100:ありがとう (長太郎)
 
 
 
 鳳は、走っていた。
 鳳は二年生であったが、昼食はいつも部活の先輩達と一緒にとっている。
 今日に限って四時間目の授業が長引き、その待ち合わせに遅れてしまったのだ。
 最初は遅れるとメールを打とうと思ったが、それより走った方が早いことに気づき、現在に至る。
 氷帝学園中等部は、学年ごとに教室のある棟が別にあるため、他の学年の棟に足を踏み入れる者は滅多にいない。
 明らかに違う色の上履きとネクタイを締めた鳳の姿はただでさえ目立つと言うのに、その上走っている。
 通り過ぎざまにじろじろと見られ、鳳は少し恥ずかしく思う。
 だが、そんな視線よりも、鳳にとっては先輩達を待たせてしまっていることの方が重大だった。
 もしかして、先に食堂へ行ってしまっただろうか。
 そんな心配をしながら、鳳はとある教室をのぞき込んだ。
「おお、なんや鳳、走ってきたんか?」
「忍足先輩! すみません、遅くなって……」
「せやなあ、お詫びになんか奢って貰おうか?」
「俺ムースポッキー!」
 忍足にもたれるようにして寝ていたジローが、目覚めたのか唐突に手を挙げた。
 ジロちゃん起きてもうたんか、と忍足がその頭を撫でる。
 その様子に苦笑しながら、鳳はきょろきょろと辺りを見回した。
 肝心の、鳳にとって、その人に会うためだけに毎日三年棟へ通っていると言っても過言ではない相手の姿が見えなかった。
 待ちくたびれて先に行ってしまったのだろうか。
 怒った姿を想像して、鳳は顔を歪めた。
 途端に表情を曇らせた鳳を、わかりやすい奴だと忍足が笑う。
「宍戸なら、今日は休みやで」
「えっ!」
「亮ちゃん、具合悪いんだって〜」
 なんでもないことのように言う忍足に、鳳は食ってかかった。
「休みって、そんなに酷いんですか!?」
 自分との特訓で、どれだけ身体がぼろぼろになろうと、あの人は決して学校を休んだりしなかった。
 見ているこちらがつらくなるぐらい、満身創痍だったというのに。
 その宍戸が、学校を休むだなんて。
 一体どのぐらい酷い状況なのかと、鳳は不安でいっぱいになる。
「お、俺、お見舞いに……っ」
「あほ。ちょっと熱出てもうてんて。うつしたないから、誰も来るなゆうとったわ」
「熱が……? 風邪、でしょうか」
「そんなとこちゃう? 最近冷え込んできたしな」
 さすがの宍戸も、熱には勝てんかったみたいや。そう言って笑う忍足に、鳳は違和感を覚えた。
 どこがどう、とは言えないのだけれど。
 黙り込んだ鳳を見つめた後、忍足は食堂へ行こうと立ち上がった。
 
 
 
 
 見舞いに行くことは諦め、せめてメールでもと携帯へ送った。
 宍戸からの返事は、なかった。
 元々筆無精なところのある宍戸のことだから、それは決して珍しいことではない。
 それでも、もしかしたらメールも打てないぐらい具合が悪いのではと、鳳は心配になった。
 だから数日後、登校する生徒の群れの中に宍戸の姿を見つけたときは、とても喜んだ。
「宍戸さん! おはようございますっ! もう大丈夫なんですか?」
 後ろから駆け寄って、そう声をかける。
 宍戸は、一瞬びくりと肩を揺らして、振り返った。
 久々の宍戸さんだ、とゆるむ頬を抑えられずにいる鳳に目を遣って、息を吐く。
「な、なんでそこでため息つくんですか!?」
「あ? ちげえよ、別にため息ついたんじゃねえって。ただ……」
「ただ、なんですか?」
 なんだというのだろう。
 何か自分は、宍戸の機嫌を損ねるようなことをしてしまったのだろうか。
 メールを送ったりして、迷惑だったのだろうか。
 そんな気持ちが顔に出ていたのか、宍戸に、んな顔すんじゃねえよ、と笑われた。
「だって、だって宍戸さんが〜!」
「っはは、俺のせいかよ?」
「宍戸さんのせいですよ!」
 自分の感情を動かすのは、いつだって宍戸なのだ。
 今だって、そんな風に無防備に笑ったりして。
 そんな些細なことで、俺がどれだけ動揺しているかだなんて、きっとこの人にはわからないのだろう。
 しばらく鳳を見て笑っていた宍戸が、急に顔を強ばらせた。
 その変化に、鳳は何があったのかと背後を振り向いた。
「……よお。暫く姿を見なかったから、やめたのかと思ったぜ」
 いつの間に来ていたのか、跡部が皮肉げな口調でそう言った。
 いつもなら言い返すはずの宍戸が、何故か俯いてしまったのを不思議に思いながら、
「何言ってんですか! 宍戸さんは、熱を出して寝込んでただけです」
「アーン? 体調管理もできねえのか、てめえは」
「仕方ないじゃないっすか! そういう時だってあります!」
 病み上がりの人間になんてことを言うのかと、鳳は宍戸を庇う。
 まだ本調子ではないのか、宍戸は無言で立っていた。
「もう行きましょう、宍戸さん」
 宍戸の背を押して、鳳は歩き出す。
 後ろから跡部の舌打ちが聞こえてきた。
 それから、「ばかな男だ」という呟きも。
 その言葉に含まれたニュアンスに、鳳は思わず振り返っていた。
 跡部は黙って、去ってゆく二人を見ている。
 否、二人ではなく、その視線はひたすら宍戸に注がれているようだ。
 その意味を考える前に、鳳は強く宍戸の背中を押す。
 跡部の視線から、宍戸が逃れられるように。
 
 
 鳳は、自信があった。
 自分が一番、宍戸を好いていると。
 自分より宍戸を想う人間など、きっとこの世には存在しない。
 そんな自信が、なんだか揺らぎそうな気がして。
 宍戸を三年の昇降口に押し込めて、鳳はほっと息をついた。
 その横を、跡部が通り過ぎていく。
 宍戸と跡部のクラスは、確か階が違う。
 だから、二人が日中言葉を交わすことはないはず。
 そうは思ってみても、鳳の不安は拭いきれなかった。
「鳳」
「はいっ」
 突然声をかけられ、鳳は反射的に返事をする。
 その勢いに驚いたのか、忍足が目を丸くしていた。
 恥ずかしくなり、鳳はうつむき気味に挨拶をする。
 その頭を、忍足の手が撫でた。
「忍足先輩……?」
「おおきに」
「え?」
 なんのことを言っているのかと、鳳は顔を上げる。
 忍足は、困ったように微笑みながら、
「後は、俺に任せとき」
 それだけ言うと、忍足は下駄箱へ姿を消した。
 忍足の消えた方向を見ながら、鳳は確信する。
 自分が、跡部から宍戸を庇っていたのを、忍足は見ていたのだ。
 
 
 何故、宍戸ではなく忍足が礼を言うのか。
 一体、何があったというのか。
 わからないことばかりだったが、予感がした。
 
 
 何かが変わってしまいそうな、予感。
 
 
 
 【完】
 
 
 
 
2003 11/28 あとがき