氷帝狂詩曲(氷帝オール)
 
 
 榊の朝は早い。
 テニス部の朝練がなくとも、たいていは職員室へ一番乗りだ。
 鍵を持って音楽室へ向かい、ピアノの調子を確かめるのが日課となっていた。
 窓を開け、空気を入れ換える。
 準備室へ荷物を置き、ピアノの前に腰掛けた。
 数曲弾いたところで、扉の前に人影があることに気づく。
 音楽室は防音になっているため、ノックの音が届かなかったのだろう。
 誰が来たのかと、榊は立ち上がった。
「監督。お早うございます」
 隙のない笑みを浮かべたのは、テニス部員の正レギュラーをつとめる忍足侑士だった。
「お早う。部活中以外は先生と呼ぶように」
「ああ、すんません」
 軽く笑って、忍足は何かを差し出してくる。
「これは?」
 透明の袋に入ったそれは、錠剤のように見えた。
「先生、たまに頭痛がひどいゆうてはったでしょう? 親に頼んで、よく効くやつを取り寄せてもろたんです」
 忍足の父親は、確か大学病院に勤務していたはずだ。
「お代はいりません。いつもお世話になっとるお礼やゆうてましたわ」
「そうか。ではありがたく受け取っておこう」
 礼を言って、榊は薬を受け取る。
 忍足は、そのまま去っていった。
 せっかくの厚意だったが、今日は体調がよい。
 これのお世話になるのは、とうぶん先のことのようだ。
 榊は、胸ポケットに薬をしまった。




 準備室で授業の支度をしていると、何やら廊下のほうから叫び声が聞こえてきた
 内容はわからないが、叫んでいる声には聞き覚えがある。
 どうやら、テニス部の人間らしい。
 どうして今年のテニス部員は、そろいも揃って問題児ばかりなのだろう。
 放っておくわけにもいかず、榊は廊下を覗いた。
「お前たち、何を騒いでいる」
「あ! 榊監督!」
 騒いでいたのは、二年生の鳳に、――日吉と樺地だった。
 鳳はともかく、日吉や樺地は比較的静かな部類に入る人間だ。
 騒ぎに加わるとは、珍しいこともあるものだ。
「部活中以外は先生と呼ぶように」
 榊は忍足にした注意を繰り返したが、鳳の耳には入らなかったようだ。
「監督、ひどいです!」
「鳳、落ち着け!」
 日吉が、叫ぶ鳳をなだめている。
 どうやら、日吉と樺地は鳳を止めに来たらしい。
「ひどい、とは?」
 榊には全く心当たりがなかった。
 テニス部の練習のことだろうか。
「大人なのに……!」
「鳳?」
 何を言っているのかわからない。
 鳳は、興奮のあまり涙目になっていた。
「日吉、一体これは?」
 鳳では埒があかないと、日吉に向かって訊ねる。
 だが、日吉が口を開く前に鳳が遮った。
「頼むから、一発殴らせてください!」
「鳳!」
 一瞬、榊の思考が停止する。
 殴る? 今、殴らせろと言ったか?
 鳳は、多少ムラのあるところはあったが、基本的には穏和な性格をしていて、人に暴力をふるったりするタイプではない。
 一体、鳳の身に何があったのだろう。
 鳳に殴られたら、さぞかし痛いだろうなと長身を見上げる。
 もしかして、罰ゲームか何かだろうか。
 生徒の間では、厳しいと評判の教師から何か盗ってくるとか、夜の校舎に忍び込むといったような、一種の肝試し的なゲームが流行っているらしい。
 これも、その一環だろうか。
「いい加減にしろ!」
 榊が怒鳴るよりも、日吉が切れる方が早かった。
「ひ、日吉……」
 鳳が、日吉の迫力に息をのむ。
 日吉は古武術を嗜んでいるため、その気になれば鳳ぐらい簡単に倒せるだろう。
「ここをどこだと思っているんだ、学校だぞ!?」
「そ、そうだけど」
「さっさと戻るぞ。そろそろ授業も始まる」
 怯んだ鳳を樺地に任せ、日吉はくるりと振り向いた。
「お騒がせしました」
 ぺこりと、榊に向かって頭を下げる。
「いや。……何があった?」
 顔を上げた日吉が、微かに笑った。――というよりは、歪めたといったほうが正しいだろうか。
「それは、あなたが一番ご存じのはずでは?」
「は?」
 面食らった榊の手に何かを押しつけ、日吉は前を歩く鳳たちとともに去っていった。
 日吉は、何を言っているのだろう。
 榊の気づかないところで、何か問題があったのか。
 日吉に渡された物に目を落とし、榊はさらに頭を悩ませることになる。
 日吉から受け取った手紙の表には、達筆な筆文字で「果たし状」と書かれていたのだ。




 なんだか今日は、おかしなことばかりだ。
 忍足に貰った薬の出番も、近いかも知れない。
 無意識にため息をついて、昼食をとろうと榊は立ち上がった。
「監督」
「跡部」
 テニス部の部長である跡部景吾が、出口をふさぐ格好で立ちはだかっている。
「部活中以外は、先生と呼ぶように」
 榊は、本日三度目となる注意を口にした。
 跡部は応えずに、右手を振り上げる。
「跡部……!?」
 跡部からは距離があるため、その手が榊に触れることはなかった。
 だが、跡部の手にしていた何かが、榊の胸に当たる。
 たいした衝撃もなく、それは榊の足下に落ちた。
「放課後、テニスコートでお待ちしています」
 氷のような冷たい目で榊を一瞥し、跡部は立ち去る。
「跡部まで……」
 一体、どうしてしまったのだろう?
 跡部は派手な容姿と言動で誤解されがちだが、あんな風に訳もなく逆らうような人間ではないはずだ。
 テニスコートで待つと言っていたが、テニスに関することなのだろうか。
 首を振って、榊は足下に落ちた物を拾い上げた。
「手袋? こんな時期に……」
 今は、夏だ。白い手袋をつまみ上げ、榊は首をかしげる。
 ややあって、気づいた。
 ――白い手袋を相手に投げつけるのは、西洋では決闘の申し込みであることに。




 なんだか、頭が痛い。忍足に貰った薬の存在を思い出し、榊はコップを片手に水道へ向かう。
 錠剤を取り出すと、手のひらに載せる。
 口にしようとしたところで、手が滑って流しに落としてしまった。
 しまった、まだ飲めるだろうか。
 溶けていないといいのだが。流し台に目をやり、榊はぎょっとする。


 ステンレスの流し台が、溶けていたのだ。――それも、薬が落ちた周囲だけ。


「これは……!?」
 この薬は、一体なんなのだ。
 人体に影響がないとはとてもじゃないが考えられない。
 忍足が、薬を間違えたのか?
 調べて貰ったほうがいいかも知れないな。
 榊は、ハンカチを取り出す。だが、果たしてハンカチ一枚で防ぎきれるものだろうか。
 迷っているうちに、どこからか流れてきた水が薬を流してしまった。
 顔を上げると、花瓶を手にした滝が少し離れた場所に立っている。
「監督、こんにちは」
「……」
 注意するのも忘れ、榊は滝の顔に見入った。
 今のは、ただの不注意なのか、それとも――。
「監督? あ、もしかして水がかかってしまいましたか? すみません」
 滝が慌てて頭を下げるのを見て、榊は首を振る。
「いや、大丈夫だ」
 どうやら、滝はまともらしい。榊は胸をなで下ろした。
 滝は、花を生けに来たようだ。榊が見ている前で、持ってきた花を上手に生けだした。
 男子生徒にしては珍しい行為だったが、滝の持つ雰囲気には合っている。
「監督、なんだか元気がないようですね」
 滝は、細かいところによく気がつく生徒だ。
「ああ。ちょっと疲れているようだ」
 肩をすくめた榊に、滝が花を一輪差し出してくる。
「これ、うちの庭で育てていたものです。よかったら」
「ああ、ありがとう。黒い花か? 珍しいな」
「ええ。ぼくの気持ちです、――なんて」
 くすりと笑って、滝は立ち去った。
 相変わらず、掴み所のない奴だ。
 貰った花を持って、榊は準備室へ戻る。花瓶なんてあっただろうか。
「あら、黒百合ですね」
 さすが女性と言うべきか、他の音楽教師が、めざとく気づいて声をかけてきた。
「ああ、これは百合なんですか」
「きれいですね。いただきものですか?」
「ええ、生徒に」
「まあ、人気者ですね。花瓶、どこかにあったかしら」
 女性教師はぱたぱたと室内を見て回ると、ちょうど一輪挿しとして使えそうなグラスを持って戻ってくる。
「これならちょうどよさそう。水を入れて来ますね」
「ありがとうございます」


 黒百合の入ったグラスを、榊は机に置いた。
 たった一輪でも、そこに花があるというだけで室内の雰囲気がやわらかなものに変わったようだ。
 頭痛がすっかりおさまっていることに気づき、我ながら単純なものだと苦笑する。
 ふと窓の外を見ると、そこにはお馴染みの黄色い頭が見えた。
 彼なら、現状について教えてくれるかも知れない。
 他の生徒が榊と距離を置く中、彼だけは何の遠慮もなく懐いてくるのだ。
 彼は、他のテニス部員とも仲がよいし、ああ見えて結構いろんなことに敏感なほうである。
 榊は立ち上がると、中庭へ向かった。


 木の根元で眠り込んでいるのは、やはりテニス部の芥川慈郎だった。
 芥川は、幼い外見通りの性格をしている。
 天真爛漫と言えば聞こえはよいが、いささか子どもっぽいところがあった。
 今も、もうすぐ授業が始まるというのにお構いなしに眠り込んでいる。
 この分では、チャイムが鳴っても目覚めることはないだろう。
「芥川」
 声をかけてみても、起きる気配はない。
「芥川、授業が始まるぞ。起きなさい」
 肩を掴んで揺さぶってみる。
 うぅ〜ん、と芥川が小さくうめいた。
「芥川」
 もう一度呼びかけると、うるさそうに芥川が目を開く。
「起きたか」
 榊は、ほっとして声をかけた。
 大きな目を見開いた芥川が、まるで幽霊でも見たかのような顔になる。
「芥川?」
 様子がおかしい。訝しく思った榊の前で、芥川はしくしくと泣き始めた。
「芥川、どうした。どこか痛いのか?」
 首を振って、だが芥川は泣きやまない。
「太郎ちゃんの、……っく」
「私がどうかしたか」
 芥川は、何度注意しても榊を名前で呼ぶのをやめようとしない。気になったが、今はそれどころではなかった。
「太郎ちゃんの、ろりこん〜!!」
「なっ」
 辺り一面に響く声で叫ぶと、芥川は顔を覆って本格的に泣き始める。
「それはどういう意味だ、芥川!」
 動揺しながら榊が肩を掴むと、芥川は嫌々をするように抵抗した。
「ジロー!!」
 芥川の名を呼びながら駆けてきたのは、同じくテニス部員の向日岳人だ。
 榊から庇うように、ジローの身体を抱え込む。
「大丈夫かジロー、監督に何かされたのか!?」
 恐らく、先ほどの芥川の叫び声を聞いていたのだろう。向日が、榊を見上げて睨んできた。
 この分では、他にも芥川の声を聞いた者がいるはずだ。
 榊は、むしろこちらが泣きたい、と思う。
「誤解だ、向日」
「誤解? だってジロー、こんなに泣いてるじゃねえか!」
「知らない。私はただ、もうすぐ授業だから起こそうとしただけだ。恐らく、おかしな夢でも見ていたのだろう」
 榊の言い分に、向日はちらりと横目で芥川を見た。
 迷っているのだろう。
「……ジローのことは、誤解かもしんねえけど」
 向日の呟きに、榊は反応する。
「他に、何かあるのか」
 それこそが、榊の知りたがっていたことなのかも知れない。
 問いただす前に、向日は顔を上げた。
 榊を見上げる目には、強い意志が浮かんでいる。
「俺、監督のこと信じてたんだ。いろいろ、変な噂あったけど、ちゃんと監督してくれてたし」
「変な噂……?」
 榊には身に覚えがない。
「ちょっとぐらいおかしくても、身近に被害がなけりゃーいいと思ったんだ。でも、まさか……」
「まさか、なんだというんだ」
 俯いて身体を震わせていたと思ったら、向日は芥川の手を引いて走り去ってしまった。
 何が何だかわからないままだったが、自分が何らかの誤解をされているらしいということだけは、わかる。
 皆の態度がことごとくおかしかったのは、そのせいなのだろう。
 他に、話を聞いていない者はいるだろうか。
 少し考えて、榊は一人の顔を思い浮かべた。
「宍戸、か……」




 五時間目の授業を終え、榊は準備室へ戻る。
 中にいた女性教師が、分厚い本を片手にやってきた。
「榊先生、先ほどの黒百合のことなんですけど……」
「ああ、あれがどうかしましたか?」
 まさか、あの花にも何か仕掛けがしてあったのだろうか。
 すっかり疑心暗鬼になって、榊は身構える。
「あのお花、生徒から貰ったとおっしゃいましたよね?」
「ええ……」
「図書室へ行く用事があったので、ついでに調べてみたんですけれど、これを見てください」
 本が差し出され、彼女の持っていた本が花言葉について書かれたものであると気づいた。
「花言葉、ですか」
 いささか拍子抜けしながら、榊は本を受け取る。
 花言葉。存在自体は知っていたが、榊自身は気にしたことがなかった。
 こんなところにまで気を配るとは、さすが女性教師と言うべきだろうか。
 開いてあったページに目を落とすと、黒百合の花言葉が書いてある。
「まさか、とは思ったんですけれど……。思春期の子どもは、先生のような年の離れた人に憧れる時期というものがありますし、」
 どうやら彼女は、「恋」という花言葉に目を奪われているようだ。
 だが、榊が注目した文字は、もう一つの花言葉だった。
「――いえ、この花をくれた生徒は男子ですから。それは考えすぎではないでしょうか」
 動揺を隠し、榊は笑みを浮かべる。
「え、そうなんですか!? やだ、私ったら、早とちりして……」
「いえ。お気遣いありがとうございます」
 顔を赤くした女性教師へ本を返し、榊は自分の席へ戻った。
 黒い百合が、存在を主張している。


 黒百合の、もう一つの花言葉――それは、「呪い」であった。


 ――ぼくの気持ちです、――なんて。
 花を渡された際の、滝の笑顔が脳裏によみがえる。
 榊は、胃に痛みを感じ始めた。




 あれから宍戸を捜し回ったものの、とうとう見つけることはできなかった。
 他の部員の様子からすると、宍戸も榊から逃げているのかもしれない。
 一体、私が何をしたと言うんだ。
 最早本日何度目かわからない問いかけを自分にしながら、榊はテニスコートへ向かう。
 一人で考えるよりも、彼らに直接聞いたほうが早いと思ったのだ。
 決闘とは穏やかではないが、跡部はテニスコートで待つと言っていた。
 日吉から渡された果たし状にも、同様のことが書いてあったのだ。
 重い足取りで、榊は観客席までたどり着いた。
 テニスコートには、既に跡部がスタンバイしている。
 ベンチや向かい側の観客席に、他のレギュラー陣が待機しているのが見えた。
「監督」
 榊に気づいた跡部が、顔を上げる。
 促されるまま降りていくと、榊はネットを挟んで跡部と向かい合った。
「よく逃げずに来ましたね。その度胸、褒めてあげてもいいですよ」
 跡部が、居丈高に顎を引く。
 偉そうな跡部の物言いすら、今の榊にはどうでもよいことだった。
「それよりも、跡部」
「何ですか」
 真っ直ぐにこちらを見据える跡部は、誰よりも気高く、美しい。
 それは、氷帝テニス部の部長に相応しいものだ。
「これは一体、何の真似だ?」
「は?」
 意味がわからないという様子で、跡部が眉間にしわを寄せる。
「私には、お前に決闘を申し込まれる覚えがないのだが?」
「……まだしらを切るつもりですか」
 跡部が、ラケットをまるで剣のように突きつけてきた。
「俺様に何の断りもなく、あいつに手を出しておいて!」
「あいつ? 手を出す?」
 榊は、生徒に手を出した覚えはない。
 まったくの誤解である。
「跡部、落ち着きなさい」
「これが落ち着いていられるか!」
 これほど冷静さを欠いた跡部の姿を、榊は初めて見る。
 余程、その相手を想っているらしい。
「さっさと、ラケットを持ってください」
 話は終わりとばかりに、跡部は背を向けサービス位置へついた。
「早くしてください。次は俺の番なんですからね」
 観客席に立っていた日吉が言うと、その次は俺です、と鳳も叫ぶ。
「はよせんと、俺に回ってくる前に日が暮れてまうで跡部」
「わかってる」
 忍足ののんびりした声に、跡部がとげとげしい口調で応えた。
 どうやら、全員を相手にしないと帰れないようだ。
 考えただけで目眩がするほど疲れたが、これも教師のつとめだと己を奮い立たせ、榊はベンチへ向かう。
 皆の視線が痛かった。
 見れば芥川はまだ泣いており、向日がなだめている。
 ラケットを手に取ると、榊はネクタイをゆるめた。
 コートに向かいながら、ふと気づく。
 そういえば、樺地と滝、宍戸の姿が見えないようだ。
 何気なく榊が振り返ったのと、宍戸の怒鳴り声が響いたのは同時だった。


「てめえら、何やってやがる……!!」
「宍戸!」
「宍戸さん!」
「亮ちゃん!?」
 皆が、一斉に宍戸の名を呼んだ。
 宍戸が、樺地の手を振り払ってこちらに駆けてくる。
 後ろには、滝の姿もあった。
 どうやら宍戸は、二人に引き留められていたらしい。
 鬼のような形相で一気に駆け下りてくると、宍戸はそのまま跡部に向かって突進していく。
「し、宍戸っ」
 跡部の胸ぐらを掴むと、宍戸は勢いのまま――頭突きをした。
「っで!!」
 跡部が、跡部らしからぬ奇声を上げる。
 よほど痛かったのだろう。
 跡部のきれいな形をした額は、見るも無惨なほど赤くなっていた。
 宍戸の額は、変わりがないようだ。石頭なのだろうか。
 額を抑えてうずくまった跡部をよそに、宍戸はぐるりとギャラリーを見渡す。
 揃っていたレギュラー陣が、びくりと身体を震わせた。
「何してんだてめえら! 俺のこととっつかまえて、何企んでるのかと思えば……!」
「し、宍戸さん、だって……っ」
「だってじゃねえ!!」
 ものすごい剣幕で怒鳴られ、鳳は泣きそうな顔でへたり込んだ。
 もう一押しとばかりに観客席を睨み付け、宍戸は榊を振り返る。
 同じように怒鳴られるのかと、榊はぎくりとした。
 だが宍戸は、先ほどの迫力はどこへやら、すみませんとしきりに頭を下げてくる。
「いや、」
 何が何やらわからないまま、榊は宍戸を見つめた。




 室内は、静まりかえっていた。
 正面に座った宍戸は、どう切り出そうか迷っているという素振りで俯いている。
 こう言うときは、せかしたりせず黙って待つのがよい。
 榊は、長年の経験で知っていた。
 部室の中にいるのは、榊と宍戸の二人だけだ。
 他のメンバーも残ると言い張ったのだが、宍戸が頑として譲らなかった。
 ようやくまともな話が聞けると、榊はほっとしたものだ。


「勘違い、なんです」
 不意に宍戸が口を開いた。
「勘違い?」
 問い返す榊に、宍戸が首を縦に振る。
「その、……あいつら、俺が、……のこと……だって」
「宍戸? よく聞こえないのだが」
 いつも男らしい、はっきりとした物言いをする宍戸にしては珍しく、声が小さかった。
 榊の言葉に、宍戸は顔を上げ、目があった途端また俯く。
「あの、だから、俺にそんなつもりはねえ……ないんすよ!? でも、あいつらが勝手に……、俺が」
「宍戸が?」
「俺が、その、……監督のこと、好きだって」
「私を!?」
 驚きのあまり大声を出してしまった。
 宍戸が、立ち上がる。
「違う! だから勘違いなんだって!」
 宍戸の顔は、熟れたトマトのように真っ赤だ。
 落ち着かせなければと、内心の動揺を押し隠し、榊は冷静に頷く。
「わかった、勘違いなんだな?」
「はい!」
 榊が同意したことで少し興奮がおさまったのか、宍戸は再びソファーに腰を下ろした。
「それで、なんか監督と俺がつきあってる的な話になったみたいで、そんであいつら、怒っちゃったみたいで……」
 まだ赤い顔で宍戸がぽつぽつと語る内容を要約すると、どうやら正レギュラーの間では榊が宍戸に手を出した、ということになっているらしい。
 それで皆あれ程怒っていたのか。
 やり過ぎと思えなくもなかったが、あんなことをした理由が仲間を思ってのことだったというのなら、怒る気にはなれなかった。
「話はわかった」
 宍戸が、緊張した面持ちで顔を上げる。叱られると思っているのだろう。
「被害が他に及んでいないこと、仲間を思いやっての行動だったと言うことを考慮して、この件は私の中で留めておこう」
「え、じゃあ……」
「処分はなし、ということだ」
 宍戸の顔が、ぱっと明るくなった。
「ありがとうございます!」
 室内の空気が、和やかなものに変わる。
「しかし、どこからそんな話が出たんだろうな?」
 榊が苦笑すると、宍戸は首をかしげた。
「それが俺もわかんなくって……。たぶん、忍足か長太郎あたりが妙な勘違いでもしたんじゃねーかと思ってるんすけど」
 宍戸が口にした途端、隣の部屋に続く扉が盛大な音を立てて開かれる。
「それはちゃうで宍戸!」
「なんで俺のせいなんすか宍戸さーん!!」
 どうやら、隣で聞き耳を立てていたらしい。
 名前を出された忍足と鳳、それから他の者も一緒になだれ込んできた。
「お前ら、盗み聞きしてたのかよ!?」
 宍戸は立ち上がってテーブルを飛び越えると、一目散に駆け寄って鳳を蹴り飛ばす。
「いたっ! 何で俺だけ蹴るんすか!」
「一番近くにいたからだ!」
 涙ながらに訴える鳳へ、理不尽な理由を告げる宍戸。
「大体、元はと言えば宍戸。てめーが原因だろう」
 腕を組みながら、跡部がふんぞり返った。
「ああ? どーゆー意味だてめえ!」
「跡部の言う通りだぜ、宍戸!」
 跡部の背から顔を出した向日を、宍戸が睨み付ける。
「亮ちゃん覚えてない〜?」
 向日の横から、芥川がのっそりと出てきた。
「あ? 何がだよ」
「亮ちゃんがゆったんだよ、おつきあいするなら太郎ちゃんがいいって」
 子どものような口調で、芥川が言う。
「……はあああああああああああああああああ!?」
 一瞬間をおいて、宍戸の絶叫が響き渡った。




 なんでもない、ごく普通の日だった。
 コート整備のため部活は休みだというのに、部室にはいつもの面々が揃っていた。
 教室に置き忘れた雑誌を取りに行った宍戸が戻ると、何故か皆に一斉に振り向かれる。
「な、なんだよ?」
 俺が何かしたか? 動揺し、宍戸は持ってきた雑誌を握りしめた。
「宍戸は、誰がええ?」
 PCの前に腰掛けた忍足が、挨拶代わりに問いかけてくる。
「は?」
 宍戸は、目を丸くした。
「誰がいいって?」
 何の話だろう。
「あのねー、いまみんなでお話ししてたの〜」
 床に転がっていたジローが、身体を起こしながら言う。
「話? なんの」
 テーブルに雑誌を放り投げ、宍戸は空いているソファーに座った。
 隣に座っている向日が、だからー、と説明してくれる。
「もし、自分が女だったら、テニス部の誰とつきあうかって話」
「なんだそりゃあ」
 そんな、あり得ない話に花を咲かせていたとは、暇人とは恐ろしいものだ。
 くだらないと思いつつも、宍戸はお前らはどうなんだと逆に問いかけた。
「俺様は、俺様だ」
 当然だろうという顔で、跡部が満足げに頷く。ナルシストめ。
「俺は鳳か滝やな。やっぱり男は甲斐性がないとあかんで〜」
 忍足は、とりあえず家が裕福そうな奴に決めたらしい。
 金持ち度で言えば跡部が一番なのだが、忍足とは少々――だいぶ、相性が悪いらしいので。
「俺は宍戸さんです!」
 目をきらきらと輝かせて、長太郎が叫んだ。その頬がうっすらと染まっているところが気持ち悪い。
「だあめ! 亮ちゃんは俺のだもん!」
 ジローが、長太郎を牽制する。
「俺は侑士か宍戸だな〜。気が合うほうがいいし」
 向日が、もしかすると一番まともな選び方かも知れない。
「ぼくも宍戸がいいな。遊びがいがありそうだもんね」
 滝が、語尾にハートマークのついていそうな口調で言った。なんだか、笑顔が恐ろしく感じるのは気のせいだろうか。
 亮ちゃんもてもてだね、とジローがはしゃいだ。
「お前はどうなんだよ、日吉」
 渋い顔で立っている日吉に声をかけると、強く睨まれる。俺に話を振るなという顔だ。
「俺は、……どうしてもというなら、樺地がいい」
 言って、日吉はぷいっと顔をそらしてしまった。樺地か。確かに、口数は少ないが親切だし、頼りがいはあるだろう。
「樺地は渡さねえぞ!」
「いや跡部、そこ怒るとこちゃうから」
 樺地という単語に反応した跡部に、忍足がやんわりと突っ込んで蹴り飛ばされている。
「樺地は」
「俺様に決まってんだろう」
 樺地が答える前に、跡部が答えた。樺地に異論はないようだ。逆らっても無駄だと思っているのかも知れない。
「で? 宍戸は誰にすんだ?」
 向日に促され、宍戸は考え込んだ。
 皆が、興味津々という顔で見つめてくる。
「う〜ん、そうだなあ……」
「俺を選んでください、宍戸さん!」
「何言ってんのおーとり。亮ちゃんは俺を選ぶに決まってんじゃーん」
「それは違うなジロー。宍戸が選ぶのは、この俺だ」
 跡部が、ふっと傲慢な顔で笑った。
「俺は、」
 口を開いた宍戸に、言い争っていた者の視線も集中する。
 宍戸は、顔を上げてきっぱりと言い放った。
「つきあうなら、監督にする」




 宍戸が、うつろな目で芥川を見下ろす。
「そーいえば、言ったな、監督がいいって」
「ほら〜」
 芥川が、得意げに宍戸の手にしがみついた。
「俺、亮ちゃんが太郎ちゃんとおつきあいしてるのかと思って、ちょうショックだったんだから〜」
「な! あれはただの遊びだろー!? 第一、俺は男だ!」
「宍戸さんは男でもとってもかわいいです!」
 鳳が、余計なことを言って宍戸に蹴られている。
「とにかく、誤解がとけたならいい」
 榊は小さく息を吐き、自分がだいぶ疲労していることに気づいた。
 立ち上がった榊に、他の面々が口々に謝罪の言葉を述べる。
 榊が扉を開けた背後で、向日の声が聞こえた。
「大体よー、何で宍戸は監督選んだんだよ?」
「ぼくも知りたいな。あのときは騒ぎになって聞けなかったもの」
「あ? 別に、消去法ってやつだよ」
 宍戸の言葉に、一同は騒然とする。
「どういう意味だ宍戸! 俺様のどこが監督に劣ると言うんだ!」
 跡部を筆頭に皆が宍戸に詰め寄った。
「劣るっつーか、だって跡部はいちいちこまけーし、ジローは恋人って感じじゃねーし、忍足は変なシュミにつきあわされそーだし、向日は小せえし、滝はなんかこえーし、日吉は性格が合わなそうだし、樺地は無口すぎるし、長太郎はうっとーしいし、……な?」
 わかるだろ、という顔で告げた宍戸に、しかし納得する者は一人もいない。


 複数の絶叫を背に、自分には関係のないことだと、榊は部室を後にした。


【完】

 

 いただいたリクエストは、「宍戸さんの想い人が榊監督で、テニス部レギュラーが阻止?しようと奮闘する話」でした。
 リクエストありがとうございました〜!


2006 07/24 あとがき