14:時間(ジロー)
 
 
 騒がしい声に、ジローは窓の外へと目を向けた。
 校庭では、どこかのクラスが体育を行っているらしい。
 体操着の群れに宍戸の姿を見つけ、ジローは閉じかけた瞼を懸命に開いた。
 ジローは、宍戸を見るのが好きだ。
 宍戸はとても真面目で真っ直ぐで、そのはっきりとした物言いが、見ていて気持ちよかった。
 宍戸の表情が曇っていると、ジローは自分の知らないところで何かあったのではないかと不安になる。
 だから宍戸が笑っていると、ジローは安心することができた。
 宍戸がそこにいるだけで、とても幸せだとジローは思う。
 そして、その隣に跡部がいれば完璧だ。
 跡部と宍戸とジローの三人は幼なじみで、昔から何かとつるんでいた。
 ずっとずうっと、自分たちは長い間、同じ時間を過ごしてきた。
 それは、これから先も続くはずだった。
 少なくとも、ジローはそう信じていた。
 だけど今、宍戸の隣にいるのは、跡部ではなく忍足だった。
 
 
 得点を決めた忍足の手を宍戸が嬉しそうに叩いたのを見て、ジローは視線を窓の外から黒板へ戻す。
 宍戸も跡部も存在しない教室は退屈で、教師の話はちっとも頭に入ってこない。
 眠りたいのに、眠れなかった。
 こんなことは初めてかも知れない。
 お腹の中がぐるぐるして、とても気分が悪い。
 力無く机に突っ伏して、ジローはそういえば、と思った。
 
 
 そういえば昔、一度だけ眠れなくなったことがある。
 
 
 何が原因だったのか宍戸と跡部が喧嘩をして、全く口をきかなくなってしまったのだ。
 夜になっても眠れなくなり、三日も経たない内にジローは倒れて保健室に運ばれてしまった。
 あの時、ジローが目覚めると宍戸と跡部の心配そうな顔があった。
 喧嘩したことなどすっかり忘れたように、ジローが目覚めて良かったと二人は笑っていた。
 
 
 もしも今、同じように自分が倒れたら。
 二人は、一緒に駆けつけてくれるだろうか。
 少し前なら、確実にそうだと言い切れた。
 だけど今は、今、宍戸と一緒に来るのは忍足なのだろう。
 もう、宍戸と跡部が並んだところを見ることはできないのだろうか。
 どうして、こんなことになってしまったのだろう。
 どこをどう間違ったのだろう?
 もう、元に戻るのは不可能なのだろうか。
 ジローは、痛む腹に手をやった。
 気分が悪い。吐きそうだ。
 
 
 
 
 部室のふかふかなソファーでなら眠れるかも知れないと授業を抜け出してきてみたが、一向に眠気はやってこなかった。
 それでも横になって目を閉じていると、扉を開け、誰かの入ってくる音が聞こえてきた。
 ここは正レギュラー用の部室だから、きっとその中の誰かなのだろう。
 宍戸ならいい、とジローは思った。
 今はもう、宍戸を見ても哀しい気持ちにしかなれないが、それでも宍戸だったらいいと思う。
 宍戸に、聞きたかった。
 どうしてこんなことになったのか。
 何をどう間違えてしまったのか。
 そして、──。
「なんやジロちゃん、こんなとこでお昼寝しとったん?」
 一番会いたくなかった人物の声が聞こえ、ジローは閉じていた目を開ける。
 自然と睨むような目つきで、忍足を見上げた。
 忍足は荷物を取りに来たらしく、自分のロッカーを開けているようだ。
 目当てのものを取り出して鍵を閉めると、笑いながらジローを見下ろしてきた。
「ジロちゃん、寝起きでご機嫌斜めなんか? なんや怖い顔しとるわ」
 誰のせいだと思ってるんだ。
 ジローは、決して元から忍足を嫌っていたわけではない。
 それどころか、何かと親切にしてくれる忍足を、それなりに好いていた。(もちろん宍戸と跡部には負けるが)
 だけど今は、いや、今も別に嫌っているわけではない。
 ただ、ジローは腹を立てていたのだ。
「ジロー? 顔色悪いで、保健室行くか?」
 黙り込んでいるジローの頬へ、忍足が手を伸ばしてくる。
 音を立てて、ジローはその手を振り払った。
 少々赤くなった手をさすりながら、忍足は曖昧に微笑んだ。
「なんや、えらい嫌われてもうたなあ」
「べつに、嫌ってなんかないよ。ただ俺は、」
「俺は?」
 静かに問いかけてくる忍足に、ジローは目線を合わせようと起きあがった。
 挑むように、忍足の目を見つめる。
「俺は、亮ちゃんと跡部の味方だから」
「……ジロちゃんは、優しいなあ……」
 ぽんぽんと、忍足はジローの頭を軽く叩いて出ていく。
 忍足が出ていったあと、ジローは瞬きもせずにいた。
 そっと、忍足の手が乗った部分に自分の手をやる。
 どうしてだろう。
 どうして、忍足はあんなに哀しそうな顔をしたのだろう。
 ジローの頭を叩きながら、忍足はつらそうに目を伏せた。
 何かが、食い違っている気がする。
 今の今まで、忍足が無理矢理宍戸を奪ったのだと、ジローはそう考えていた。
 だけれど、もしかして。
 その考えは、間違っていたのかも知れない。
 一体、宍戸と忍足の間に何があったというのだろう。
 いくら考えても、ジローにはわからなかった。
 だけど、これだけは確かだと思う。
 亮ちゃんの隣にいていいのは、跡部だけ。
 亮ちゃんに触れていいのは、跡部だけなんだ。
 
 
 だってあの二人は、お互いを必要としているのに。
 どうして、すれ違ってしまうのだろう。
 
 
 どうしようもなく胸が痛んで、ジローは涙をこぼした。
 
 
 
 
 それは、目に見えてわかる変化ではなかった。
 少しずつ少しずつ、とてもゆっくりとしたスピードで、でも確実に、宍戸と跡部は、お互いに惹かれていった。
 それに気づいたのは、ジローだけだったのかも知れない。
 ずっと三人でいたからこそ、気づけたことだったのかも知れない。
 ジローは宍戸を大好きで、跡部のことも大好きだったから、だからわかったのだろう。
 口には出さなくとも、二人がお互いを必要としていること。
 
 
 以前跡部の家に泊まりに行ったとき、ジローは聞いたことがあった。
 跡部は亮ちゃんのことが好きでしょう、と。
 顔色一つ変えず、跡部はああ、とだけ言った。
 跡部らしい答えだと、ジローは笑った。
 それから、どうして告白しないの、とも訊ねた。
 跡部は、少しだけ片眉を上げて、大切だから、と答えた。
 自分の想いは強すぎるから、今のままだとあいつを壊してしまうかも知れない。
 もう少し自分を抑えられるようになったら、言うつもりだ。
 だから、まだ言えない、と。
 それを聞いたジローは、はやくその日がくればいいのに、と言った。
 亮ちゃんは、きっといつまでも待ってるよ、跡部のことを。
 はやくしないと、先に俺がちゅーしちゃうんだからねっ。
 ジローがそう言ったら、跡部は拗ねてしまった。
 
 
 ムッとした表情でそっぽを向く跡部を思いだし、ジローは吹き出した。
 再びソファーに転がると、置いてあったクッションを抱きしめる。
 宍戸は、もう跡部を待つのをやめてしまったのだろうか。
 跡部は、宍戸を待たせすぎてしまったのだろうか。
 
 
 ずっとずっと、夢見ていた。
 思いが通じ合った二人を見て、嬉しそうに笑う自分。
 そんな自分を、何やってんだジロー、と笑いながら二人は呼び寄せるのだ。
 そしていつまでも、三人で仲良く過ごすのだと。
 それは、近い将来実現する夢なのだと、そう思っていた。
 そう、信じていた。
「亮ちゃん……」
「ジロー!?」
 頭上から降ってきた声に、ジローは一瞬夢を見ているのかと思った。
 見上げたそこには、宍戸の心配そうな顔があったから。
 ジローが起きていることに気づき、宍戸は傍らにしゃがみ込んだ。
「ジローが、具合悪そうにしてるって聞いて……」
「……忍足に?」
 ジローがそう聞くと、宍戸は決まりの悪そうな顔で頷いた。
 ほらね、やっぱり。
 跡部は、一緒に来なかった。
 思った通りだったことがおかしくて、ジローは微かに笑った。
「ジロー?」
「ねえ、亮ちゃんは、どうして忍足とつきあってるの?」
「どうしてって……」
「忍足のこと、好きでもないのに」
「……」
 宍戸は何かを言おうと口を開いたが、ジローの目に気圧されたのか、そのまま閉じてしまう。
 落ち着かない様子で、視線を辺りに彷徨わせている。
 こんな宍戸は、見たことがなかった。
 ジローの知っている宍戸は、いつだって真っ直ぐに前を見ていた。
 転んでもぶつかっても、決して諦めたりせずに、ただひたすら前だけを見ていた。
 それはきっと、前に跡部がいたからだとジローは思う。
 宍戸は、ずっと昔から、跡部の背中だけを見ていて、ジローはそんな宍戸が大好きだった。
 それが今は、俯いて視線を合わせようともしない。
 真っ直ぐすぎるから、嘘を吐いたり、言い訳をしたり、絶対できない人なのに。
 そんな宍戸が大好きだったのに。
 宍戸がそれをしようとしているのは、何故なのだろう。
 それは一体、誰のためなのだろう。
 何が、宍戸をここまで追いつめてしまったのか。
 
 
 聞きたいことは、たくさんあった。
 でも、一番聞きたいことは、今聞かなくてはいけないのは、これだ。
「亮ちゃんは、跡部のことが好きでしょう?」
 その問いに、宍戸は弾かれたように顔を上げる。
 じっと見つめるジローに、暫し迷うような素振りを見せた後、宍戸は小さな声で呟いた。
「……ああ」
 跡部と同じこと言うんだなあ。
 やっぱり、亮ちゃんにお似合いなのは、跡部だけだよ。
 ジローはとても嬉しくなって、やわらかく微笑んだ。
 今なら、眠れるかも知れない。
 
 
 
 【完】
 
 
 
 
2003 12/06 あとがき