 ともすれば崩れ落ちそうになる身体を支えながら、階段を下りていく。
 自分の目標がなくなるとか、もう同じものを目指して戦えなくなってしまうとか、そんなことはどうでもよかった。
 ただ自分は、跡部の望む未来に、自分の姿がなかったこと。
 それがショックだったのだと、既に気づいていた。


 【完】


2006 05/07 あとがき