71:保健室(宍戸と忍足)
 

「忍足遅いね〜」
 てっきり寝ているとばかり思っていたジローが、目を閉じたままそう呟いた。
 起きてたのか、と宍戸は膝の上のジローを見下ろす。
 三年は午前中で授業が終わったため、二人は図書室まできていた。
 先ほどまで一緒にいた忍足は、用があるといって抜け出したきり戻ってこない。
 講師役の忍足がいなくなり、元々勉強の好きではないジローは宍戸の膝で昼寝を始め、宍戸は宍戸で置いてあった雑誌を読みふけっていた。
 
 
 扉の開く音に、ようやく忍足が戻ってきたのかと視線をやる。
 だが、そこにいたのは忍足ではなく、心持ち顔を強ばらせた跡部だった。
 声をかける間もなく、跡部はこちらに足早にやってくる。
 宍戸の目の前で立ち止まると、おもむろに右手を突きだした。
 驚きながらもその手に視線を移し、宍戸は包帯がほどけかけていることに気づく。
「お前、何ほどいてんだよ」
「ほどいてねえ。ほどけたんだ。さっさと直せ」
「てっめえ、……」
 当然のことのように言う跡部に、宍戸は一瞬腹を立てた。
 だが、言っても無駄なことは、長いつきあいでわかりきっている。
 宍戸は小さく息を吐くと、跡部の腕に手を伸ばした。
 その動きで、膝の上のジローが転がる。
「悪い、大丈夫か?」
「う〜ん」
 肯定とも否定ともとれる答えを返し、ジローは再び宍戸の膝に頭を乗せ目を閉じた。
 宍戸が包帯を巻き直しているのを、跡部が物言いたげに見てきた。
 その視線に、宍戸は眉をひそめる。
 跡部は、曖昧なものを嫌う。
 こんな風に、相手に気づいて貰うのを待つことなど殆どないと言ってもよいだろう。
 何か、よほど言いづらいことでもあるのだろうか。
「跡部?」
 宍戸は、促すようにそれだけ口にした。
 その言葉に、跡部は仏頂面のまま口を開く。
「お前は、俺がいればそれでいいだろう?」
「は?」
 突然跡部が妙なことを言いだしたので、宍戸は慌てた。
 人気のない図書室とはいえ、無人な訳ではないのだ。
 誰に聞かれているかわからない。
 宍戸は辺りを見渡したが、どうやら自分たちに注意を向けている者はいないらしい。
 そのことに安堵すると、今度は腹が立ってきた。
「お前なあ、いきなり何言ってんだよ」
「宍戸」
 名前を呼ばれ、その真剣な瞳に、宍戸は捕らわれる。
 全く、この男は綺麗な顔をしていると思う。
 鋭いまでの眼差しに、誤魔化すことは出来ないと観念した。
 自分にはわからないが、きっと今この場で確認しておきたい理由があるのだろう。
「俺は。……お前がいて、ジローがいて、そんで、テニスができれば、それでいい」
「そうか」
 自分の口にした言葉が、跡部の欲していたものだったのかは、わからなかった。
 けれど、跡部が優しい表情になったので、きっとこれで良かったのだと思う。
 それから跡部は、思い出したように忍足の名を口にした。
「あー。忍足、抜けたまま帰ってこねえんだよな。お陰でジローは寝ちまうしよ」
「忍足なら、屋上にいたぞ」
「屋上?」
 まず、何故そんなところに、と疑問に思った。
 そして、跡部のほどけた包帯を思い返し、まさか、と思った。
 跡部の包帯は今朝宍戸が巻いたもので、あれだけきつく巻いたものが日常生活ぐらいでほどけるはずがなかった。
 宍戸は、ばかやろうと口の中で呟く。
 跡部は無言で、宍戸の膝に乗ったままだったジローを抱き起こす。
 身軽になった宍戸は、そのまま図書室を後にした。
 
 
 
 
「おお?」
 屋上へ駆けつけた宍戸が最初に耳にしたのは、そんな間の抜けた言葉だった。
 図書室から全速力で走ったため、さすがの宍戸も息切れを起こす。
 肩で息をしていると、近寄ってきた忍足が背中を撫でてくれた。
 そのままの状態で、宍戸は忍足を見上げる。
 忍足は微かに笑いながら、
「なんや、そんな色っぽい目で見つめられたら、俺勘違いしてまうやん」
「お前」
「ん?」
「跡部に……」
 ああ、と忍足は肩をすくめた。
 それから、お前の旦那、嫉妬深くて敵わんわと苦笑する。
 その頬が赤くなっていることに気づいて、宍戸は顔を歪めた。
「殴られ、たのか?」
「それやったら、こうして話すこともできひんかったやろな」
 確かに、跡部が本気で殴ったとしたら、この程度では済まないだろう。
 そのぐらいの分別はあったことに、宍戸は安堵のため息を漏らした。
 白い頬に残る痛々しい痕跡を、そっと指でなぞる。
 くすぐったいと、忍足が笑った。
「行くぞ」
 忍足から手を離すと、宍戸はそう宣言した。
 どこへとは言わなかったが、忍足は何も聞かずについてくる。
 
 
 
 
 たどり着いた場所は、保健室。
 休憩中なのか、そこは無人だった。
 宍戸は遠慮なく中へ入ると、忍足に座るよう促す。
「なんや、手当してくれるんか?」
 軽く頷くと、宍戸は薬品棚を漁った。
 目当てのものを取り出し、忍足に向き直る。
「つっても、湿布貼るぐらいだけど」
「じゅうぶんや」
 宍戸が些か乱暴な手つきで湿布を貼ってやると、忍足は目を細めた。
「なあ宍戸。跡部の包帯巻いたん、お前やろ?」
「え? あ、ああ」
 どうして、わかったのだろう。
 宍戸が頷くと、忍足はおかしそうに笑った。
 何がそこまでおもしろいのかわからず、宍戸は首をひねる。
 ただ、なんとなく馬鹿にされているような気がして、すねをけっ飛ばしてやった。
「痛た、けが人相手に酷いわ〜」
「うっせ」
 残りの湿布を棚にしまうと、再び忍足の向かいに座る。
 どう切り出そうか少し迷って、結局そのまま言うことにした。
「悪かったな」
「何が?」
「跡部が、ぶったりして」
「ああ。宍戸が謝ることとちゃうやん。それともあれか、出来の悪い旦那ですまんってか?」
 茶化す忍足を睨み付けてから、宍戸は視線を落とした。
「俺は」
「うん」
 忍足は、続きを促すように軽く相づちを打つ。
「俺は、俺のことであいつが誰かを傷つけるのは、嫌なんだ」
「うん」
「どうして、あいつにはそれがわからないんだろう」
 あのとき、確かに自分の気持ちは通じたはずなのに。
 跡部もわかってくれたのだと、そう思ったのに。
「跡部は、それだけお前が大切なんやろ」
「だからって」
 宍戸は、静かな口調で言う忍足に反発しかけたが、その目の優しさに、言葉を途切れさせる。
 忍足の目も、口調も、とても優しくて、あたたかい。それなのに、見ていると苦しくなるのは何故なのだろう。
 宍戸は、無意識に制服の裾を握りしめていた。
「俺かて、好きな奴が酷い目におうたりしたら、黙って見とるなんてできひんし」
「お前も?」
「ああ。当然やろ。ただ、俺の場合は、もっとばれんように上手くやるけどな」
 跡部は頭ええのに、そういうところはアホやなあ。そう言って、忍足は笑った。
 その笑顔に、宍戸は何か違和感を覚える。
 それから、ふと疑問に思ったことを訊ねてみた。
「忍足。お前、好きな奴、いるのか?」
 宍戸がそう言うと、忍足は目を見開く。
 ほんの一瞬のことだったので、見間違いかも知れないと思った。
 忍足は、何故か苦笑しながら、
「もう、おらん」
「もう?」
「……その子は、他にいい人がおるんよ」
「えっ」
 忍足の言葉に、宍戸は驚いた。
 忍足は、振られてしまったのだろうか。
 だが、宍戸には、忍足を振るような女の子が存在するとは到底思えなかった。
「お前、ちゃんと告白したのか? 勘違いとかじゃねえの?」
 忍足は優しいから、誰かに遠慮して言い出せなかったのかも知れない。
 そう思って、宍戸はそう訊ねた。
 すると、忍足にゆっくり頭を撫でられた。
 突然のことに驚いて、宍戸はその手を振り払う。少し顔が赤くなったかも知れない。
「な、なんだよっ」
「宍戸は、人のことばっかり気にせんと、もっと自分のこと考えとったほうがええよ」
「……お前に言われたくねえっつーの」
 宍戸は、思わず呆れ顔になる。
 いつも人のことばかり構っているのは、一体どこの誰だと思っているんだ。
 そういえば、まだ礼を言っていなかったことを思い出し、宍戸は口を開いた。
「あー、その、ありがとうな。色々。お陰で、助かった」
「俺なあ、お礼はモノで貰いたい派やねん」
「わかった、なんか奢る」
「冗談やって。もう、じゅうぶんもろたしな」
「え?」
 じゅうぶん貰ったという忍足に、宍戸は首を傾げた。
 自分は、何か忍足にしてやっただろうか。全く覚えがなかった。
 忍足が自分にしてくれたことなら、いくらでも思い出すことができるのに。
 問いかけようと開きかけた口は、忍足の静かな視線を受け、閉じられた。
 
 
 忍足の目は、なんだか不思議な光を湛えている。
 見ていると吸い込まれるような気がして、宍戸は慌てて目を逸らした。
 
 
 心臓がどくどくとうるさくて、落ち着かない。
 今まで、忍足といる時に、こんな風になったことはなかった。
 一体、何がどうしてしまったのだろう。
 なんだか、忍足と二人きりでいるというこの状況が、酷く居心地の悪いものに感じられる。
「お前は」
 不意に、忍足が言葉を発した。顔を上げると、忍足は微かに笑みを浮かべている。
「お前は、ただ、そこにおってくれたらええんよ」
「忍足……?」
 以前にも、こんな言葉を誰かに言われたような。
 宍戸が思い出そうと試みていると、忍足が立ち上がった。
 何も言わずに出ていこうとするその背中に、ああ、と思う。
 
 
 『お前は、俺のそばにいろ』
 
 
 そう言ったのは、そう言ってくれたのは、跡部だった。
 他のなにもしなくていいから、自分のそばにいてくれさえすればいいと、そう言った。
 
 
 言葉は違っていても、同じニュアンスが含まれているような気がして、宍戸は咄嗟に声をかけていた。
「忍足、お前っ」
 その切羽詰まった口調に、忍足は足を止めた。
「お前、もしかして、お前の好きな奴って……」
「それ以上、口にしたらあかんよ?」
 振り返った忍足の顔が、僅かに歪んでいたので、宍戸はそれ以上何も言えなかった。
「宍戸。お前は、俺の友達や」
 そう言い残して、忍足は今度こそ保健室を後にした。
 
 
 
 
「忍足……」
 残された宍戸が力無く座り込んでいると、その肩を叩く者があった。
 自分一人だとばかり思っていたので、宍戸は飛び上がらんばかりに驚く。
「ジロー!? い、いたのか?」
「亮ちゃん遅いから、迎えに来た〜」
 いつからいたのか、ジローが、目をこすりながら隣にしゃがんでいた。
「お前、今の、誰にも言うなよ?」
「うん、わかってる」
 はっきりとした口調で言うジローに、宍戸は安心した。
「俺、ぜんっぜん気づかなかったんだけど」
「亮ちゃんは、ニブいとこあるからね〜」
 ジローが、間延びした口調でそう言った。
 その頭を軽く小突くと、宍戸は顔を顰めた。
「まさか、忍足も跡部のこと好きだったとはなあ」
 宍戸の呟きに、ジローはゆっくりと倒れ、棚に頭をぶつけた。
「おい、大丈夫か? 寝ぼけてんなよ」
「……亮ちゃんって、ほんっとニブいよね……」
 宍戸に助け起こされながら、ジローは忍足に同情した。
 
 
 
 【完】
 
 
 
 
2004 01/12 あとがき