同病相憐れむ(南と忍足)


 放課後に控えた練習試合に向け、山吹中男子庭球部の部長である南は雑務に追われていた。
「部長〜! コート全部張っちゃっていいんすよね?」
「ああ、頼む」
「部長! オーダー表どこっすか」
「部室の机にないか?」
 次々とかかる部員たちの質問に答えながら、抜かりはないかチェックしてまわる。相手校が来てから足りないものが見つかったりしては困るのだ。
 特に、今日の対戦相手はあの跡部景吾率いる氷帝学園である。準備不足を指摘されるだけならまだよいが、下手したら機嫌を損ねて帰ってしまうかも知れない。
 それだけは、なんとしても避けたかった。全てにおいてレベルの高い氷帝学園との試合は、大会に向けてのいい刺激になるはずだ。


 チェックを終え、南は肩の力を抜いた。あとは、相手の到着を待つばかりである。
 そんな南の背後から、浮かれた足取りで近づいてくる者があった。
「み・な・みっ☆」
 顔を見ずとも、誰なのかわかる。そんな風に自分を呼ぶ相手を、南は一人しか知らなかった。
 南は、地を這うような低音でその名を呼びながら振り向く。
「……千石……」
 思った通り、山吹中庭球部のエースである千石が、目の前でにこにこと笑っていた。
「ねえねえ、今日の相手、跡部くんとこだってほんと〜?」
「こないだのミーティングで言ったろ」
 また話を聞いていなかったのかと、南は呆れた顔になる。千石は首をかしげ、思い出すような素振りをした。
「う〜ん。俺、ミーティング出た覚えないんだけど?」
 そういえば、ミーティングだと言った途端、お腹が痛い、今にも破裂しそうだ、病院に行かせてくれないだなんて南は鬼だ、などと喚きながら部室を出ていったような気がする。
「……オーダー、入れるんじゃなかったな」
「えええええ! 俺ってばエースだよ!? なんでそんなことゆうの! 健ちゃんの意地悪〜!!」
 ぴいい、と妙な声で泣き真似をし出す千石に、南は耳をふさぎたくなった。このまま放置しておけばその内飽きるだろう。
 できればこれ以上相手をしたくはなかったが、そうもいかない。
「どうしたんすか、千石さん」
 来た、と南は思った。
 浅黒い肌をした後輩が、駆け寄って来る。
 この男は室町十次といって、普段は口数も少なく冷静な男なのだが、何をどう間違ったのか千石に心酔しているらしく、彼の身に異変があると一体どこから見ているのか、すぐさま姿を現すのだ。
 そして、必ず千石の味方をする。どちらに非があるのかとか、そういうことは一切関係ないらしい。
 駆けつけた室町に、千石は南にいじめられたと泣きついた。室町は千石の肩をあやすように数回叩くと、南を睨み付けてくる。といっても、室町はサングラスをしているため、実際の表情はわからないのだが。
「南部長は、千石さんに対して厳しすぎると思います」
「あのなあ……」
 どう説明しようと、室町が受け入れることはないだろう。経験でわかっているので、南は首を振るだけにとどめた。
 その場を立ち去ろうとすると、千石がちょっと待った、と腕を掴んでくる。
「なんだよ?」
「跡部くんとこと対戦ってことはあ、氷帝の女の子たちも来るんだよね?」
「さあな」
 どうやら、それが目的だったらしい。女好きの千石は、何を想像したのか、にやにやと鼻の下を伸ばしている。
 それを無表情に見つめている室町が、少し怖かった。
 氷帝から来る女生徒はほとんどが部長である跡部のファンだろうから、千石が声をかけたところで相手にされないのがオチだろう。とはいえ、それで騒ぎを起こされたのでは、南が前もって抜かりのないよう準備していた意味がなくなってしまう。
 千石に対する対策もなにか考えておかなければ。千石が室町に引きずられていく姿を見ながら、南は頭を抱えた。


 部室で一人忙しくしている忍足に、ぱたぱたと足音を立てて近寄ってくる者がいた。忍足が顔を上げると、ちょうどジローが止まったところだった。
「忍足、なんか忙しそう?」
「あー……」
 首をかしげて見上げてくるジローに、忍足は肩をすくめてみせる。持っていた荷物を床に下ろすと、額に浮かんだ汗を拭った。
「今日、練習試合があるやん?」
「れんしゅうじあい?」
 ジローが、初めて聞いたという顔をする。いつも寝ているジローは、ちゃんとミーティングに参加したためしがなかった。
 どうやら本当に知らなかったらしいと、忍足は息を吐く。少しだけ屈み込むと、ジローに目線を合わせた。
「放課後、山吹と練習試合があんねん。向こうの学校行ってな」
「マジでー!? 俺も試合出られる!?」
「ああ。ちゃあんと、オーダー入っとるで」
 忍足は、嬉しそうに笑うジローの頭を撫でてやる。少しの間、やったやったとそこら中を跳びはねていたジローが、何かに気づいた様子で動きを止めた。
 くるりと顔だけこちらに向けると、もっともな問いかけをしてくる。
「それで、どうして忍足が忙しいの?」
「……ああ」
 ジローの疑問に、忍足は苦笑するしかなかった。
 本来なら、部活動に関する雑務は、マネージャーや部長等の役目に就いているものが行うものだ。だが氷帝学園男子庭球部にマネージャーというものは存在しなかったし、部長である跡部が跡部なのだ、そのような仕事に精を出すわけがなかった。
 跡部曰く、「部長ってのは皆の上に立つのが仕事であって、その他のことに手を煩わせる必要なんかねえんだよ」ということらしい。
「それで、忍足が一人で準備してるの〜?」
 忍足とて正レギュラーとはいえ、ただの一部員に過ぎないのだ。このような役目を一人で担う必要があるとは思えない。
 だが何故か氷帝の王様は、忍足にその役目を押しつけてきた。
 いつものことといえば、それまでだが。
「忍足、たいへんだね」
 跡部が忍足に冷たくあたることを知っているジローが、不憫そうな顔をする。
「まあな。あ、ジロちゃん、こないだ買うてきた消毒液どこやったか知らん?」
「え〜? 滝がどっかやってたと思うけど。聞ーてきてあげるっ」
「頼むわ」
 滝を捜しに行ったジローに手を振ると、忍足はその他に必要なものを荷物に詰めていった。


 消毒液以外の準備が整ったところで、部室の扉が開く。
 ジローが戻ってきたものだと思った忍足は、顔を上げずにご苦労さんと言った。
「おらよ」
 言葉とともに、忍足の手に重みが増す。渡された消毒液を詰めたところで、今の声はジローのものではないことに気づいた。
「……宍戸?」
 同じクラスの宍戸が、気怠そうな面もちで立っている。
「なんだよ」
 呆けた顔で見つめる忍足に、宍戸は怪訝そうな表情になった。
「あー。ジロちゃんかと思て」
「は?」
 宍戸は先ほどより険しい顔つきになる。全く異なる容貌のジローと間違えられたせいだろう。
「何だそりゃ。どうやったら俺とジローを間違えるんだよ?」
「ジロちゃんにお使い頼んだからなあ」
 ははは、と忍足が誤魔化すように笑うと、ようやく宍戸も顔をほころばせる。
「声でわかんだろ、ばーか」
「ばかは酷いわ亮ちゃん」
 わっとばかりに顔を両手で覆う忍足の足を、鈍い衝撃が襲った。どうやら、宍戸に蹴られたらしい。
「暴力反対やって。練習試合やってのに、全く」
「あー、悪い悪い」
 全く悪びれずに宍戸はソファに腰掛けた。なんとなく、忍足も隣に座る。
「ジロちゃんにゆわれて来たん?」
「んー。昼寝したかったし」
 既に寝る体勢に入ったのか、宍戸が片目だけ開けて忍足を見た。
 その、見慣れない眠そうな顔に、忍足は一瞬どきりとする。悟られないように身を引くと、テーブルに乗っている菓子類に手を伸ばした。
「なんか食うか」
 うとうとしている宍戸に言っても無駄だろうと思いつつ、それでも声をかけずにはいられない。何故だか、沈黙が怖かった。
「跡部に、怒られんぞ……」
 それだけ口にすると、宍戸は本格的な眠りに落ちてしまったようだ。
 穏やかな寝顔を食い入るように見つめている自分に気づき、忍足は慌てて持っていた菓子の包みを開ける。口の中に甘ったるい味が広がって、顔を顰めた。
 部室に常備されている菓子類は、跡部が幼なじみで大事にしているジローのために用意しているものだ。忍足が食べたことがばれたら、どんな目に遭わされるかわからなかった。
 証拠隠滅とばかりに、包み紙をポケットにしまう。部室にはゴミ箱もあったが、そこに捨てては勘の鋭い跡部のこと、すぐにばれてしまうだろう。
 忍足が座り直すと、室内には宍戸の寝息だけが響いた。
 規則正しい呼吸音を聞いているうちに、忍足まで眠気に襲われる。寝てはいけないと思いながらも、ふかふかソファの誘惑には抗えず、忍足は眠りについた。


 コートの入り口で南が氷帝の到着を待ちかまえていると、校門まで様子を見に行っていた壇が小走りにやってくるのが見えた。
「南部長〜! 来たです! 皆さんおそろいです!」
 壇の言葉に、南はあからさまにホッとした表情になる。約束はしていたものの、内心ちゃんと来てくれるか不安だったのだ。
 何しろ、移動が面倒だという理由で当日になってキャンセルになったこともあるという噂を聞いていたので。
 監督である榊を先頭に、特徴的なデザインをしたジャージ姿の集団が歩いてくる。榊が山吹の監督である伴田と挨拶を交わしているのを見て、自分も跡部と挨拶をしようとその姿を捜した。
「俺様を捜してんのか?」
「あ……」
 向こうから声をかけられると思っていなかった南は、動揺しながら顔を上げ、その場で固まる。
 何しろ、目的の人物は不機嫌さを隠そうともせず、こちらを睨み付けていたのだから。彫りの深い顔立ちをしている跡部がそんな顔をすると、視線だけで殺されそうなぐらいの迫力がある。
 握手のために右手を差し出したまま動けずにいる南の背後から、陽気な声が飛び出した。
「跡部くんだ! お久〜!」
「千石。いたのかてめえ」
「ひっど〜い! いるに決まってんじゃん、俺こう見えてエースよ?」
「はっ。てめえごときがエースじゃ、山吹も程度が知れてるぜ」
 怖いもの知らずというべきか場の空気を全く読もうとしないというべきか、あれ程凶悪な顔をした跡部に対して普段通りのキャラを貫く千石を、この時ばかりは羨ましく思う。
 それより、と千石は忙しなく辺りを見渡した。
「ねえねえ女の子は〜?」
「女?」
 見る限り男子部員の姿しか見えず、千石は首をひねる。
 問われた跡部のほうは、一体何を言っているのかと眉間の皺を増やした。
「応援の子! 氷帝の子ってレベル高いから楽しみでさ〜!」
「何言ってやがる。誰も来てねえよ」
「えええええええ!? なんでー!?」
「応援なんざ、鬱陶しいだけだ」
「嘘お! 跡部くん、目立つの大好きじゃん!」
 よく見たら、正レギュラーと準レギュラーしか来ていないようだ。
 女生徒の声援はともかく、いつもの氷帝コールもしないつもりなのだろうか。千石同様、南も不思議に思う。
「うるせえな!!」
 珍しく声を荒げると、跡部は他の部員を置いてさっさとベンチへ行ってしまう。
 その背を見送った千石が、ぽつりと呟いた。
「なんか跡部くん、ご機嫌斜め?」
 今頃気づいたのかと突っ込む気力もなく、南は氷帝の部員を振り返る。
「あの、……なんで跡部」
 南がそれだけ言うと、長い髪をした男が進み出た。
「悪い、俺のせいかも」
「え?」
 相手は、確か宍戸という名前の正レギュラーだ。
 すまなさそうな顔をした宍戸の説明によると、午後の授業をさぼって部室で昼寝していたところを跡部に見つかり、こっぴどく叱られたらしい。
 それぐらいのことで、と言ってはなんだが、跡部があれ程荒れるとは。意外と真面目なんだなあと南は認識を改める。
「大体、忍足が起こしてくんねえから」
「しゃあないやん、俺かて眠かったんやし」
 口を尖らせて不満を言う宍戸に、忍足と呼ばれた男は困ったように言い返した。
 金髪の小柄な男が、二人の間から顔を出す。
「跡部が怒ってるのは、さぼったからじゃないと思うけどね〜」
「なんか知ってんのかジロー」
「ジロちゃん……」
 ジローから聞き出そうとする宍戸とは対照的に、忍足はなんだか聞きたくなさそうな素振りを見せる。
 どういった理由があるにせよ、跡部の機嫌がすこぶる悪いこと。そして、その鬱憤をこの練習試合にぶつけてくることは確実だろう。
 これから行われる試合の内容を想像し、南は肩を落とした。
「ねえねえ、君なんていう名前?」
「は?」
 それまで黙っていた千石が、宍戸に名前を聞いている。
 突然の問いかけに、宍戸は目を丸くしながら小さい声で答えた。
「……宍戸、だけど」
「宍戸くんかあ! 君、かわいいね〜! つき合ってる人とかいるの?」
「……」
 右手で宍戸の手を握り、左手で腰を撫でだした千石に、宍戸は顔を強ばらせる。
「せ、千石、何してんだっ」
「うるさいよ南。人の恋路を邪魔すると、テニスボールが飛んでくるよ〜?」
「こ、恋路ってお前……!」
 顔だけこちらに向けてそう言い切ると、千石はだらしなく鼻の下を伸ばして宍戸に向き直った。
「ぎゃああああああ! 俺の宍戸さんに何してんすかあんた!」
 叫び声とともに他の部員を押しのけ前へ出てきた長身の男が、千石の手を離させようと躍起になる。
「あのな長太郎。誰がお前の宍戸さんなんだよ、誰が」
 リアクションできずにいた宍戸が、長太郎の叫びに我に返ったのかそう抗議した。しかし言われた長太郎はどうやら聞いていないらしく、千石へ噛みついている。
「宍戸くんは関係ないって言ってるみたいだけど?」
「少なくともあんたよりは関係があります!」
 言い争いながらも、千石の手はしっかりと宍戸を掴んで離さない。
 南が目眩を覚えた頃、宍戸が何かに気づいた様子で、あっ、という声を漏らした。
「なになに? どうしたの、宍戸くん!」
 甘い声で訊ねる千石の後ろ頭に、どこから飛んできたのかテニスボールがぶつかる。
 「跡部部長ナイス!」とガッツポーズをとった長太郎のお陰で犯人はすぐに判明したが、咎める者は誰一人としていなかった。
 地面に倒れた千石を見下ろし、壇がどうしましょうかと聞いてくる。
「このまま埋めるか?」
「えっ」
 物騒なことを言い出した南に、壇はおろおろと辺りを見回した。
 いつの間に来たのか、背後からぽんと南の肩が叩かれる。その人物の持つ重苦しい空気に、誰の手なのか瞬時に理解した南は、ぎこちない動作で振り向いた。
「千石さんは、俺が保健室に運びます」
「あー、えーと、よ、宜しくな室町」
 淡々と話す室町をかえって恐ろしく感じ、南はじりじりと後退する。
 さすがに一人で抱き上げるのは無理があったらしく、宍戸に言われて長太郎が手伝うことになった。
 立ち去る前に、室町が南を振り向く。
「試合、俺までまわりますよね?」
「ああ。練習試合だし、勝ち負け関係なく最後までやるつもりだけど……」
 てっきり千石の看病をしたいから抜けさせてくれと言われるのかと思ったが、室町は何も言わずに行ってしまった。
「室町先輩、やる気です!」
「え? ……あ」
 そういえば、くじ引きで決めたオーダーでは、室町はS1だった筈だ。正レギュラーで固めているとすれば、氷帝のS1は間違いなく跡部であろう。
 室町は、テニスで千石の仇をとるつもりなのだ。実力差から考えれば、それは無理だと言わざるを得ない。
 だが、室町は千石が絡むと途端に普段以上の力を発揮する。その上、あの態度からして相当怒りを募らせているだろう。どんな手段をとるか、想像もつかない。


 何やら青ざめた顔で胃の辺りを押さえる相手校の部長に、忍足は悪いことをしたと思う。
 そもそもの原因は、忍足が跡部を怒らせたことにあるのだ。午後の授業が終わり、二人してさぼったことがどう伝わったのか、跡部が息を切らせて部室へ飛び込んできた。
 意識がなかったとはいえ、寄り添うように眠る自分と宍戸の姿は、跡部の目にはどう映っただろう。
 言い訳することも忘れ、ひたすら狼狽える忍足の髪を跡部が力任せに引っ張り、無理矢理立たせたところで、宍戸が目を覚ました。
 宍戸に宥められ、跡部も一度は機嫌を直したのだ。だが、やれやれと胸をなで下ろしたところで、忍足の足下に何かが舞い落ちた。
 跡部が拾ったそれは、忍足がポケットに隠したはずの包み紙。
 今度ばかりは宍戸の言葉も聞かず、頭ごなしに怒鳴りつけられた。跡部は普段、怒ったときも決して声を荒げたりはせず、嫌味っぽく執拗に責め立てるタイプだ。
 それが、まずは正座から始まって、少しでも言い訳めいたことを口にすれば容赦なく頭を叩かれた。二人は黙って跡部の怒鳴り声を聞くほかなかったのだ。
 建前は授業をさぼったこととジローのお菓子を勝手に食べたことに対する説教だったが、本当の理由は違うはずである。
 呑気に千石の心配をしている宍戸を横目で見ると、忍足はため息を吐いた。
「忍足! 何のんきに突っ立ってやがる! とっとと荷物持って来やがれ!」
 今日は樺地ではなく、忍足が跡部の荷物を持たされている。跡部の命令に、忍足は力無く歩き出した。
 ふと南とかいう男と目が合い、力無く笑い合う。


 言葉などなくとも、目と目で通じ合えることもあるのだと知った。


【完】



いただいたリクエストは、「練習試合かなんかで、意気投合した苦労人の南と忍足。お互いの部活での人間関係の苦労話をする若さのかけらも無い二人。そんな二人の苦労も知らず騒動を起こす両校の選手達。千石くんが誰かにちょっかいを出して欲しいvv」でした。


リクエスト、ありがとうございました〜!




2004 09/02 あとがき