67:喧嘩(跡部)/前編
 
 
 
 外の空気に触れたくて、昼休み、跡部は中庭のベンチに腰掛け本を読んでいた。ゆっくりとページをめくっていると、その上に影が落ちる。跡部が怪訝に思って顔を上げると、いつの間に来たのか滝が立っていた。
「邪魔だ。そこに立つな」
「はいはい」
 跡部の言葉に肩をすくめると、滝はそれでも笑みを絶やすことなく跡部の脇に移動した。どうやら、自分が相手をするまで立ち去るつもりはないようだと判断し、跡部は本を閉じる。その様子を楽しそうに見ていた滝は、視線を跡部の膝に移した。そこでは、ジローがすやすやと寝息を立てている。
「珍しいんじゃない? ジローが宍戸と一緒にいないなんて」
「何が言いたい」
 跡部と宍戸とジローの三人は幼なじみであったが、ジローは宍戸と行動を共にすることが多い。それは、宍戸とジローの教室が近いこともあったし、跡部が一人で居ることを好むからでもあった。だが一番の理由は、宍戸から少しでも目を離すと、何をしでかすかわからないからだろう。最近は、宍戸に懐いている後輩に対する牽制の意味合いもあったようだ。いつだったか、「だって亮ちゃん嫁入り前なのに、何かあったら大変だもん」などと冗談めかして言っているのを聞いたことがあった。
「そんな怖い顔しなくってもいいじゃん。まあ、宍戸は宍戸で忍足にべったりみたいだしね?」
「……」
 滝の含んだ物言いに、跡部は眉根を寄せる。一体何が言いたいのか。宍戸と忍足はクラスが一緒なのだから、二人で居ても何ら不自然なことはないはずだ。それでも滝は、跡部から何らかの返答を求めているようで、じっと見下ろしてくる。俺の知ったことか、と突っぱねるのは簡単であったが、それで滝が納得するとも思えない。どうあしらおうかと思案していると、痺れを切らしたのか滝が口を開いた。
「振られちゃったんだ? かわいそうに」
 揶揄するような滝の口調に、跡部は顔を顰める。事実がどうであろうと、滝に口出しされる謂われはない。
「跡部は、振られてなんかないよ」
 寝ているとばかり思っていたジローが答えたので、跡部は少しだけ驚いた。ジローは跡部の膝に寝ころんだまま、口を尖らせて滝を見ている。
 手をぶらぶらと動かして、
「亮ちゃん、跡部のこと好きだもん」
 そう言うジローの真っ直ぐな瞳に、滝は苦笑いをした。それから、ごめんごめんと頭を下げる。
「少し意地悪しちゃったみたいだね。でも、ぼくもジローと同じ気持ちでいるよ」
 滝の言葉に、跡部とジローは同時に首を傾げた。それがおかしかったのか、滝は盛大に吹き出す。口元を手で覆いながら、肩を震わせている。
 跡部が憮然とした表情で続きを促すと、滝はようやく笑いを収めた。
「跡部と宍戸が、早く仲直りできたらいいねってこと」
「別に喧嘩なんかしてねえよ」
「そうだった? でもさ、見てる方としたら気持ち悪いんだよね、今の二人って。お互い意識してるくせに無視しあっちゃって。だから、早くなんとかなってよ」
 うんうん、と一人頷きつつそう言うと、滝は笑顔で去っていった。その背に手を振りながら、ジローは先ほどまでの不満そうな表情とは打って変わったような笑顔で跡部を見上げてくる。
 えへへ、と笑うジローに、跡部も目を細めた。
「良かったね跡部! 滝も味方してくれるって!」
「嬉しかねえよ」
「じゃあ、かわりに俺が喜んどく!」
 横になったまま、ジローは「ばんざーい」と手を振り上げる。
 その手が脇腹に当たって、痛えよ、とジローの額を小突いた。
 そんなことすら楽しいらしく、ジローは突かれた部分をさすりながら一人にこにこ笑っている。
 全く、その楽天的な部分を分けて貰いたいぐらいだぜ。
 そんな、自分が自分であることに誇りを持っている跡部には似つかわしくない考えまで浮かんできて、どうやら自分はこの状況に相当参っているらしいと気づいた。
 そして、跡部は実感した。どれだけ自分が宍戸を欲しているのか。どれほど、想いを寄せているのか。
 本当なら、今すぐ忍足の髪を掴んで引きずり倒し、その首を絞めながら、どういうつもりだと問いつめたいぐらいだった。
 だが、そんなことをすれば、事態は自分にとって悪くなる一方であろうことは、容易に想像がついた。
 何より、宍戸を哀しませるのは本意ではなかった。
 一体、何をどうすればよいのか見当もつかない。こんなことは、今までなかったと思う。
 諦める、という選択肢は跡部の中になかった。宍戸が、どうしても忍足でないとだめだと言うのなら、認めるぐらいはしてやってもいい。だが、それと宍戸を諦めるということは全く別の問題だ。
 やはり、ここは一度宍戸と直接話をするべきだろう。そう結論を出すと、跡部は立ち上がろうとして、──膝にジローを乗せたままだったことを思い出した。
 最近元気のなかったジローが、滝の発言にようやく笑顔を見せたのだ。一人置いていくのは忍びない。跡部は、ジローのことも宍戸と同じくらい大切に思っていた。
 跡部の立ち上がろうとする気配に気づいたのか、ジローは勢いをつけて起きあがる。それから身体ごと振り向いて、笑った。
「大丈夫。亮ちゃんは、まだ跡部のことが好きだよ」
「ジロー」
 そういえば先程滝にもそんなことを言っていたな、と跡部は思い返す。あの時は黙り込んだ自分のかわりに適当なことを口走ったのかと思ったが、どうやらジローは本気でそう思いこんでいるらしい。何を根拠に、と少々呆れながらも、跡部はジローの言うことは真実であるような気がした。ジローの口から出た言葉なら、信じられるような気がする。例えそれが、自分を勇気づけようという想いから口にしたものなのだとしても。
 跡部は軽く微笑みながら、ジローの頭を撫でた。
「お前は、おかしな奴だな」
「えへへ〜、跡部に褒められちゃった!」
 褒めてねえよ、と今度は苦笑をこぼし、跡部は立ち上がる。置いてあった本を手にすると、じゃあなと言って歩き出した。いってらっしゃ〜い、というどこか気の抜けた声を背に受け、跡部は思った。
 いつだって、自分の赴く先には宍戸がいるのだと。
 
 
 
 
 屋上で宍戸の姿を見つけ、跡部はゆっくりとした足取りで近づいた。気配に気づいたのか、宍戸が顔を上げる。
 「……跡部」
「よお」
「なんか、用か」
 そう言いながら、宍戸はそわそわと落ち着きなく視線を彷徨わせた。まるで、誰かの助けを求めているかのように。
 そんな宍戸に、跡部は無意識のうちに舌打ちをする。跡部の知る宍戸は、何があろうと、絶対にこんな弱者の態度を取ることはなかった。都大会で敗北を喫し、レギュラーから落ちたあの時でさえ、宍戸の目は真っ直ぐに前を見ていたというのに。
 本当に、一体何が宍戸をこんな風に変えてしまったのだろう? 誰が、と言うべきだろうか。忍足なのか、それとも他の誰かなのか。わからなかったが、自分は決してその相手を許すことはないだろう、と跡部は思った。
「話がある。ついてこい」
 それだけ言うと、跡部は踵を返した。宍戸が後ろで何か言っていたが、聞かなかったことにする。屋上の扉を開けたところで、どうやらついてくる気になったらしい、宍戸の足音が耳に届いた。
 
 
 
「話って、なんだよ」
 部室に足を踏み入れた途端、宍戸はそう聞いてきた。自分と二人きりでいるという状況が、よほど居心地悪いのだろう。そう悟って、跡部は口の端を上げた。扉の前に立ったままの宍戸に近づくと、右手を伸ばす。宍戸の身体が、びくりと大きく震えた。それを鼻で笑うと、跡部は指先で宍戸の頬を撫でる。宍戸は、ぱちぱちと瞬きを繰り返した。それから、怯えたような目つきで跡部を見てくる。
 今、宍戸は何を考えているのだろう。少し前なら容易に読みとることの出来たそれが、今では欠片もわからない。それが、跡部には腹立たしかった。そして、少しだけ哀しかった。自分と宍戸は違う人間なのだと思い知らされるようで、胸が痛んだ。
 宍戸の視線を絡め取ると、跡部は端的に言い放った。
「俺は、お前が好きだ。お前は?」
「……っ」
 宍戸は、息を飲んだ。大きく目を見開いて、呆然とした面もちになる。微かに震えているようだ。だが、それでも跡部から目を逸らそうとはしなかった。
 今なら、真実が聞けるかも知れない。跡部は希望を抱いた。
 それ以上何も言わず、ただ宍戸を見つめる。余計な口を挟まず、宍戸の口から答えを聞きたかった。
 
 
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2003 12/13