94:バレンタインディ(跡部と宍戸とジロー)


 ジローがなかなか出てこないので、また寝ているのではと跡部は仕方なく車から降りた。久しぶりに二人で下校している途中、ジローがコンビニへ寄りたいと言ったので車を止めさせたのだ。
 大股で店内へはいると、跡部はまずお菓子売り場を覗く。甘いものが好きなジローのことだから、てっきりそこにいると思ったが、どうやら違っていたようだ。
「あれ、跡部〜?」
「ジロー」
 ひょこりと、棚の陰からジローが姿を現した。
「跡部もお菓子食べたくなった〜?」
 ジローが、両手に抱えたお菓子を差し出してくる。
「いらねえよ」
 跡部の家に行けば、もっと値の張る菓子類がいくらでもあるというのに、何故ジローがこんな安っぽいものをわざわざ好んで買うのか理解できなかった。
「うまいのに」
 残念そうに呟くと、ジローはそのままレジへ向かう。その後ろ姿が淋しそうに映って、跡部は後を追った。
「別に、お前がどうしてもって言うなら、貰ってやってもいいぜ」
「ほんと?」
 会計をすましたジローが、嬉しそうに振り向く。浮かれた足取りでついてくるジローに、跡部は首を傾げながら待たせていた車に乗り込んだ。
「お前は、なにをそんなに喜んでいるんだ?」
 隣に座ったジローが、やはり嬉しそうに笑った。
「だって、俺、跡部が好きだから。好きなお菓子を一緒に食べれてうれしーの!」
「そーかよ」
 あんまりジローがしあわせそうに笑うので、跡部はそれ以上何も言わずに口を閉じる。
 家に着くまで待ちきれないのか、ジローがポッキーの封を開けた。一本を自分で持ち、もう一本を跡部の口へ突っ込んでくる。
「自分で食う」
 顔をしかめて言う跡部の言葉を聞いていないのか、ジローがにこにこと顔を輝かせた。
「美味しいっしょ?」
「甘い」
「ポッキーだからね!」
 美味しそうに頬張るジローにつられるように、跡部もポッキーを食べる。甘いとは言ったものの、それほどしつこくもなく、まあ食べられる味だった。
 もうすぐ家に着くという頃になって、ジローが思い出したように言う。
「そういえば、跡部見た〜?」
「なにをだ」
「コンビニの入り口んとこ、すげかったよね! チョコがい〜っぱいでさあ、俺ぜんぶ食べたくなっちゃったもん」
「そうだったか?」
 ジローに気を取られていた跡部は、店内の様子など見ていなかった。そういえば、入り口の辺りは色鮮やかだったような気もする。
「もーすぐバレンタインだもんな!」
「ああ……今年は平日だったか」
 テニス部の部長で生徒会長でもある跡部は、日本人離れした容姿や華やかな雰囲気、家柄などのせいもあり、幼稚舎の頃から大量のチョコレートを貰っていた。断るのも処分するのも鬱陶しくて仕方がないと、昨年は土曜日だったこともあり、跡部はなんだかんだと理由をつけて学校を休んだ。それでも、家まで押し掛けて来る者、月曜日に持ってくる者が後を絶たなかったのだが。
 今年は卒業式の準備もあるため、休むわけにはいかないだろう。今から当日の惨状を想像して跡部は頭を痛める。いっそのこと、バレンタイン禁止令でも出してやろうか。
「亮ちゃんにチョコもらえるといいね!」
 楽しそうに、ジローが跡部を振り向いた。一瞬間をおいて、跡部は口の端をあげる。
「あいつが、んなことする訳ねーだろ」
「そーかな?」
「ああ」
 跡部と宍戸は恋人同士という間柄ではあったが、とにかく宍戸はイベント事に興味のない人間で、クリスマスすら跡部が声をかけなかったら何も考えずに部の会へ出席してしまうところだったぐらいだ。そんな宍戸が、バレンタインだからとチョコを贈ってくるとは到底思えなかった。
 しつこくねだればくれるかも知れないが、そこまでして貰うチョコになんの意味があるというのか。
「でもさあ」
 しつこく食い下がるジローに目を向けると、強く腕を掴まれる。
「跡部は、亮ちゃんがチョコくれたら嬉しいでしょう?」
 真剣な顔で問われ、思わず頷いた。
「そりゃあ、まあ……な」
 宍戸が、自発的にくれるというのなら、受け取ってやらないこともない。そんな意味のことを口走った跡部に、素直じゃないとジローが笑った。


 部活を引退してからというもの、忍足は以前よりも宍戸と時間をともにすることが増えていた。今も、学校近くの忍足が住むアパートに宍戸と二人でいる。特になにをするでもなく、お互い雑誌を読んだり他愛もない会話をしたりして過ごしていた。
「ん?」
 表の錆びた階段を駆け上ってくる音がして、宍戸が雑誌から顔を上げる。アパートの二階には忍足以外の住人もいたが、ほとんどが勤め人で夕方にいることは滅多にないので、恐らく自分の客だろうと忍足は立ち上がった。扉の前へ立ったところで、ちょうどチャイムが鳴る。
「忍足〜! 開けて〜!」
 声の主が誰だかわかって、忍足はすぐに扉を開けてやった。ジローが、勢いよく飛び込んでくる。
「亮ちゃんっ!」
「ジロー?」
 コタツに入って寝ころんでいた宍戸へ飛びつこうとしたジローを、忍足は後ろから掴んで止めた。
「ジロちゃん、とりあえず靴脱いで」
「あ、そっか。ごめん忍足!」
 まだ靴を履いたままだったことにようやく気づき、ジローは素直に従う。ぽいぽいと投げるように靴を玄関へ置くと、今度こそジローは宍戸に飛びついた。
「いでっ! いてえよジロー」
 ジローに上からのしかかられ、宍戸がもがく。ジローは、嬉しそうにはしゃいだ声を上げた。
「ジロちゃん、宍戸つぶれてまうで」
 後ろから、抱えるようにしてジローを持ち上げてやると、下敷きになっていた宍戸が赤い顔で身体を起こした。
「ジロー」
 じろりと、ちっとも迫力のない顔でにらむ宍戸に、ジローが笑いながらごめんなさい!と抱きつく。
「ラブシーンなら、よそでやってや」
 ため息をつきながら、忍足はキッチンスペースに立った。ジローに飲み物を出すと、ありがとうと微笑まれる。
「で、どうしたんだよ?」
 宍戸が訊ねると、ジローはマグカップに口をつけながらもじもじと手を動かした。ジローは確か今日、跡部の家に行くと言って帰っていったはずだ。跡部と喧嘩でもしたのだろうか。そう考えて、忍足は否定する。幼なじみには甘い跡部が、ジローを相手に怒るはずがなかった。
「亮ちゃんさあ」
「ん?」
 宍戸の膝の上に乗ると、ジローは首にしがみつく。じっと宍戸の顔を見上げるジローをコタツの向かいで見ながら、忍足は肩をすくめた。端から見れば二人の関係を怪しんでしまうような行為なのだが、ジローの性格からすればただのスキンシップにしか過ぎない。突っ込むだけ無駄というものだ。
 ジローの相手は宍戸に任せて、一眠りしようかと思った瞬間、耳に届いた言葉に忍足は居住まいを正した。
「亮ちゃんは、跡部が好きでしょう?」
「なっ」
 跡部と宍戸が恋人同士であることは、テニス部の正レギュラーなら誰でも知っていることだ。隠す必要などないのだが、宍戸は狼狽えながら視線を巡らす。忍足がいることを思い出したのか、ちらちらとこちらを見てくるので、にやりと意味深に笑ってやった。宍戸が、顔を赤らめる。
「もー、忍足はいいから!」
「ひどいことゆうなあ、ジロちゃん」
 こっちを見ろと宍戸を引っ張るジローの言いぐさに、忍足は苦笑した。
「亮ちゃん、跡部が好きでしょう?」
 しばらく間があって宍戸がああとか細く呟く。ジローが、とても嬉しそうに笑った。
「じゃあさじゃあさあ、跡部を喜ばせてあげたいって思うよね?」
「はあ?」
「思うよね?」
 更に問いかけてくるジローへ、曖昧に宍戸が頷き返す。やったあと、ジローが両手を上げた。
 なんとなく、忍足にはジローが何を言いたいのかわかった。宍戸の反応を確かめたくて、忍足は目を凝らす。
「じゃあさ、亮ちゃん跡部にチョコあげなよ!」
 忍足にとっては予想通りの言葉だったが、宍戸にとっては違ったらしい。
「……はあ!?」
 目を丸くして、宍戸はそう叫んだ。
「跡部、すっごい喜ぶよ〜」
「あのなあ……」
 にこにこと笑うジローとは対照的に、宍戸が顔を引きつらせた。


 バレンタイン当日、跡部は朝から生徒会室へ籠もっていた。名目上は卒業に向けての引継作業ということになっていたが、実際は跡部へのチョコ対策のようなものである。暗黙の了解で、扉には鍵がかけられていた。これで、いま中にいる者以外は誰も入ってこられないはずである。頻繁に扉がノックされたが、おおかた跡部目当ての女生徒だろうと、他の役員も気にせず仕事を続けていた。
 一仕事終えたところで、跡部の携帯が鳴る。マナーモードにし忘れていたらしい。着メロが宍戸専用のものだったので、跡部は届いたメールに目を通した。
 昼食を一緒に取ろうという誘いに、少し悩んで了承の返事を返す。部室なら、鍵を閉めれば誰も入ってこられないだろう。跡部も他の三年とともに既に引退した身だったが、元部長としての功績を考えれば許される範囲だと勝手に判断した。
 昼休みになって、跡部はため息をつきながら部屋を出る。待ちかまえていた女生徒に囲まれそうになったところを、同じく待っていたらしい樺地が助けてくれた。
「待ってたのか?」
「ウス」
「ありがとよ」
 さすがの跡部も、女生徒の暴走には対処しきれない。珍しく礼を言う跡部に、樺地は首を振る。
「宍戸さんが、部室でお待ちしています」
「ああ」
 もしかして樺地は宍戸に頼まれたのだろうかと思いながら、跡部は部室へ向かった。


 跡部ほどではないとはいえ、忍足も氷帝学園ではそれなりの人気を誇っていた。適当にあしらうのにも限界があり、昼休みになると同時に教室を抜け出す。宍戸が同じように廊下へ出たことに気づき、先日のジローの言葉を思い返して後をつけてみることにした。歩く方向から、どうやら宍戸は部室へ向かっているらしい。部室なら女生徒も簡単に入ってこられないだろう。後に続こうとしたところで、忍足ファンの女生徒がやってくるのに気づき、慌ててあまり使われていない非常階段へ逃げ込んだ。女生徒がそのまま通り過ぎたことにほっと息をつくと、階段の上から声をかけられる。
「こんなところで何こそこそしてやがる」
 顔を上げると、跡部がゆっくりと降りてくるところだった。体勢を直すと、忍足は笑みを浮かべて跡部の到着を待つ。
「それはこっちの台詞や。跡部様ともあろう者が、こないなとこで何してん」
 下卑た笑いを漏らす忍足へ、見せつけるように跡部が人目を引く優雅な笑顔を浮かべた。
「仕方ねえだろ。俺様は、普通にしてると目立っちまうんだよ。てめえと違ってな」
 全く跡部らしい発言だと、忍足は苦笑する。
「宍戸なら、部室へ行ったで」
「知ってる」
 淡々と答えた跡部に、軽い口調で言った。
「なんや、逢い引きか?」
「ああ」
 からかうつもりの言葉は、あっさりと肯定される。驚いた顔で瞬く忍足の肩に通り過ぎざま手をかけ、跡部が笑みとともに囁いた。
「てめえに見せつけてやれなくて残念だぜ」
「……いらんわ、そんなサービス」
 渋い顔で呟く忍足の肩を叩いて、跡部は去っていく。その背を見ながら、いつになく上機嫌で気持ちが悪いと忍足は身体を震わせた。


 人目に付かない場所を選んで移動しながら、跡部はようやく部室へたどり着いた。中へ入ると、ぬかりなく鍵を閉める。ロッカー室を覗くと、ソファーに座っていた宍戸が顔を上げた。
「遅かったじゃねえか」
「なんだ。そんなに俺に会いたかったのか?」
「ばーか」
 隣に座ろうとして、ジローが横たわっていることに気づく。宍戸に膝枕をしてもらったまま、すっかり眠り込んでいるようだ。まさかジローを床に転がす訳にもいかず、跡部は一人がけのソファーへ腰を下ろした。
「くたびれてんな。疲れてんのか?」
「最後の大仕事だからな」
「大変だな、生徒会長様は」
「ふん」
 宍戸からの労りの言葉に、跡部は片眉をあげて応える。
「飯にしようぜ」
「あ、その前に」
 宍戸の言葉に、弁当──もちろん、料亭から取り寄せたものだ──をひろげようとした跡部は手を止めた。宍戸が、傍らに置いていたカバンから小さな袋を取り出す。
「これ、お前に」
 差し出された包みに、跡部は一体なんの冗談かと顔をしかめた。淡いピンク色の包装紙でくるまれたそれは、どこからどう見てもバレンタインにつきもののあれだとしか思えない。だが、宍戸が恋人とはいえ男にそんなものを渡すような人間ではないことは、跡部が一番よく知っている。
 ということは、誰かの策略にはまったか、もしくは強引に押し切られたか。表情のない顔で、跡部は宍戸の膝に頭を乗せ、すやすやと寝息を立てている幼なじみを見下ろした。
「跡部?」
 一向に受け取ろうとしない跡部に、不審に思ったのか宍戸が首を傾げる。
「いらねえよ」
「えっ」
 跡部が素っ気なく断ると、宍戸は傷ついたような顔をした。引っ込みがつかないのか、チョコを持った手は差し出されたままだ。目を見開いた宍戸の顔に、罪悪感がわいて、弁解のように口を開く。
「どうせ、ジローにでもなんか言われたんだろ? そんなもん、いらねえ」
 宍戸が自分から贈ってくれるものでなければ、なんの意味もないのだ。嘆息した跡部に、宍戸が手を震わせた。
「違うって。そりゃ、ジローに言われなきゃそんな気にはならなかっただろうけど、でも、これは俺がお前にやりたくて買ったんだ」
 宍戸の言葉に、跡部は顔を上げる。宍戸が、顔を赤らめながら続けた。
「お前が、好きだって思うから。お前が喜ぶなら、イベントに乗ってやってもいいかなって思ったんだ」
「宍戸……」
 喋ることを得意としない宍戸が、真摯に自分の気持ちを伝えようとしてくれている。胸を打たれて、跡部は言葉を詰まらせた。しばらく無言で見つめ合った後、宍戸は口をとがらせる。
「思ったんだけど、お前がいらないなら俺が食う」
 自棄になったように包み紙を開けようとした宍戸を慌てて止めると、跡部は手を差し出した。
「くれるってんなら、貰ってやってもいいぜ?」
「最初からそう言え、ばか」
 小さく呟いて、宍戸が包みを投げてくる。
「投げるこたねえだろうが!」
 焦りつつ受け止めると、宍戸が笑った。思案して、跡部は包みをテーブルに置く。飯食ってから食べるのかと言う宍戸には答えず、跡部は立ち上がった。
「お前の気持ち、確かに受け取ったからな」
 笑いながら、宍戸に口づける。何度かわしても慣れないらしく、宍戸は一瞬身を引こうとしたが、逃げ出すことはしなかった。次第に深くなっていく口づけに、宍戸の呼吸が乱れる。部室であることを忘れそうになったとき、不意に視線を感じて跡部は顔を離した。
「あれ、やめちゃうの〜?」
 いつの間に起きたのか、ジローがきらきらとした目で身を乗り出すように座っている。
「じ、ジロー!」
 赤かった顔を更に赤くすると、宍戸が跡部を突き飛ばした。
「お前なあ、ジローいること忘れてんじゃねえよ!」
 別に忘れていた訳ではなかったが、そう言ったら更に怒らせてしまうことは明白だ。跡部はわざとらしく困った顔をしてみせると、悪かったと宍戸を抱き寄せる。腕の中でもがいていた宍戸がおとなしくなったところで、ジローが俺も混ぜてと飛びついてきた。
「亮ちゃん俺もチョコ欲しい〜!」
「言うと思った」
 跡部とジローの間から顔を出すと、宍戸がカバンからもう一つ包みを取り出す。
「中は、お前が好きなやつ」
「羊!?」
 きゃっほうと立ち上がったジローに、宍戸が無茶言うなと突っ込みを入れた。
「じょーだんだって! ムースポッキーでしょ? うっれし〜!」
 ありがとう〜!とひとしきり騒ぐと、ジローは部屋から出ていこうとする。
「飯食わないのか?」
「俺、今日食堂!」
 片手を上げ、ジローは跡部に向かってウインクした。
「がんばって跡部!」
 ぴらぴらと手を振って去っていくジローに、跡部も手を挙げる。ジローの出ていった扉を眺めながら、宍戸がぽつりと呟いた。
「がんばれって何だ?」
「この状況でその質問が出てくるあたり、さすが宍戸と言うべきか?」
 めまいを覚えながら言う跡部に、むっとした顔で宍戸が振り向く。何か言おうとした唇をふさいでやると、ようやく宍戸は跡部の腕の中にいたことを思い出したようだった。


 バレンタインなど、昔から宍戸にしか興味のない自分には関係のない行事だと思っていたが。こういうのなら悪くはないと、ジローの声援に応えるべく跡部は宍戸をソファーの上に横たえた。


【完】


2005 02/20 あとがき