真夏の夜の夢(ジローと宍戸)


 一歩進むたび、足下からぎいぎいと不気味な音が聞こえてくる。踏みしめる床板は頼りなく、体重をかけたらいまにも穴があきそうだ。
 よく言えば歴史のある、悪く言えばただ古いだけの今時珍しい木造校舎。少し歩いただけで、自分の通っている学校とはずいぶん違うことがわかる。夜遅く、電気もつけずに進んで行くのは心許なかった。だが、いまさら戻ることは出来ない。
 少しも臆することなく、いつもと変わらない調子で隣を歩く幼なじみを、宍戸は恨めしげに見つめた。


 夏休みに入り、氷帝学園男子テニス部は合宿を行っていた。場所は、例年とは違い部長である跡部の所有する別荘だ。
 宍戸と鳳が自主練習から戻ると、皆は扉を開けたままの応接間でなにやら楽しそうに騒いでいた。
「どうしたんでしょう?」
「さあな」
 部屋の前で立ち止まった鳳に、宍戸は首を傾げながら答える。中の様子も気になったが、それより滝のように流れる汗をなんとかしたかった。
 部屋の前を素通りしようとした宍戸を見つけ、向日が声をかけてくる。
「あっ、宍戸! 鳳も! ちょっと来いよ」
「なんだよ? シャワー浴びてーんだけど」
 文句を言いながらも、いいからと招かれ、仕方なく宍戸は室内に入った。
「亮ちゃんいままで自主練? おつかれさま〜!」
 ぱたぱたと駆け寄ってきたジローが抱きつこうとするのを、汗をかいていることを理由に阻むと、宍戸はぐるりと中を見渡す。
「で、何やってんだよ?」
 なにかゲームでもしているのかと思ったが、テーブルのうえには紙とペンしかなかった。宿題でもやっていたのだろうか。だが、勉強の時間は夜に設けられていたはずだ。
「あんなあ、さっき散歩がてら岳人と買い出し行ってきてん」
「買い出し?」
「見て! 花火〜!」
 じゃーん、と効果音を口にしながらジローが大きな手持ち花火のセットを掲げる。
「おー。すげーじゃん」
「わあ、これ今日やるんですか?」
 宍戸が思わず声を発すると、鳳も嬉しそうに花火を見つめた。そうか、これで遊ぶ計画をたてていたのか。そう納得しかけた宍戸に、違うと滝が首を振った。
 向日が、にやにや笑いながら口を開く。
「実は、帰りに違う道とおったら、すげーもん見つけちゃってさ!」
「すげーもん?」
「そーそー。すっげー古い学校! もーすぐ取り壊すとかで、もう使ってないみたいなんだけど」
「そこで、肝試しやることにしてん」
 続けた忍足の言葉に、宍戸は目を見張った。
「肝試し?」
「えー! マジっすか?」
 隣で、鳳が目を丸くする。ちょっと怖いなあと、不安げな声を漏らした。
 ぞくりと身体が震え、冷房の効いた室内に汗が乾き、いつの間にか身体が冷えていたことに気づく。
「長太郎。シャワー行こうぜ」
「あ、はいっ」
 騒ぎ続ける面々を置いて、宍戸はシャワールームへ向かった。


 夕食の後、いつものメンバーで忍足と向日が見つけたという古びた校舎を目指した。外灯はほとんどなかったが、月が出ているおかげか足元は明るい。のんびりと、車の通らない道を歩いていく。
「あーあ、跡部の奴ノリ悪ィのー」
 頭の後ろで腕を組みながら、向日がつまらなさそうに石を蹴り飛ばした。
 合宿の責任者である榊の許可はとったものの、跡部には心底馬鹿にしたような顔でくだらないと切り捨てられたのだ。
「樺地も連れてっちゃ駄目とかゆーしー」
 余程樺地の背中におぶさりたかったのか、ジローも不満そうに口をとがらせる。向日と顔を見合わせ、うんうんうなずき合った。
「案外、怖いんとちゃうの」
「ふふっ。それ、本人の前で言える?」
「……俺に死ねっちゅーんか」
 滝の問いかけに笑みを引っ込めると、忍足は顔を青ざめさせる。
「でも、日吉が来たのは意外だったよなー」
 向日が、斜め後ろを音もなく歩く日吉を振り返った。日吉は表情を変えず淡々と答える。
「そうですか? 俺、けっこう好きなんです」
「肝試し?」
「あー、そういえば日吉よくそういう本読んでるよな」
 同じ学年の鳳が、思い出したように言った。
「ふーん。そーなんだ」
 日吉って変わった趣味してんなあと、向日が感心する。
 無言で歩く宍戸に、鳳が心配そうな顔を向けてきた。
「大丈夫ですか? 具合でも悪いとか……」
「別に。疲れただけ」
 話をするのも億劫だと、宍戸は顔の前で手を振る。
「そうですか……。あ、でも肝試しの後は花火ですからね! 楽しみですね!」
 盛り上げようとしたのか、鳳が声を張り上げた。いい奴だなと、宍戸は苦笑する。
 なにかあたたかいものが触れた気がして、宍戸は顔を上げた。ジローが、宍戸の手をとっている。
「どうした?」
「んーん」
 首を振って、ジローは宍戸の手を握ったまま振った。あたたかい、とぼんやり思う。ジローの黄色い髪が、目の前で揺れていた。


 目的地までたどり着いた一行は、目にした建物が想像以上に古く、いまにも音を立てて崩れ落ちそうなことに言葉をなくした。
「……これ、大丈夫?」
 やがて、滝が掠れた声で誰にともなく訊ねる。
「大丈夫ですか? 歩いたら床抜けるんじゃ……」
 元々あまり乗り気ではなかった鳳が、怯えたように後ずさった。
「大丈夫やろ。まわるコースは一階だけやし、抜けても落ちたりはせえへん」
「抜ける可能性はあるんですね」
 楽天的な忍足に、日吉が冷静に突っ込む。
 万が一床が抜けたりしたら、怪我をするかも知れない。全国大会を控えたいま、それだけは避けたかった。
「どうする?」
 困ったように振り向いた滝に、やめたほうがいいんじゃないかと宍戸は言いかける。
「だいじょーぶだって! 俺らがさっき入ったときはなんともなかったぜ?」
 明るい口調で、向日が宍戸の背中を叩いた。向日と忍足は、二人で校舎の鍵を借りに行き、肝試しのコースを考えたりと準備のために一度中へ入っているのだ。
「ぎいぎいゆうけど、まあ平気やろ。俺の実家もあんなもんやし」
「えー! 忍足んちって、こんなぼろいのー!?」
 ジローが、校舎と忍足の顔を見比べながら驚愕する。皆の目が集まって、忍足は困ったように身を引く。
「や、ぼろいのとはちゃうねんけどな? 木造なんは一緒やし、古いから歩くとぎいぎいゆうねん」
「ああ。ぼくんちもそんな感じだ」
 何度か遊びに行ったことのある滝の家を思い浮かべ、皆はなんだと納得した。
「どんだけぼろいのかと思ったぜー」
「ぼろいんじゃなくて、歴史があるって感じなんですね」
 にこやかに鳳がまとめる。
「で、肝試しは決行ってことでええんやな?」
 皆の顔を見回した忍足に、ひとつ溜息をついて滝が頷いた。
「ここまで来てこれで帰るってのもなんだし、ね」
「じゃ、ペアを決めよか」
「ペア?」
 忍足が取り出した紙袋に目を留め、宍戸は首をひねる。
「せや。二人一組で行くんや。さ、引いて」
 どうやら、先ほどテーブルに広げていた紙で作ったくじ引きらしい。手を入れようとした宍戸を、ジローが引き止めた。
「だめ! 亮ちゃんは俺と行くのー!」
 えっ、となぜか鳳が戸惑ったような声を発する。
「公平にいきましょうよー」
「だめ! 俺亮ちゃんとじゃなきゃ行かない!」
 宍戸の腕にしがみついて、ジローは頑として譲らなかった。ジローが宍戸絡みで我が儘を言うのは珍しくなく、またそういった場合の頑固さは皆わかっているため、仕方ないなと諦めムードが漂う。空気が変わったことを敏感に察知して、ジローはにっこり笑った。
「んじゃ、トップは俺と亮ちゃんね!」


 左手に懐中電灯を持ち、右手にジローを捕まえながら、宍戸は校舎の中へ足を踏み入れた。油断すると駆けだしてしまいそうなジローをくい止めながら歩くのは、なかなか骨の折れる作業だった。
「ジロー、ゆっくり歩けって」
「あ、ごめーん」
 何度目かわからない注意をすると、ジローは素直に速度を落とす。
 ぎいぎいと鳴る床に、宍戸は顔をしかめた。
 実は、誰にも言ったことはなかったが、宍戸はこういった場所が苦手なのだ。ホラー映画などは、自分には全く関係のない出来事だと割り切れるのでいちいち怖がったりしないが、実際自分が歩き回らねばならぬとなると話は別だった。
 楽しそうに歩くジローを恨めしく思いながら、宍戸は嘆息する。
 それでも、ペアを組む相手がジローでよかったと思った。幼なじみのジローなら、どんな失態を演じてもからかったり言いふらしたりはせず、笑って流してくれるだろう。これが忍足だったりしたら、ことあるごとに持ち出され、一生笑われ続ける羽目になったはずだ。
 少しだけ気楽な気持ちになって、宍戸は懐中電灯で先を照らす。闇の向こうに広がるのは、細長い廊下だった。
 どこまでも続くような気がして、少しだけ怖くなる。ジローは何も感じないのか、楽しそうに歌まで歌い始めた。
「なんか、聞いたことある歌だなそれ」
「トトロ〜!」
「ああ」
 幼稚舎の映画鑑賞会で上映されたことを思い出し、宍戸は頷く。
「そーいえばさー、覚えてる? 跡部がトトロにはまっちゃって!」
 おかしそうに口にしたジローに、宍戸も笑った。
「あー、トトロを見つけるんだって、山に潜ったりしたっけ」
「ねー! そのために山まるごと買っちゃってさあ、すごいよねー跡部」
「ばかだろ」
 思い出すとおかしくて、宍戸は先ほどまでの恐怖をすっかり忘れてしまう。
「跡部も来ればよかったのに。トトロは無理でも、まっくろくろすけぐらいならいそうだよねー」
「まっくろくろすけ出ておいでー、ってか?」
「いるかな?」
 ジローが、目を輝かせながら振り向いた。頭ごなしに否定する気にはなれず、宍戸はそうだなと肩をすくめる。
「いるかもしんねーけど、捕まえるのは無理だろ」
「手が真っ黒になっちゃうもんね! あー、たのしー!」
 繋いだ手を振り回して、ジローが叫んだ。嬉しそうなジローの様子に、なんだか宍戸まで心が弾んできた。
「見つけたら、跡部に自慢してやろうぜ」
「ね!」
 悔しがる跡部の顔を想像しながら、二人は奥へと進んでいった。


 指定された部屋が見えて、二人は足をとめる。
「ここか?」
「みたい」
「こん中に置いてある紙をとってくればいんだろ」
「かんたんかんたーん!」
 立て付けが悪いのか、扉はなかなか開かなかった。鍵が閉まってるわけじゃないよな。がたがたと揺すぶっていると、扉が微かに開く。
「あ、開いた!」
「よし、さっさと終わらせよーぜ」
 一気に開けると、宍戸は中を照らした。
 丸い光の中に、突如青白い顔が浮かび上がる。髪の長い、恨めしそうな顔をした女性。突然のことに、宍戸は我を忘れ大声をあげかけた。
「うわ……っ」
「亮ちゃん!」
 がしっとジローにしがみつかれ、やわらかいもので口をふさがれる。押されるように宍戸が一歩後ろにさがると、大きな音を立てて足下の床が抜けた。
「っ!」
 幸い大きな穴ではなく、ひっかかって尻餅をついただけで済む。
「びっくりした……!」
「亮ちゃん大丈夫? 怪我してない? お尻打った?」
 矢継ぎ早に問いかけられ、宍戸は腕の中におさまったままのジローを見た。ジローは、いつになく真剣な面もちをしている。
「ああ……。大丈夫だって。お前こそ、平気か?」
「なんともないよ! びっくりしたね〜」
 ジローは立ち上がると、まだぼんやりしたままの宍戸を引っ張り起こした。ばたばたと足音がして、懐中電灯の光が近づいてくる。
「すごい音がしたけど、大丈夫ですか!?」
「怪我してへんか?」
 どうやら、他の者が音を聞きつけて様子を見に来たらしい、焦った様子で駆けてくるのがわかった。
 床に開いた穴に、肝試しは中止の方向で話が進んでいく。皆の会話を聞きながら、宍戸はジローを見ていた。
 ジローは、眠たそうな顔で座り込んでいる。
 いつも通りのジローに、宍戸は自信がなくなった。さっきのは、自分の勘違いだろうか。確かにあのとき、叫び声をあげようとした自分の口をふさいだものは、ジローの唇だったと思ったのだが。


 結局肝試しは中止となり、近くの公園で花火をすることになった。一通り派手な花火をやり尽くすと、皆思い思いに手持ち花火に手を伸ばす。宍戸が花火を選んでいると、忍足が笑いながらやって来た。
「やー、まさかあっこで床が抜けるとはなー」
「びびったっつの」
「すまんすまん。てことは、中は見いひんかったわけや。残念」
「中?」
 忍足のわざとらしい口調に、宍戸はあのとき目にした光景を思い出す。懐中電灯の光で浮かび上がった、青白い顔をした女。
「あれ! あの女、なんだったんだよ!?」
「え? あれ、宍戸あれ見たん?」
「お前の仕業か!?」
「や、実はなー、なんもないとつまらん思て、がっくんと準備しにいったとき、ついでにポスター貼ってきてん。ホラー映画のやつやけど、ぱっと見びびるやろ? 宍戸とか日吉とかが叫んだりしたら、めっちゃおもろいと思ってんけど」
 宍戸はねずみ花火に火をつけると、忍足めがけて投げつけた。
「死ね!」
「うわ〜! なにすんねん!」
 ねずみ花火に追いかけられながら、忍足が逃げていく。それでも怒りはおさまらず、宍戸は仁王立ちで遠ざかっていく忍足をにらみつけた。
「なーんだ、忍足のいたずらだったのかー」
「ジロー」
 眠たげに目をこすりながら、ジローがやって来る。
「せっかく幽霊見たと思ったのに。跡部に自慢しよーともったのに。ねー」
「……それ、自慢になるのか?」
「なるって! あ、俺これにしよ! 亮ちゃんは?」
 花火を手に取ったジローに促され、宍戸も適当な花火を手に取った。火をつけて、ふたりで少し離れた場所へ移動する。
「きゃー! きれー! 亮ちゃん見て見て〜!」
 ぐるぐると花火を回しながら、ジローが光で空中に線を描いた。
「ばっか、あぶねーぞ。振り回すなって」
 ジローをたしなめると、宍戸は自分の花火を見下ろす。飛び散る火花に目を奪われながら、考えることはジローのことだった。


 帰り道、いまにも眠りそうなジローの手を引きながら、宍戸は一行から遅れて歩いていた。肩に頬を預けてくるジローを支え、ゆっくりと進んでいく。
「ジローさあ」
「んー?」
「……わかってたんだろ、俺がああいうの苦手だって」
 宍戸とペアを組みたいと言ったのも、何度注意しても早く先に進もうとしたのも、跡部の話を持ち出したのも、あのとき、──咄嗟に口をふさいだのも。ぜんぶ、意地っ張りで絶対に怖いなどと言い出せない自分のためだったのだ。
 何も言わないジローに、宍戸は心から感謝しながらありがとうと言った。
 ジローはぱっと宍戸にもたれていた身体を起こすと、明るい顔で振り向く。
「でもさでもさ、俺ちょっとラッキーかなあって!」
「ラッキー?」
「だあって、亮ちゃんとちゅーできたもんね!」
「なっ」
 あれは、もしかして狙ってやったのだろうか。にしし、と笑ったジローに、きっとそうなのだと確信した。
「お前なあ……、ばかだろ」
「跡部に自慢してやろーっと!」
「げっ! なに考えてんだ! それこそ自慢になんねーだろ……」
 跡部の軽蔑しきった目を思い浮かべ、宍戸は肩を落とす。
「えー! これがいちばん自慢になるんだけどなあ」
 首を傾げたジローに、まあいいかと思った。


 今日ばかりは、ジローの好きにさせてやろう。


【完】


2005 07/18 あとがき