年上の男の子(菊丸と海堂)
 
 
「ぶっちょー! そろそろ暗くなってきたけど、どーすんだ?」
 少し離れた場所からかかった声に、海堂は顔を上げる。
 夢中になって練習していたため気づかなかったが、辺りは既に日が落ち、外灯がともっていた。
 周囲を見回すと、皆手を止めこちらを窺っている。
 その顔に疲労の色が見て取れ、海堂は解散を告げた。
 
 
 夏の大会が終わり、三年が引退することになったあの日。
 海堂は、前部長である手塚から次期部長になるよう言い渡された。
 最初は色々と文句を言っていた桃城も、今では副部長として、海堂では手の回らないところをサポートするようになった。
 対照的な性格をしている二人は得意分野も全く違っていて、ある意味バランスのとれたコンビであると言えるだろう。
「片づけくらい、一年に任せちまえばいいのによ」
「部室に鍵をかけるのは、部長の役目だからな。ただ待ってるより、手伝った方が早い」
「真面目だねえ、お前は」
 桃城は、肩をすくめながら立ち去った。
 端から見たら、自分のしていることは愚かな行為に見えるのだろう。
 海堂自身、たまに融通の利かない自分が嫌になるときがあった。
 
 
 だから、そんな自分を好いてくれる人がいるということが、とても不思議だった。
 
 
 誰もいない部室で着替え終わると、海堂は椅子に座って部誌を開く。
 ちらりと時計を眺めるが、なかなか針は進まない。
 まだ、もう少し。そう考えて、海堂はハッとした。
 自分は、何を考えているのだろう。これではまるで、待っているみたいではないか。自分が、あの人の訪れを。
 
 
 無意識に、海堂は頭を振った。その考えを、否定するかのように。
 
 
 自分は別に、待っているわけではない。部長として、最後まで残るのは当然のことで。部誌を書くから、遅くなってしまうのは仕方のないことで。
 だから別に、あの人の到着に合わせて残っているわけではないのだと。
 そう、自分に言い聞かせてはみても、ぱたぱたと軽やかに走ってくる足音が近づくにつれ、どうしようもなく鼓動が跳ねてしまうのがわかる。
 
 
 あと、少し。あの人は、勢いよく駆けてくるくせに扉の前で一旦足を止め、一呼吸置いてからノックをするのだ。いつだって、そう。
 
 
 こんこんこんっとリズミカルな音が耳に届き、海堂は返事をした。はい、と。
 それから、少しだけ扉が開き、あの人が中をのぞき込んでくる。ちらりと、少しだけ不安そうに。
 中にいるのが海堂だけであることを確認すると、安心したように息をつく。
 そして、悪戯っぽい笑みを浮かべて、ピースしてみせるのだ。
「へっへー、菊丸英二、今日も参上っ★」
「っす」
 律儀に挨拶を返すと、菊丸は少しだけ頬を膨らませて中へ入ってくる。
「こらっ、海堂! ノリが悪いぞ〜?」
「毎日ご苦労っすね」
「人の話を聞け〜!」
 相づちを打ちながら、海堂は部誌に目を落とす。
 菊丸はしばらく室内をぶらぶらとしてから、海堂の隣まで歩いてきた。
 書きかけの部誌をのぞき込んで、わお、と声をあげる。
「すっげ。相変わらずこちゃこちゃと書いてるんだ? 手塚もだけどさあ、海堂も。真面目だよね〜! すっげー」
「……そうっすか?」
「うん、すごい!」
 すごいすごいとくり返しながら、菊丸はきらきらと目を輝かせている。
 まるで、新しい玩具を買って貰った子供みたいだ。
「俺だったら、てっきと〜に書いて、終わらせちゃうもんね?」
「先輩なら、そんな感じっすね」
「あ、ひっで〜! 海堂、ひっで〜!」
 きゃんきゃんと、今度は子犬みたいに吠えている。
 
 
 楽しいとか嬉しいとか、好きだとか嫌いだとか。
 そんな感情を躊躇いもなく表現できる人は、案外と少ない。
 菊丸の、そういう素直なところが、皆に愛される所以なのだろう。
 
 
 菊丸の周囲には、不二や大石をはじめとする、様々な人物があふれていた。
 いつだって人に囲まれて、輪の中心で笑っている。
 それが、海堂が抱く菊丸のイメージだった。
 
 
 そうなのだ。いつだって、菊丸の周囲にはたくさんの人が存在するというのに。
 よりによって、自分を選ぶだなんて。何かの間違いだとしか、思えなかった。
 
 
 すりすりと両手をすり合わせ、はーっと息を吹きかけている菊丸を見ながら、海堂は一週間程前の出来事を思い返した。
 
 
 
 
 思い起こせば、その少し前から、兆候はあったのだと思う。
 校内で自分を見かけると、嬉しそうに笑う。手を振られて、頭を下げると、きゃーっと言って隣にいた不二に抱きつく。不二は、これまた楽しそうに「気にしないで」と微笑んでいて。
 そんな風に、菊丸を見かける回数が増えていって、なんだかおかしいと思ったときには、既に昼休みをともにするようになっていた。
 菊丸は三年だから、今の時期は午前授業で、学校で昼食をとる必要などないはずなのに。
 隣に座っては、「海堂のお弁当って豪華!」だの、「今日はね、俺が作ったお弁当なんだよっ。一口食べてみる〜?」だの、「あ、お茶飲む、お茶! 職員室行って、お茶セット借りてきたんだ〜」だのと、甲斐甲斐しく世話をされるようになっていて。
 一体どういうことかと問いつめたくても、菊丸の嬉しそうな顔を見ると何も言うことが出来ず、かわりに何かを知っていそうな不二に聞きに行った。だが不二の返答は、「海堂が嫌じゃなければ、つきあってあげて?」という、これっぽっちも回答になっていないものだった。いつしか、「海堂が先輩をパシらせている」という、全く身に覚えのない噂まで流れるようになっていた。
 そして一週間前、とうとう海堂は菊丸本人に問いかけたのだ。一体、どういうつもりなのかと。何故、自分に構うのかと。
 尋ねられた菊丸は、一瞬目を丸くして、数回瞬きをくり返すと、こう言った。
「なんかねえ、俺ねえ、……海堂のこと、好きみたいなんだあ」
 その時の、菊丸の顔を。桜色に染めた頬を隠そうともせず、やわらかく微笑んだ菊丸の表情を。海堂は、一生忘れないだろうと思った。
 
 
 その告白に、海堂は返事をしなかった。返せなかった、というほうが正しいかも知れない。驚きで、声が出なかったのだ。
 菊丸が返事を求めないのをいいことに、海堂は未だなにも言わないままだった。
 
 
 
 
「外、寒かったっすか?」
「うーん。さすがにねー」
「コートくらい、着てくればよかったのに」
「だあって、動きづらいじゃん?」
 菊丸は、学生服にマフラーだけの姿だ。まだ本格的な冷え込みではないとはいえ、これだけで寒さはしのげまい。
 海堂は部誌を閉じると、はーはーと息を吹きかけ続けている菊丸の両手を掴んだ。
「……海堂?」
 少しだけ背の低い菊丸が、戸惑ったように海堂を見上げてくる。
 その目の大きさに、海堂は少しだけどきりとした。
「別に、毎日、来なくたっていいんすよ」
「だあって、海堂、お昼は来ちゃだめって言うんだもん」
「あんた、午後授業ないんだから、当たり前でしょう」
「だあって、海堂に会いたいんだもん! 好きなんだもん、しっかたないじゃん」
 幼子のように口を尖らせて、不満だと訴えてくる。
「噂とか、流れてるし」
「うわさ?」
「俺があんたを、パシらせてるとか」
「はああ!?」
 噂のことなど、少しも知らなかったのだろう。菊丸は、大きく口を開け、ぽかんとした顔で海堂を見ている。
 傷つけてしまった、だろうか。もう来ないと、言うだろうか。もしかすると、顔を見るのは、これが最後になるかも知れない。
 そう思ったら、少しでも覚えておきたくて、どんな些細な変化も、見逃したりなどしたくはなくて。
 海堂は、菊丸の顔をのぞき込んだ。
 
 
 ぽろりと、こぼれ落ちる滴に、海堂は息を飲む。
「先輩……」
 菊丸が、泣いていた。
「ひどい、ひどいよ、なにそれっ! 海堂は、そんなことする奴じゃないのに!」
「……え?」
 なんだか予想外のことを言われたような気がして、海堂は間抜けな声を発する。
 どうやら、菊丸は怒っているようだ。
「だってさあ、海堂は、優しいじゃん。あんまり気づかれないけど、すごい優しいじゃん。動物だって好きだし、俺にだって、……。そんな海堂のこと、悪くゆうなんて、許せないっ」
「菊丸、先輩?」
「あーもー! 腹が立つ〜!!」
 叫ぶなり、菊丸は海堂の手を振りほどいて両手を振り回した。
 きーきーとわめきながら、憤怒で頬を赤くしている。
 本気で怒っているのだとわかって、海堂はずるりと椅子に座り込んだ。
「参った……」
「え? どしたの海堂、なんで笑ってんの〜?」
 どうやら、無意識に笑っていたらしい。菊丸が、不思議そうにこちらを見ている。
「あんたは、ほんとうに、おかしな人っすね……」
「ええ〜? なにがあ?」
 菊丸は、上げたままだった手を下ろし、首を傾げた。ああ、ほんとうに。
 
 
 持ちうる全てのもので、自分を好きなのだと表現してくるこの人を。
 愛しいと思うことは、間違っているのだろうか。
 
 
 間違っているのかも、知れない。
 同性同士の婚姻を認めない日本の法律を考えれば、それは火を見るよりも明らかと言うもので。
 
 
 それでも、この感情全てを否定することなど、到底できそうになかった。
 
「英二先輩って」
「え?」
「呼んでも、いいっすか?」
「あ……! ど、どうぞっ?」
 初めて名前で呼ばれたことに気づき、菊丸は耳まで赤くなる。こくこくと、壊れたおもちゃのように首を振り続けていた。
 
 
 名前だけで、ここまで反応されてしまったら。この想いを告げてしまったら、この人は一体どうなってしまうのだろう。
 
 
 少しの不安と。
 それから、期待を胸に。
 
 
 海堂は、再び口を開いた。
 
 
 
 【完】
 
 
 
 

 いただいたリクエストは、「菊丸×海堂。じゃれてくる菊丸に振り回されて困っている海堂で、菊丸→海堂っぽく可愛い感じのお話」でした。
 
 
 リクエスト、ありがとうございました〜!!
 
 
 
 
2004 04/25 あとがき