迷える子羊に(海堂+岳人)
 
 
 ロードワークの途中、予定していた距離にはほど遠かったが、海堂薫はそこで足を止めた。
 何やら、おかしな声をきいたような気がしたのだ。
 走っていたせいで荒くなっていた呼吸を整えながら、耳を澄ます。
 おかしな悲鳴は、脇の壁から段々近づいてくるようだ。
 一体何事かと海堂が振り返った瞬間、頭上の木が大きく揺れた。
「うわっ! どけ!!」
「あ?」
 見上げた海堂が目にしたものは、今まさに木から飛び降りようとする、小柄な少年。
 咄嗟にどうすることも出来ず、哀れ海堂はそのまま下敷きとなった。
「っつ……」
 したたかに腰を打ち付け、海堂はうめき声を漏らす。
 それから、身体の上に乗ったままの少年を、大丈夫かと見遣った。
「お前なあ、こんなとこで呑気に突っ立ってんじゃねーよ! お前さえいなけりゃ、俺はちゃんと着地できたんだ! くそくそ、こんなんじゃ追いつかれちまうじゃねえか!!」
「は……?」
 開口一番に思いきり罵倒され、海堂は腹を立てる前に面食らった。
 呆然と瞬きをくり返していると、少年が悲鳴を上げて抱きついてくる。
「ど、どうした?」
「どうしたもこうしたもねえ! あいつが来た!」
「あいつ?」
「あいつだよ、あいつ」
 どうやら、何者かに追われているらしい。
 ここは自分が追い払ってやるべきだろうかと、海堂は少年を抱いたまま立ち上がる。
 と、そこへ、脇の小道から、愛らしい子犬が飛び出してきた。
「ぎゃあああああああああああああ!!」
「え?」
 突然叫びだした少年に、海堂は目を疑う。
 それから、少年の足下へすり寄ってきた子犬へ視線を落とした。
「もしかして、……あいつって、これか?」
「くそくそ、こんなとこでちんたらしてたから、追いつかれちまったじゃねえか!!」
 少年は、海堂の腕の中で、子犬から逃げようともがいた。
 
 
 
 
「大丈夫っすか?」
「んな訳ねーだろ! オーバーランだ! もともと俺はこんな走る体力ねえっつーの!」
「はあ……」
 それは、もっと鍛えた方がいいんじゃないだろうか、と思いつつも海堂は軽く頷いてみせる。
 あの後、少年の正体が氷帝の向日岳人であることに気づいた海堂は、わめく向日をなんとかなだめ、近くの公園へ連れて来ていた。
 走ったせいなのか叫んだせいなのか、その頃には息も絶え絶えになっていたので、自販機で買ったスポーツドリンクを渡してやる。
 それを一気に飲み干すと、向日は忌々しげに草むらを睨み付けた。
 
 
 そこでは、先程の子犬が無邪気に走り回っている。
 犬嫌いな人にとっては、あのような子犬ですら嫌悪の対象なのだろうか。
 好きなのに、動物から嫌われている海堂にとっては、羨ましくて仕方がないというのに。
「お前、なんつったっけ?」
「は?」
 一瞬何を聞かれたのかわからず、海堂は怪訝な顔で返した。
 それから、名前のことだと見当がついたので、海堂です、と答える。
 どれだけ小さかろうと子供のように我が儘だろうと、相手は海堂よりも年上だ。
 体育会系に身を置く海堂にとっては、敬うべき存在だった。
 
 
 海堂の名前を聞いた向日は、相変わらず不機嫌そうな表情で、足下へきた子犬を振り払っている。
 その内蹴り飛ばすのではないかと、海堂は内心はらはらしながら見守った。
「お前んち、何屋?」
「は? ……いや、別に店はやってませんけど」
「あ、そー。一軒家?」
「はあ」
 質問の意図がわからず、海堂は首をひねる。
「じゃ、お前んちで、飼え」
「はあ。……えっ!?」
 反射的に返答をしてから、海堂はことのなりゆきに慌てふためいた。
 慌てる海堂にはお構いなしで、向日はいいことを思いついたという風に手を叩いている。
「そうだ、お前んちで飼えばいいんだ! 決定な」
「な、なんでっすか!」
「だって、俺んちじゃ飼えねえし。だから、お前んち」
「だから、何でそうなるんすか!」
 向日はにかっと笑うと、足下の子犬を抱き上げた。
「よかったなあ、ポチ。お前、海堂んちで飼ってくれるってよ」
 犬嫌いの筈なのに、抱き上げたばかりか口づけまでしている向日に、海堂は目を疑った。
 これは一体、どういうことだ。
「あの、……あんた、犬嫌いなんじゃなかったんすか?」
「はあ!? 誰がんなこと言ったよ」
「いや、だって、逃げてたじゃないっすか」
 あんな悲鳴まであげて、逃げまどっていたくせに。
 海堂がそう目で訴えると、向日は顔を顰める。
「違うって! こいつは、最近学校の周りちょろちょろしてて、でもうちじゃ飼ってやれないから、毎日逃げ回ってたんだよ。今日だって、もうすぐ振り切れそうだったってのに、お前が邪魔するから」
「……嫌いなんじゃ、なかったんすか……」
「犬は好きだ! でも、ちょっとでも可愛がったら、こいつに期待させちまうだろう? 俺は、無責任なのは嫌いなんだ」
「そうだったんすか」
 そうか、別に嫌いで逃げ回っていた訳ではなかったのか。
 確かに、飼えもしないのに可愛がったり、一時的に餌を与えたりするのは、かえって良くないだろう。
 海堂は、向日に対する認識を改めた。
「そいつ、ポチっていうんすか?」
「俺が今決めた」
「……はあ」
 隣に座ったまま、海堂はどうしたものかと頭を抱えた。
 向日はすっかりその気でいるようだが、海堂の母親は動物アレルギーのため、家で飼うことは出来ない。
 庭で飼うことにすれば大丈夫だろうか。
 海堂に飼う義理は全くなかったが、それを口にしたら、向日の顔を再び曇らせることになる。
 ポチに顔中なめ回されながら嬉しそうに笑っている向日を見ながら、海堂は両親に頼んでみようと決意した。
「お。がっくん、こんなとこにおったん?」
「侑士!」
 背後からかけられた声に、向日が振り向く。
 つられて海堂も目を向けると、そこには、向日のダブルスパートナーである忍足侑士が立っていた。
 向日は、得意げにポチを高らかに抱え上げる。
 それから、向日の中ではすっかり決定したらしいことを告げた。
「見て見て! ちょーかわいくねえ? こいつ、海堂んちで飼うんだって!」
「……海堂くんちで?」
 こちらを見遣る忍足に、海堂が曖昧に頷いてみせると、少しだけ憐れんだ目をされる。
 なんだろう。海堂は眉をひそめた。
 忍足は、ポチとじゃれ合う向日の頭に手を乗せると、
「あんなあ、がっくん、それは無理やわ」
「えっ、なんでだよ!」
「やって、その子にはちゃんと飼い主がおんねん」
「えっ!」
 目を見張る向日に、忍足がかいつまんで説明した。
 どうやら、向日は知らなかったようだが、ポチは学校のそばの家で飼われている犬らしい。
「だ、だって、こいつ首輪してねえよ?」
「まだ子犬やから、首輪つけるのが忍びなかったんやろ」
「だって、毎日、俺のこと追っかけてきたもん。……海堂、飼うって言ったもん」
 そう呟くように言うと、向日は、ぎゅう、と子犬を抱きしめて俯く。
 微かに震えるその身体に、どうすることもできず、海堂は胸を痛めた。
「……飼われている犬なら、向日さんが遊んでやっても、支障ないんじゃないっすか?」
「え?」
「せやな。海堂くん、ええことゆうわ。この子がまたおうち抜け出してきたら、がっくんが遊んでやったらええやん? ほんで、おうちまで連れてったげたら、おうちの人も喜ぶ思うわ」
「……そっかな?」
 捨て犬を無闇に可愛がるのはよくないことだが、抜け出した飼い犬の遊び相手になるのは、悪いことではないだろう。
「じゃあ、海堂も遊びに来いよ!」
「えっ?」
「だって、せっかく飼う気になったのに、これっきりだなんて淋しいだろ?」
「あ、はあ……」
 決まり決まり、と満面の笑みを見せる向日に、海堂は頷くしかなかった。
「んじゃ、帰ろうぜ〜!」
 子犬を放すと、向日は駆けだした。その後を、子犬が追いかけていく。
「がっくん、あんま跳びはねたらあかんで〜」
「うっせ! 置いてくぞ!」
 少しだけスピードを緩めた一人と一匹の後を、二人は足早についていった。
「ごめんな、海堂くん。うちの子、あの通り我が儘でな。迷惑かけたやろ?」
「はあ。あ、いえ、別に、そんなことないっす」
「っはは。なんや、海堂くんてもっと怖い子かと思っとったけど、そうでもないんやな」
「……」
 
 
 
 その後、氷帝学園付近では、犬と戯れるおかっぱとバンダナの姿が、度々目撃されることになったとか。
 
 
 
 【完】
 
 
 
 

 いただいたリクエストは、「海堂と岳人で、ネコとか犬とかの動物がらみで、2人がほのぼのしていて、ラブはなしの友情もの」でした。
 
 
 リクエストありがとうございました〜!
 
 
 
 
2004 01/25 あとがき