46:約束(長太郎)
 
 
 
 今にして思えば、一目惚れだったのだと思う。
 
 
 
 中等部へ入学してすぐ、どの部に入ろうか決めかねていた鳳は、とりあえず一通り見て回ろうと校庭へ向かった。鳳は当時から恵まれた体格をしていたため、どこへ行っても是非うちの部へ、と勧誘をされた。その勢いに些か辟易しながら、鳳は逃げるように校庭の端へと歩いていった。
「へえ……、結構本格的にやってるんだなあ」
 テニスコートまでたどり着き、鳳は足を止めた。そういえば、氷帝はテニス部が強いという話を誰かがしていたような。監督が厳しい人で、部の方針として一度でも負けた者は二度と使ってもらえないとかなんとか。生まれつき優しい性分の鳳には、どうにも肌が合わないような気がした。
 その場から立ち去ろうと、鳳は止めた足を再び動かした。そこへ、どこからかボールが転がってきた。
「ジロー! お前、どこ飛ばしてんだよっ」
「えへへ、ごめんごめん」
 部室棟の影から出てきた人物に、鳳は目を向ける。どう見ても男だというのに、長い髪をなびかせながら歩いてくる。どうやら、ジローなる人物と壁打ちをしていて、ボールを飛ばしてしまったらしい。
 鳳は足下のボールを拾うと、その男に差し出した。相手の、前髪の間から覗く眼差しのきつさに、鳳は一瞬身体を竦ませる。別に、悪いことをしたわけではない、むしろ親切をしたはずなのに。なんだか怖そうな人だ、と鳳は関わってしまったことを後悔した。
 ボールを受け取ると、男は礼を述べ、微かに笑みを見せた。笑うと一転して幼くなる表情に、鳳は文字通り目を奪われる。なんだか、そこだけが別世界のような錯覚に陥った。目の前のこの人は、ほんとうに、現実に存在する人なのだろうか? そんな疑問さえ浮かんでくる程、鳳はその男に釘付けだった。
 黙り込んだまま凝視する鳳に、男は首を傾げる。それから、ああ、と言った。
「お前、もしかして入部希望? だったら、こっち来て名前書いて」
「え、あ、あの」
「なんだ? 違うのか?」
 その問いかけに、鳳は思わず、違わないです、と答えていた。
 
 
 あれから、ずっと。自分は、宍戸だけを見つめてきた。いつだって、どんなときも。宍戸の怒った顔、笑顔、拗ねた表情、照れたときの仕草。全てを見逃さないよう、懸命に見続けてきた。何一つ、見逃さないでいたつもりだった。
 それでも、きっと自分は何かを見落としてしまったのだろう。何かに、気づけなかったのだろう。
 だから、こういうことになったのだ。
 
 
 今、鳳の隣に宍戸はいなかった。
 
 
 
 
「なんや、せつない顔しとるなあ」
「忍足先輩」
 廊下の窓から外を見下ろしていた鳳に、忍足が声をかけてきた。鳳は何も言わなかったが、その視線の先を辿ったらしい、忍足が苦笑する。それが癪に障って、鳳は仏頂面を隠さず忍足に向き直った。
「なにか、用ですか」
「そない怖い顔せんでもええやん」
 困った顔で笑うと、忍足は隣に立って、先程の鳳と同じように窓の外へ視線を落とす。そこには、停学処分がとかれたばかりの跡部とジロー、それから、宍戸がいた。跡部はテラスの席に腰掛け、何か課題のようなものをやっているようだ。宍戸は近くの木陰で、ジローに膝枕をしてやっている。見ている者の心を和ませるような、そんな穏やかな空間が広がっていた。自然と、忍足も目元を和らげる。
 その忍足の表情の変化を間近で見て、鳳は握った拳を震わせた。
「忍足先輩は、なんとも思わないんですか?」
「仲良しこよしで、ええんちゃうの」
 そんな答えが、聞きたかったわけではない。鳳は、普段の温厚さをどこかへ忘れてきてしまったかのように、声を荒げた。
「俺は、そんな風に思えません! ……俺は、……」
「鳳。……場所、変えよか?」
 ここでは、人目に付きすぎる。事実、通りがかった生徒が目を丸くして振り返っていた。忍足に言われるまま、鳳は特別棟の屋上へ足を運んだ。
 
 
 
 
 特別棟とは、その名の通り普段の授業では使われることのない教室がある棟で、滅多に人の出入りはなかった。手すりにもたれる忍足に、鳳は真剣な面もちで向き直る。聞きたいことは、たくさんあった。
 ある日突然、宍戸が忍足とつきあい始めたと聞いた。それだけでも、鳳は心が引き裂かれるぐらいのショックを受けた。女の子とつきあうというのなら、まだわかる。だが、相手が同じ男で、しかも自分も良く知っている人物だなんて。確かに、二人がよく一緒にいることは知っていた。だがそれは、クラスや部活が同じだからなのだと思っていた。お互い、相手を好きだとかそんな素振りを見せたことはなかったはずだ。だって自分は、ずっと宍戸を見つめてきたのだから。どんな些細な変化にも、自分なら気づけたはずだった。そう、信じていたのに。
 そのショックもさめやらぬまま、今度は跡部とジローが停学処分を受けた。頑として理由を話さない二人に、校内では様々な憶測がなされていたが、鳳は確信を持っていた。これは、宍戸に関係のあることなのだと。あの二人が、自分に不利だとわかっていながら、それでも行動を起こすとしたら、それは宍戸のためだとしか考えられなかった。そうわかってはいても、宍戸に直接聞くことはためらわれた。ためらっている内に、理由のわからぬまま二人の処分はなかったことにされ、今に至る。
 何もかも、わからないことだらけだった。
「多分な、俺ならお前の知りたいこと、全部知っとる思うで。でも、話されへんこともある」
「……忍足先輩は、宍戸さんのことを、ほんとうに好きなんですか」
 自分の発した声の弱さに、鳳は少しだけ驚いた。落ち着かなくてはと、固く握りしめた拳を反対の手でさする。そんな鳳に、忍足は首を振ってみせた。
「宍戸のことは好きやけど、そういうんとはちゃうで」
「なら、どうして……っ!」
 どうして、宍戸とつき合っているなどと口にしたのか。そして、宍戸もそれを否定しなかったのか。あの、病欠していた宍戸がようやく姿を見せたあの日。宍戸の身体に残っていた痕跡は、一体誰がつけたものだというのか。
 睨み付けるように見つめると、忍足は眉根を寄せながら頭をかいた。
「そのへんは、追求せんといて。宍戸のプライバシーに関わることやから」
「それは、……わかりました」
 本当は、知りたかった。でも、宍戸が秘密にしていることを、無理矢理暴くような真似はしたくない。うなだれる鳳に、忍足はお前はええ奴やな、と肩を二回ほど叩いた。
「ほんとうは」
 掠れた声でそう言うと、鳳は顔を上げる。その目は忍足に向けられていたが、鳳には何か違うものが見えているようだった。
「ほんとうは、俺、気づいていたんです。あの日、宍戸さんの様子がおかしいって。跡部部長も、忍足先輩も、なんかおかしいって。気づいて、いたのに……」
 気づいていたのに、確かめることをしなかった。無理矢理、普段と同じように行動しようとした。宍戸さん宍戸さんっていつものようについて回ったら、なにもなかったことに出来るんじゃないかって。自分は、本能的に悟っていたのだと思う。宍戸の身に起こった「なにか」を、自分ではどうすることもできないだろうと。自分の力で解決してあげられる自信がなかったから、見て見ぬ振りをした。宍戸が悩んでいることに、気づいていたというのに。いつだって、自分は、宍戸だけを見つめてきた。どんな些細な変化にだって、気づくことができた。
「それでも、俺、どうすることもできなくって……」
 話を聞いてあげるという選択肢すら、自分の意志で放棄したのだ。だからきっと、こういう展開を迎えたのは、自業自得なのだ。何もかも蚊帳の外のまま話が進んだのは、自分が逃げ出したせいなのだ。だから、自分には誰も責めることは出来ない。
「俺、何もしてあげられなかった。宍戸さんが、なにか辛い目にあってるって気づいてたのに、俺……っ」
「そんなこと、ないで?」
 優しい声音が耳に届いて、鳳は目を見張った。目の前では、忍足が優しい笑みを浮かべている。
「俺は、宍戸ちゃうから、ほんまのことはわからんけどな。宍戸、あのとき安心してたと思うで? お前が、いつも通りに接してくれて。あいつは何も言わへんけど、内心感謝しとったんちゃうかな」
 いつもの、茶化すような表情ではなく、胸が痛くなるような笑みを見せる忍足に、鳳は真実を述べているのだと思った。自分を慰めようと適当に言っているのではなく、忍足は心からそう思っているのだと感じた。
 握っていた拳を胸元へ持っていくと、鳳は目を伏せて問いかける。忍足の言葉に、縋りたかったのかも知れない。
「そう、でしょうか……」
「そうやって。だから、そない自分を責めることないで? それに、きっと。あいつらは、一番ええ形に収まったんや。これで、良かったんよ」
 そう言って、忍足は振り返って中庭に視線を移した。後を追うように、鳳も隣に立つ。課題を終えたのか、今跡部はテラスではなく、宍戸の隣に座っている。時折ジローの頭を撫でては、宍戸と言葉を交わす。その目が、物語っていた。宍戸への想いを、今の幸せを。それはきっと、宍戸も同じことなのだろう。宍戸の口元には、絶えず笑みが浮かんでいた。
「でも、やっぱり俺、悔しいっす」
「っはは。泣いてもええで?」
 からかうような口調で言う忍足に、鳳は口を尖らせる。冗談や、と言って忍足は屋上を後にした。一人残った鳳は、そのまましばらく宍戸を眺めていた。
 やっぱり、好きだ。見れば見るほど、愛しさが募る。意外と大きな目が、笑うと細くなるところ。照れ隠しに怒ってみせるところ。子供っぽくて、負けず嫌いなところ。余裕綽々って顔してても、すぐムキになるところ。乱暴で、口が悪くて、でもほんとうは優しいところ。話題にすると、テニスやるのに関係ねえ、と怒り出す身長のこと。無数の傷跡は、俺が特訓でつけたものだ。何やってんだ、とけっ飛ばしてくる足。サーブを決めると、やったな、と肩を叩いてくれる手。
 
 
 長太郎、と俺の名を呼ぶ声。
 俺を映す、少しきつい目。
 
 
 名前を呼ばれるだけで、涙が出そうになるぐらい。
 ほんとうに、好きで。大好きで。
 その、真っ直ぐな瞳で、自分だけを見てくれることを。どれだけ、願ったことか。
 どれだけ、焦がれたことか。
「宍戸さん……」
 宍戸さん、俺、やっぱり、あなたが好きです。好き、なんです。想っているだけなら、許されるでしょうか。胸に秘めていれば、大丈夫でしょうか。俺、どんなにつらくても、苦しくても、あなたを悩ませることだけはしたくないんです。俺のせいで、あなたの笑顔を失うのは嫌なんです。絶対絶対、口にしたりしませんから。だから、これからも、あなたのそばにいていいでしょうか。
「長太郎?」
「……っ」
 耳に飛び込んできた声に、鳳はまさか、と思った。いつの間にか頬を伝っていた涙のせいで、視界が曇っている。慌てて拭うと、鳳はまず中庭に目を落とした。先ほどまでそこにいたはずの宍戸の姿は、なかった。
 と、いうことは。
「宍戸さん……?」
「お前、泣いてたのか? どうした、なにかあったのか?」
「あ、これは、ちょっとゴミが目に入って! 大丈夫っす!」
「なんだ……。忍足の奴が、お前の様子がおかしいとか言うから、心配したぜ」
 忍足が宍戸をここへ呼んだのだとわかって、鳳は苦笑した。きっと、忍足なりの気遣いなのだろう。
 宍戸は鳳の元へ近寄ると、ぽんとその胸を叩いた。
「あのよお。俺さ、あんま頼りになんねーかもだけどさ、なんかあったら言えよ?」
 それだけ言うと、宍戸は照れたのか帽子を下げるような仕草をした。それから、制服なので帽子をかぶっていなかったことに気づき、困ったように手を振り回す。鳳が吹き出すと、笑うな、と言ってすねを蹴られた。
「あ、それなら、俺一つお願いがあるんすけど」
「おう、なんだ?」
 なんでも言ってみろ、と胸を張る宍戸に、鳳は真剣な顔で願いを口にした。
「俺以外の奴と、ダブルス組まないでくださいね」
「はあ?」
 なんだそんなことか、と宍戸は拍子抜けしたように肩をすくめる。宍戸にとっては「そんなこと」かも知れないが、自分にとっては大げさじゃなく、これからの人生を左右するぐらい重大なことなのだ。鳳がそう言う前に、宍戸が口を開いた。
「んなの、当たり前じゃねえか」
「え?」
「俺だって、お前以外と組む気なんかねえよ」
 そう言って笑う宍戸に、鳳は、もう死んでもいい、と思った。
 だって宍戸が、自分とのことを考えていてくれたのだ。
 宍戸の考える未来に、自分の居場所があったのだ。
 
 
 例えそれが、自分の望む形ではないとしても。
 鳳には、それだけで充分だった。
 
 
 
 
「絶対、約束ですからね」
「ああ、わかってる」
 自分は幸福だと、鳳は思った。
 
 
 
 【完】


 
 
 
2003 12/23 あとがき