96:思い出(宍戸)
 
 
 
 あの後忍足の家で朝を待ち、始発で自宅まで戻った。
 連絡を入れなかったことを親に咎められたが、具合が悪かったので友人の家で休んでいたと言い訳をした。
 顔色の悪さにあっさりと信じてもらえたまでは良かったが、今度は無理矢理部屋に押し込まれた。
 あれこれ詮索されなかったことに安堵しながら、宍戸は忍足に借りた服を脱いで部屋着に着替える。
 忍足に手当をしてもらったものの、あちこち痛む身体を引きずって帰ってきたことで、自分で思っていたよりも疲労していたらしい。
 ベッドに潜り込んだ途端、宍戸は意識を手放した。
 
 
 熱を出すのなんて、何年振りだろう。
 次の日から、宍戸は熱を出して寝込むはめになった。
 自由にならない身体をもどかしく思い、宍戸は軽く舌打ちする。
 身体中が軋むように痛むのは、何も熱のせいばかりではないだろう。
 その理由と、これから先のことを考ると、目眩までしてくるようだ。
 自分があまり病気をしないことは、長いつきあいの跡部にはわかりきっていることだから、見舞いに来ることはないにしても、理由ぐらいは尋ねられるかも知れない。
「体調管理も出来ねえ部員を持つと、苦労するぜ」とかなんとか言って。
 でも本当は、例え口ではあれこれ言ったとしても、跡部が誰よりも自分を心配してくれていることを、宍戸は知っていた。
 跡部自身は何も言わないが、その分目が語っていると思う。
 誰と何をしていても、感じる強い視線。辿った先には、いつも跡部の青い双眸があった。
 目が合うと跡部は、瞬きもせずにじっと見つめてくるので、宍戸も逸らさずに見つめ返しし、やがて満足するのか、跡部は無言で踵を返す。
 今まで数え切れないくらい、そんなことばかりを繰り返してきた。
 自分が跡部に抱いている感情など、わざわざ言うまでもなく跡部はお見通しだろう。
 跡部は常に先のことを考えて行動をするから、自分に何も言ってこないのは何か考えがあってのことだと思う。
 それは、同性であることに対しての懸念なのか、それとも他の理由からなのか、宍戸にはわかりかねたが、それでも自分から行動を起こす気にはならなかった。
 跡部の破天荒な言動にも魅力を感じていたから、それを制限するような真似をしたくはなかったのだ。
 それでも、いつか。いつかきっと、跡部はあの顔に似合わず柄の悪い口調で、自分への想いを伝えてくるだろうと、そう思っていた。
 そう信じて、安心しきっていたのだと思う。
「……その結果が、これかよ」
 そう呟いて、宍戸は苦笑した。
 笑っただけで、傷ついた部分がひきつって痛んだ。
 当分、学校へ行くのは無理そうだ。行ったとしても、とてもじゃないが部活には出られないだろう。
 跡部の顔を見ずにすむのは、良かったような気もする。
 鈍い振動音が耳に届いて、宍戸は顔を上げた。
 鞄に入れたままの携帯が振動しているらしいことに気づき、手を伸ばす。
 鳳からのメールであることを確認すると、宍戸はため息を吐いた。
 それは、果たして安堵からだったのか、落胆からだったのか。宍戸自身にも、判断が付かなかった。
 それから、随分前に忍足からもメールが届いていたことに気づいた。
 内容は、体調を気遣う言葉と、皆には上手く説明しておいたということ。
 皆の中に、跡部は含まれるのだろうか。
 身体の傷が癒えるまで、学校には行かない方がいいかも知れない。
 こんな目にあったことが知れたら、あの男は本当に、何をしでかすかわからない。
 それ程遠くない昔の記憶を辿り、宍戸は目を閉じた。
 
 
 
 
「おはようさん」
 下駄箱で声をかけられ、相手が忍足であることに宍戸はホッと息を吐いた。
 その様子に、忍足は目を細める。
 なんでもない口調で、
「なんや、跡部に絡まれとったみたいやな?」
「……見てたのか?」
「助けたろかとも思ったんやけど、俺が入るよりわんこに任せとったほうがええかなって思て」
「わんこ?」
 何を言っているのかと宍戸が顔を上げると、忍足は薄笑いを浮かべて明後日の方を向いていた。
 その視線の先に鳳の背中を見つけると、宍戸は顔を顰める。
 幾らなんでも、犬扱いはないだろう。
 一旦はそう思ったものの、言われてみれば自分の後をついてくる様は、まるで忠犬のそれのようだとも思い直す。
「……くっ」
「あ、笑た。これで宍戸も同罪やで?」
「あ? 同罪ってなんだよ」
「宍戸も、鳳をわんこやって認めたってことや」
 にやにやと笑いながら軽口を叩いてくる忍足に、宍戸も笑いながら言い返そうとした。
 そのとき、強い視線を感じて宍戸は身体を強ばらせた。
 見なくても、わかる。これは、跡部の視線だ。跡部が、また自分を見ている。
 そう意識すると、宍戸は益々身体を縮こまらせた。
 宍戸の様子に気づいた忍足が、まだ具合が悪いのかと訊ねてくる。
 首を振って否定すると、宍戸は教室に向かって歩き出した。
 少し遅れて、忍足の足音が聞こえてくる。
 小声で、
「跡部、こっち睨んどったな。大丈夫か?」
「平気だ」
 忍足の問いに強い口調でそう答え、宍戸は振り返らずに歩いた。
 ばれていないはずだ。自分に何があったかなんて、あいつにはわからないはず。寝ている間に、怪我はすっかり治ったのだから、歩き方も不自然ではないはず。だから絶対、ばれていない。大丈夫、大丈夫だ。
 自分にそう言い聞かせると、ちりちりと焼け付くような視線を感じながらも、宍戸は歩き続けた。
 
 
 昼休みになって、宍戸は忍足と屋上へ上がっていた。
 普段なら教室でジローや鳳を待つのだが、万一跡部が通りがからないとも限らないので、今日だけは先に来ることにしたのだ。
 宍戸が手すりにもたれて座ると、忍足はその横に立った。手すりに体重をかけながら、校庭を見下ろしているようだ。
「なあ、宍戸」
「ん?」
「考えたんやけど、このまま隠し続けるのは無理なんとちゃう?」
 何がとか、誰にとか、どうしてとか、そんなことは聞くまでもなかった。
 跡部は、もう気づいているはずだ。自分の挙動が不審であると。何があったかまではわからなくとも、何かがあったことには気づいたはずだ。
 忍足に言われるまでもなく、それは宍戸もわかっていた。
 何があったのかと問いつめられたとき、自分は隠し通せるだろうか。否、隠し通さねばならぬのだ、絶対に。
「なんかの拍子でばれるより、宍戸の口からゆうたほうがええのとちゃう?」
 あいつはきっと、宍戸を傷つけるような真似だけはしないだろうと言う忍足に、宍戸は肩をすくめる。
 それから忍足を見上げると、
「なに。お前、そんなに跡部に殺されたいのか?」
「……やっぱり、俺が狙われるん……?」
 宍戸を襲った相手がどこの誰だかわからない以上、怒りの矛先が忍足に向くことは充分考えられた。
 なんと言っても、あのとき宍戸は跡部ではなく、忍足の元へ向かったのだ。
 何故自分を差し置いて、と跡部が思うであろうことは容易に想像が出来た。
 宍戸が困ったように笑うと、忍足は今にも泣きそうに顔を歪める。
「俺なあ、腕っ節にはそれなりに自信あんねやけどな。本気の跡部には、どうしたって勝てそうにないわ」
「俺が止めたりしたら、余計怒るだろうしな、あいつ」
「なんのお話〜?」
「ジロー!?」
 いつの間に来ていたのか、ジローが目を輝かせて立っていた。
 一体どこから聞いていたのかと焦る二人を後目に、ジローは俺も混ぜて〜、と宍戸に飛びつく。
 痛えよ、とその頭を小突きながらも、宍戸は久しぶりに会った幼なじみに笑いかけた。
「亮ちゃん、もう熱下がった? どこも痛くない?」
「ああ、大丈夫だ」
 ジローを膝に乗せて楽しそうにしている宍戸に、忍足がため息を吐いたようだ。
 隣に座り込むと、飯にしよか、と購買で買ったパンの袋を開ける。
 自分も持参した弁当をひもときながら、美味しそうにパックのジュースを飲むジローに目を止め、宍戸はそういえばと呟いた。
「ジロー、覚えてるか? 昔、跡部が先輩ぼこぼこにしたの」
「あ〜! 覚えてるよ! 跡部ちょうかっこよかったよね!」
「へー、そないなことがあったん?」
「幼稚舎の頃のことだから、お前は知らないだろうな」
 宍戸と跡部とジローの三人は幼稚舎からの幼なじみで、その頃から親の言いつけで髪を伸ばしていた宍戸は、何かとクラスメイトや上級生にからかわれることが多かった。大抵は無視していたそれが、段々エスカレートしてきたある日。宍戸に掴みかかってきた上級生を、跡部が徹底的に叩きのめしたのだ。頼むからやめてくれと懇願する相手に馬乗りになって、騒ぎを聞きつけた教師が止めに来るまで一方的に殴り続けた。相手の顔は、その時既に倍以上に膨れあがっていた。自分が泣いても止めようとしない跡部を、宍戸は幼心に心底怖いと思った。自分は、なんて恐ろしい男に好かれてしまったのだろうと。
「でもさ、あれぐらいとーぜんだよ。亮ちゃんにあんなことしてさ! 俺だって、あのとき蹴り入れてやったもんね〜!」
「ジロー、お前なあ……」
 悪びれることなく笑うジローを、さすがに宍戸も咎めたが効果はないようだ。
 隣を振り向くと、跡部にばれたときのことでも想像しているのだろう、忍足が青ざめた顔で俯いている。
 その肩を軽く叩くと、宍戸は忍足にしか聞こえないくらい小さな声で言った。
「だから、絶対言うなよ」
 このまま、何もなかったことにしてしまおう。それが、誰にとっても一番よいことなのだ。
 もう二度と、あんな、自分のために他人を傷つける跡部の姿など、見たくはなかった。
 
 
「ひどいです! ひどいです〜!」
「だから悪かったっつってんじゃねえか」
「宍戸さ〜ん!」
「うっせーな、着替えられねえだろ!」
 泣きそうな顔で迫ってくる長身の後輩に辟易しながら、宍戸は自分のロッカーを開けた。
 荷物を放り込み、着替えに必要なものを取り出す。
 その横で、いまだ鳳がひどいひどいと喚いている。
 宍戸は忌々しげに、隣で着替えている忍足を睨み付けた。
「てめえ、何知らんぷりしてんだよ?」
「そうですよ! 忍足先輩が宍戸さんを連れてったそうじゃないですか!」
「え、俺かい!?」
 楽しそうに二人を眺めていた忍足が、目を丸くして鳳を見る。
 そこへ、珍しく起きていたジローまでもが、そうだそうだ!、と鳳に加勢した。
 口々に責められた忍足は、とりあえずこの場は逃げた方がいいと思ったのか、扉へ向かった。
「何を騒いでやがる」
 忍足が開けるより先に、跡部が外から扉を開けた。
 宍戸は一瞬跡部に視線を向け、なんでもない素振りでロッカーに向き直る。
「いや、なんでもないねんて跡部」
「なんでもなくないです! 皆さんひどいんですよ! 俺、今日お昼に宍戸さんのクラス行ったらもういなくて、学食覗いてもいなくて、屋上行ったらもう食べ終わってたんです! 一緒に食べましょうねって約束してたのに、ひどいです〜」
 最後は宍戸に泣きつくようにしがみつきながら、鳳は跡部に訴えた。
 跡部は眉根を寄せると、呆れたようにため息を吐く。
「でかい図体して、飯くらい一人で食えねえのか」
「そういう問題じゃないんです!」
 宍戸さんと一緒に食べたかったのに、と喚く鳳の陰で宍戸は手早く着替えをすませた。
 ラケットを手に、お前も早く着替えろと鳳を促そうとして、誰かに腕を掴まれる。
 背後のロッカーに身体を叩きつけられ、宍戸が顔を顰めながら目を開けると、目の前に跡部の整った顔があった。
「……つっ、なんだよ?」
「跡部部長、何してんすかっ!」
 鳳の制止の声も聞こえないのか、跡部は怖いぐらいに真剣な表情で宍戸だけを見ている。
 その迫力に、室内が静まりかえった。
「誰にやられた?」
 問われた瞬間、宍戸の頭は真っ白になる。
 誰に? 何を? どうして……ばれたんだ? そんな思いが、宍戸から言葉を失わせた。
 目を見開いて呆然としている宍戸に、跡部は再度問いかけてきた。
「答えろ、宍戸」
 凍てつくような冷たい視線に晒され、宍戸は身動きが取れずにいる。
 そこへ、ジローの呑気な声が響いた。
「あっ! 亮ちゃん、キスマーク!」
「えっ」
 ジローの言葉に、皆の視線が宍戸に集中する。
 確かに、宍戸の身体の傷は癒えていた。だが、無数に散らばった鬱血の跡だけは、まだ完全に消えず残っていたのだ。
 そのことを忘れ、宍戸はいつも通りシャツのボタンを開けてしまっていた。
 跡部は、目ざとくそれを見つけたのだ。そして、朝のことから、きっと全てを悟ってしまったことだろう。宍戸が何も言わなくとも、相手を捜し出して危害を加えるかも知れない。
 昔、上級生を殴り続けた跡部の姿を思い出して、宍戸は身体を震わせた。
 もう、跡部にあんな真似をさせるのは嫌だ。それなのに、うまい言い訳の一つも浮かんではこない。こんな時ばかりは、口べたな自分に嫌気がさす。そして、自分のことを知り尽くしている跡部にも。
 焦るばかりで言葉の出てこない宍戸を、跡部が苛立ったように睨み付けてくる。
 最悪の事態が宍戸の頭によぎった時、
「俺や」
 静かな声に、跡部と、一瞬遅れて宍戸が振り向いた。
 視線の先では、忍足がすまなそうな顔で小さく手を挙げている。
 なんだかそこだけが別世界のように見え、宍戸は小さく息を吐いた。
 今、忍足は、なんて言った?
「俺がやったんよ、それ。俺、こないだから宍戸とつきおうてん。ごめんな〜、跡部。それから、鳳も」
 そう言うと、忍足は跡部から宍戸を奪い取った。
 跡部の射るような視線に笑みで返し、忍足は宍戸の背を押す。
 宍戸は展開についていけず、呆然としたまま足を動かした。
 視界の端で、鳳が何か言いたそうにこちらを見ていたが、構っている余裕はなかった。
 
 
 
 部室を出て暫く歩いたところで、宍戸はようやく口を開くことが出来た。
「忍足、お前、何言ってんだよ……?」
「しゃあないやん。ああ言っとけば、跡部かて手ぇ出されへんやろ?」
 本気でつきあっていることにすれば、さすがに跡部が殴りかかってくることもないだろう、と忍足は考えたようだ。
 いくら跡部の宍戸への執着が強かろうと、宍戸が他の人間を好きになることにまで口出ししたりはしないはずだ。
 跡部は大っぴらに宍戸への想いを口にしたりはしないから、余計に。
 確かに、それで跡部が凶行に及ぶ可能性はなくなるかも知れない。
 だが、跡部の怒りの矛先が、全て忍足に向かうことは明白だ。
 それでも忍足は、自分を庇ってくれると言う。
「ほとぼりが冷めたら、別れたってことにすればええやん。な?」
 そう言う忍足の、優しい口調と笑顔に、宍戸は顔を歪める。
 俯いて震える宍戸の身体を抱きとめると、忍足は穏やかな声音で言った。
「俺なら、別に好きな子とかおらんし。気にせんでええよ」
「お前、ばかだろ」
「酷いことゆわんと。こういうときは男前や、ゆうてや」
「ばーか」
 酷い、と忍足が笑うので、宍戸も笑った。
 
 
 
 【完】
 
 
 
 
2003 12/03 あとがき