あるようでない男(跡部と宍戸とジロー)
 
 
 
 室内は、一種異様な空気に包まれていた。
 誰もが気まずい表情で目を逸らし、何かを堪えるかのごとく肩をふるわせつつ、拳を強く握っている。
 宍戸も、その内の一人だった。
 言いたいことは、山程ある。だが、それを口にした途端起こるであろう騒動を想像すると、決して口に出すわけにはいかなかった。
 
 
 教師の言葉に、一同はようやく黒板へと目を向ける。
 そう、前を向きさえすれば、それを目に入れないですむ。何故なら、それは授業中だというのに高慢な態度を崩そうとはせず、一番後ろの席でふんぞり返っているのだから。
 
 
 宍戸の座る席からそれまでの距離は近く、時折それの舌打ちする音が耳に入ったが、あえて無視を決め込んでいた。
 教師の説明が一通り終わり、ようやく実習に移れるかと思ったその時。
 大きな音を立てて開いた扉から、金髪の少年が飛び込んでくる。
「せんせ〜! 俺も! 俺も参加する! いいっしょ?」
 腕を振り回しながら教師に訴えているのは、どこからどう見ても宍戸の幼なじみである芥川慈郎であった。
「芥川くんは、ちゃんと実習に出たでしょう? だから、今日の補習は別に受けなくていいんだけど……」
「えー! だってだって、俺亮ちゃんの手料理食べたいしー! 味見係! 邪魔しないから、お願いっ」
 宍戸が目を丸くしている内に、ジローは持ち前の愛らしさを存分に発揮し、教師の承諾を得たようだ。
 やったーと跳びはねながら、ジローは宍戸を振り向いた。
 それから、宍戸の後ろに座っている人物に目を止め、 ──盛大に吹き出す。
「あっはははははははは!!! 跡部! 跡部が三角巾してる〜〜〜〜〜!! 似合わね〜〜〜〜〜〜!! あははははははははは! エプロン! クマさんのエプロン〜〜〜〜〜〜!!!」
「じ、ジロー!」
 宍戸の制止の声は届かず、ジローは誰もが指摘したくてもできなかったことを大声で叫びながら、大笑いしている。
 それをきっかけに、室内のあちこちから笑い声が聞こえてきた。よほど我慢していたのだろう、中には涙を流すまで笑っている者もいる。
 宍戸は、怒り狂っているであろう跡部の姿を想像し、振り返ることが出来なかった。
「宍戸……」
「な、なんだよっ」
「元はと言えば、てめえがこんなエプロンを持ってきやがるから」
「仕方ねえだろ! 予備のエプロンなんて、それぐらいしかなかったんだから!」
 大体、跡部の家にならエプロンなど幾らでもあるのではないだろうか。それを、昨日になって急に、貸せと言ってきたりするからこんなことになったのだ。
 宍戸がそう目で訴えると、跡部は忌々しげに吐き捨てた。
「てめえ。俺様にあんなフリルのついたエプロンをしろとでも言うのか?」
「うっ。そ、それは……」
 跡部の家の使用人が普段着用しているものを思い返し、宍戸は慌てて首を振る。
「あれ、それって、もしかして亮ちゃんが作ったエプロン?」
 ようやく笑いを収めたジローが、跡部のエプロンを見つめながら言った。
「あー。そうそう、俺が幼稚舎んとき家庭科で作ったやつ。よくわかったな、ジロー」
「だって、このクマさんかわいくって覚えてるもん! えー、いいなあ跡部! 俺もこれがいい!」
「お前は味見に来たんだろうが。エプロンは必要ねえはずだ」
「うーわ! 今までちょういやがってたくせに!」
 宍戸の手作りであるとわかった途端上機嫌になった跡部に、宍戸は内心複雑な気分に陥る。
 まあ、機嫌が良くなっただけマシだろうか。
 宍戸はため息を吐くと、椅子を引いてジローを座らせた。
 実習の邪魔をされてはたまらないため、隔離したとも言える。
 
 
 そもそも、何故クラスの違う跡部と宍戸がともに調理実習を行う羽目になったかといえば、先月各々のクラスで実習があった際、たまたま跡部は家の用事で学校を欠席しており、宍戸に至ってはジローの昼寝につきあっている内に寝過ごしてしまい、授業を受けることが出来なかったのだ。
 そのため、その他の実習を受けられなかった者達とともに、放課後を潰して補習を受けることになった。
 
 
 実習の採点は班ごとに行うというのに、宍戸は運悪く跡部と一緒になってしまった。
 宍戸は跡部の幼なじみであるため、跡部が一切料理をしたことがないと知っていた。
 偉そうに腕を組む跡部に目を遣り、宍戸はため息を吐いた。
 幸い、宍戸には料理の経験があった。共働きの両親にかわって、夕飯を作ることが日課になっているのだ。
 跡部には、技術を必要としない作業のみやってもらうことにしよう。
 そう決めると、宍戸は跡部にボールと米を渡した。
「これはなんだ」
「……米だよ。これを洗って、炊くとご飯になるんだ」
「てめえ、俺様をばかにしてんのか? それぐらい知ってるに決まってんだろ」
「そーか。じゃ、これ洗っといて」
 まだ文句の言いたそうな跡部を残し、宍戸は他の材料をとりに教卓へ向かった。
 一人残された跡部は、何で俺様がこんなことを、と言いながら蛇口をひねる。
 座ったままだったジローが、少し慌てた様子で声をかけた。
「跡部跡部、洗うっつっても、洗剤で洗うんじゃないからね!?」
「当たり前だろ」
「だよね〜? えへへ、一応お約束ってことで」
 ジローが笑って誤魔化すと、跡部はふんと鼻を鳴らす。
 それから、
「で、ジロー。米用の洗剤はどれだ」
「は?」
「だから。これは食器用の洗剤だろう? 米を洗うやつはどれだって聞いてんだよ」
「……」
 跡部の作ったものは、どんなに美味しそうでも絶対口に入れないようにしよう。
 洗剤は使わないことを説明しながら、ジローは固く決意した。
 
「跡部、これ混ぜといて」
「ああ」
 宍戸が丁寧に、だが素早くネギを刻んでいく。
 さっすが亮ちゃん! 
 ジローが見とれていると、隣で跡部も目を奪われているらしい、妙な動きをしていた。
 それ、入れたらまずいんじゃないかなあ……。ジローは、顔を歪めて立ち上がると、そっと宍戸に耳打ちした。
「お願い亮ちゃん。俺が食べる分は、亮ちゃんが味付けしてね?」
「ああ? ……別に、いいけど?」
 理由はわからなくとも、宍戸がジローの頼みを断るはずがない。宍戸の返答に、ジローはほっと胸をなで下ろす。
 元の位置に座り直すと、跡部がおかしな動きをしないかどうか見張ることにした。
「それで? これをどうするんだ」
「それは後で使うから、先にみそ汁作っといてくれっか」
 宍戸があらかじめ切っておいた具を差し出すと、跡部は妙な顔つきで受け取る。
 普段殆ど洋食しか口にしない跡部は、もしかすると「みそ汁」が何なのかすらわかっていないのかも知れない。
 ジローは宍戸にジェスチャーで伝えようと試みたが、宍戸は宍戸で別の料理にとりかかっていたので、気づかれることはなかった。
 ジローは肩を落とすと、今更教科書と睨めっこをしている跡部の腕を掴んだ。
「みそ汁って言っても、ただお味噌溶かしたんじゃ駄目なんだからね〜? ちゃあんと、出汁もとるんだよ」
「だし?」
「……」
 ジローは今にも泣き出しそうな顔をしながら、傍らに置いてあった煮干しを指さした。
 
 
 それにしても、とジローは思う。
 跡部は、必修も選択も含め、全教科オール5だったはずだ。
 今までにも調理実習はあったはずなのに、何故良い成績をとれたのだろう。
 もしかして、自分は何もしないで班の人に任せっきりだったのかなあ。ありうる、とジローは力無く笑った。
 
 
 その後料理が完成し、教師に採点される段階になってようやく、ジローは何故跡部が調理実習で良い点を貰っていたのか、その理由に気づくことができた。
 教師が跡部の項目に満点をつけているのを盗み見て、ジローはなるほどね、と思う。
 とにかく、跡部の料理は完璧だったのだ。……見た目だけは。
 盛りつけだけなら、そこらの一流料亭にすら引けをとらないであろう。
「でもさあ、肝心なのは見た目じゃなくって、味だよねえ」
「ん? どうしたジロー」
「なんでもなーい! ねえ亮ちゃん、俺これ食べてもいいっしょ?」
「ああ。一応、お前好みの濃いめに味付けしといたからよ」
「やった! 亮ちゃん大好き〜!」
 言うが早いか、ジローは早速宍戸の料理に手を伸ばす。
 献立は、ぶりの照り焼きに白飯、ネギと豆腐のみそ汁だ。ご飯を口いっぱいに頬張ると、ジローは幸せそうに笑った。
「おいジロー。俺様の作ったもんも食えよ」
「!!」
「あのなあ跡部、いくらジローでもんなに食える訳ねえだろ。自分で食え」
「ふん、庶民の味が俺様の口に合うわけがないだろう」
 どうやら、跡部も自分の作った料理を食べる気はないらしい。
 調理実習は、誰一人被害者を出すことなく終わるかと思われた。
 
「あれ、もう食べとるん?」
「忍足」
「なんや、つまみ食いしたろー思てきたのに、出遅れてもーた」
 部活に顔を出してきたらしい、忍足がジャージ姿のまま顔を覗かせる。
 もぐもぐと口を動かしているジローに目を止めると、
「あ! ジロちゃん、補習とちゃうかったやろ。抜け駆けはあかんで〜?」
「ん〜ん!」
 食べかけに手をつけようとする忍足を、ジローは箸を持った手で牽制した。
「忍足、それはジローの分なんだから、卑しいことすんなよな」
「んなことゆうたって……。全く、宍戸はジロちゃんには甘いねんから」
 見かねた宍戸が口を挟むと、忍足は渋々と言った様子でジローの食べている料理を諦める。
 それから、誰も手をつけていない料理に目を止めると、
「なんや、こっちのは食べへんの?」
「あー。いんじゃね、食っても」
 言いながら宍戸が振り向くと、跡部は無言で頷いた。捨てるよりはマシ、とでも思ったのかも知れない。
 だが、ジローの目には、何かと宍戸との仲を邪魔をしてくる忍足に対する跡部からの報復、としか映らなかった。
 
 
 見た目だけは完璧な、だが味のほうは全く保証できないどころか、人間が食べられるものに仕上がっているのかすら危ぶまれる跡部の料理を口にした忍足は、その後一週間程生死の境を彷徨ったとか。
 
 
 
 【完】
 
 
 
 

 いただいたリクエストは、「とんでもなく料理オンチな跡部、家庭的な料理が得意の宍戸さん、食べる専門(宍戸の料理のみ)の慈郎で調理実習。何も知らない忍足が、見かけだけはプロ並みの跡部の料理を食べて悶絶する。(ほんのり跡宍、子どもが慈郎な感じで)」でした。
 
 
 リクエスト、ありがとうございました〜!!
 
 
 
 
2004 04/03 あとがき