04:屋上(忍足と跡部)
 
 
 忍足は、空を見ていた。見渡す限りの青空に、見ているこちらまで晴れ晴れとした気分になる。
 背後の扉から、神経質な足音が聞こえて、忍足は振り向いた。扉の向こうから覗く顔に、目を細める。
 予想通り、そこには跡部が立っていた。
「よお」
「ふん」
 愛想良く挨拶する忍足とは対照的に、跡部は不機嫌さを隠さず歩いてくる。
 全く予想通りの展開に、忍足は吹き出した。
「何笑ってやがる」
「いや、別に」
 笑いを収めると、忍足は跡部に向き直る。
 跡部の、その端正な顔が、今は少しだけ曇っていた。
 原因は、なんとなく見当がつく。
「あー、なんや俺、最近質問されてばっかやなあ」
「あん?」
「こっちの話や」
 健気な後輩を思いだし、忍足は肩をすくめる。
 正面に視線をやると、それで、と促した。
 跡部は忌々しげに忍足を睨み付けていたが、予鈴の音にようやく口を開く。
「礼を、言おうと思ってな」
「礼?」
「ああ。余計なこととはいえ、あいつを庇ってくれただろう?」
 これっぽっちも感謝の気持ちが伝わってこない跡部の言葉に、忍足はどうしたものかと苦笑する。
 それから、あの跡部が、礼を言う気になっただけでももの凄いことなのだと考え、ありがたく受け取っておくことにした。
「そりゃ、どうも」
「ふん」
 尊大に頷くと、跡部は忍足の眼鏡に手をかける。
 突然の動きに対処できず、忍足はまんまと眼鏡を奪われてしまった。
 跡部の行動が意味するものを想像して、忍足は青ざめる。
「な、なにすんねん、眼鏡返してや」
「これがないと、見えねえんだろ?」
「せやから、」
「壊さないようにっていう、俺様の配慮だ」
「そない配慮せんでええ! ってゆーか、壊すようなことすな!」
 当然、忍足の抗議が受け入れられることはなく、歪んだ視界に、跡部が腕を振り上げたのが見えた。
 
 
 
 
「酷い、酷いわ跡部……」
「うるせえ。手加減してやっただろうが」
 確かに、手加減はされたのだろう。瞬間目を閉じたのでよくわからなかったが、どうやら自分は殴られたのではなく、手のひらではり倒されたらしい。だが、それだけでも張られた頬の痛みは尋常ではなかった。
 眼鏡をかけ直すと、跡部の挑戦的な笑みが目に飛び込んできた。
 その表情に、これで跡部の気が済んだわけではないということがわかって、忍足は両手を挙げ、降参のポーズを取る。
「勘弁してや……」
「つまらねえ男だ」
 跡部はおもしろくなさそうに鼻を鳴らすと、横目で忍足を見た。
 その、何かを窺うような目つきに、忍足は首を傾げる。
 忍足が声をかける前に、跡部が口を開いた。
「お前、あいつに気があるのか?」
 恐らく、跡部はずっとそれを気にしていたのだろう。
 その、いつになく余裕のない口調に、忍足は軽く笑った。
「別に、そんなんとちゃうよ。ただ、」
「ただ?」
 ただ、あの時きっと、自分は嬉しかったのだ。
 事情があったにせよ、自分を頼ってきてくれて。
 他の誰でもない、自分を。
 
 
 震える身体があまりにもちっぽけで、哀れだった。
 そして、     。
 こいつのためなら、何でもしてあげたい。
 そう思わせるような何かが、あの時の宍戸にはあった。
「ただ、こう、なんや捨てられた子猫みたいでな」
「猫?」
「そうそう。俺ってほら、心優しい男やん? ほっとけなくってな」
 そういって笑う忍足を、跡部は訝しげに見つめてきた。
 しばしの間その視線に晒され、忍足は少しだけ困った。
「まあ、信じてやってもいいぜ」
「おおきに」
 忍足は大きく息を吐くと、強ばった身体をほぐす。
 それから、跡部の手に巻かれた包帯に気づいた。よほど不器用な人間が巻いたのであろう、それは軽くほどけかけていた。
「手、まだ治らんの?」
「ああ、もう殆ど治ったんだけどな。傷が見えると、ちゃんとしろってうるせえから」
 巻かれた包帯を撫でながら、跡部は何を思ったのか、見るものがうっとりとするような優しい表情を浮かべた。
 それが誰のためのものなのか、わかりすぎるぐらいにわかって、忍足はもう一度息を吐く。
 あの包帯がなかったら、跡部は拳で殴ってきたかもしれない。忍足は、あの包帯を巻いたであろう誰かさんを思い浮かべ、心の中で感謝した。
「いくんか」
「ああ」
 去っていく背中に、忍足は声をかける。
「あんなあ、跡部。俺はな、宍戸だけちゃうねん」
「あ?」
「お前のことかて、それなりに好いてんねやで?」
「……そんな感情は、今すぐ捨ててこい」
 顔を顰め、跡部はそう言い捨てた。
 派手な音を立てて閉じられた扉に、忍足は大笑いした。
「ほんま、わかりやすいやっちゃ」
 
 
 
 二人の仲を、邪魔する気はない。
 跡部を好きだというのも、本当。
 
 
 だから、いつまでも胸に秘めておこう。
 恋にすらならなかった、この想いは。
 
 
 宍戸を愛しいと想ったのは、そう遠くはない過去のこと。
 
 
 
 【完】
 
 
 
 
2004 01/05 あとがき